時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 ぱしん! と硝子が弾けるような音が響いて、一瞬、安綱の視界は真っ白になった。
 いつも通りの世界が、そして耳に放課後の僅かな喧騒が戻ってくる。
 そのことに安堵して、一つ息を吐き。息切れをしている少女の吐息を聞いて、今ここにいるのが自分だけではないことに気づく。
「ミモリさん! 大丈夫!?」
「へぁっ、はい!」
 床に両手をついて辺りを探りながら声をかけると、ひっくり返ってはいるが返事はきた。
「良かったぁ……怪我とかない?」
「ぁ、う、わ、私――」
 彼女が近づいてくる気配、は解ったのだが、目標の位置を確認する前に思い切り頭を振り上げてしまい――
「今のっていった、いっ!?」
「んぐっ!」
 丁度しゃがみこんだらしい相手の顎を、安綱の旋毛がごっつ、と思い切りかち上げた。暫く二人とも無言で蹲り、痛みを堪える。
「……ちょ、ちょっと、落ち着いて話、しようか」
「う……ぅん、はい」
 安綱にも彼女にも、お互い解らない事が有りすぎたせいか、その提案は非常にスムーズに受け入れられることになった。



 たったさっき、素晴らしい剣を紡ぎ出した少年の指が、食堂の隣に据えられている自動販売機のボタン上を横に滑り、五つ目のものを二回押した。
 それを何とはなしに目で追っていた錫の前に、取り出された缶ジュースがすいとやってくる。
「はい、どうぞ」
「ぇ、え」
「あ、スポドリじゃないほうが良かった? お茶にする?」
 汗をかいた缶が、ようやく自分のために用意されたものだということを理解して、おずおずと錫は手を伸ばし受け取る。
 すっかり静まり返った食堂近くの階段に座る錫の横に、すとんと少年も座る。びくりと肩を震わす錫に構わず、安綱はぱきりと自分の缶の封を開けて呷った。
「――はー。喉からっからだ。本当ありがとう、助けてくれて」
「た……すけ、」
「ん?」
 缶を手の中で弄りながら、引き攣る喉を堪えて顔を上げると、丁度相手もこちらを見下ろしていて、また肩が跳ねた。御簾のような前髪の下から、何処を見据えているのか解らない瞳が覗いて、慌てて俯く。
 尋ねなければいけないことも、話してはいけないことも、沢山あるのだが。何か、何か、言わなければと思えば思うほど、言葉が遠くなる。焦りだけで舌が空回りして、すっかり乾いて喉の奥にへばりつく。
 ――子供の頃から、ずっと。自分が何か言えば、上の兄は不機嫌になり、下の兄には怒鳴られ、他の人達には嘲笑されるだけで返された。そうしたらもう、言葉を話すということ自体が、とても怖くなってしまって。
 音を操り、歌を紡ぐ調律士が、なんて無様だと解っていても、どうしても出来ない。
 自分が情けなくて、嫌で、ぐるぐると心が沈んでいく。それに合わせて、自然と顔が俯いて、膝に埋まっていく。
 と、不意に錫のものよりも一回り大きな手が、恐る恐るというぐらいゆっくりと、錫の肩に触れた。
「っひう!」
「あああごめん! ごめんなさい!」
 不意の接触に上擦った悲鳴をあげてしまった錫に対し、少年の方が慌てた声を上げた。両手を降参のように顔の横へ持ち上げ、ぺこぺこ頭を下げる相手に、錫の方が戸惑う。
「な、なんで、謝る」
「いやその、昨日とか今とか、全面的にごめんと言うしか。も、もう触らないようにするから! なるべく!」
 端から聞いていれば反省が無いと捉えられてしまうかもしれない言い様だが、錫の方はそれでやっと少しだけ、落ち着きを取り戻すことが出来た。自分より慌てている人間が傍にいると、逆に落ち着くものらしい。
「え、と……別に、おま、貴方は、悪くない、から。気に、しないで」
 たどたどし過ぎる己の言葉が嫌になるが、何とか言いたいことは紡げた。昨日の事も少し思い出して、頬に朱を乗せながら。
「お、女としては、たいして、益のない、体だから。に、兄様達にも、これじゃ嫁の貰い手が無いって、言われるし」
「ちょ、待って、ストップ!」
 何故か少年の方がもっと顔を赤くして、錫の目の前で手を振ってみせる。驚いて言葉を止めた錫に対し、少年は随分と真剣な顔をしていた。
「……あのさ。君はもっと、怒っても良いと思うよ? 俺が言うのもなんだけど、俺にも、お兄さん達にも」
「そ、そんなこと、出来ない」
 少年の喋る内容がいまいち理解できないまま、反射的にとても不可能だというところにだけ答えてしまった。兄達に逆らう、なんて世界の理が全てひっくり返ってもあり得ない。それに、
「い、怒りは、言葉に出しては、駄目。負の音を、呼ぶから」
「ふのね?」
「っ、あ」
 首を傾げた少年を見て、初めて自分が失言した事に気がついた。やっぱり私は駄目だ、とすぐさま落ち込みの波がやってくる。
 またずぶずぶと膝に顔を埋めた錫をどう思ったのか、少年はおろおろとこちらを伺い、顎に手を当てて考え込む。
「ええと、つまりネガティブなことを口に出すと、悪い事を呼んじゃう、ってこと?」
「……う、ん。大体、あってる」
 聡明な少年なのだろう。あんなとっちらかった錫の一言だけで、ある意味本質を言い当てている。やはり彼は、調律士なのだろうか、いやしかし――と錫が考え込んでいるうちに、少年は。
「そっか、それなら良く解るよ。逆にポジティブなことばっかり言ってたら、それしか起きない気がするしね」
 気がするだけだけど! と最後につけて、へらりと笑ってみせる。笑顔を向けられたことなど滅多にないので、驚いた。
 それでも――いつも針金で、ぎっちりと締め上げられているような錫の心臓が、ほんのちょっと楽になったので。
「わ、私も、貴方に質問……したい。聞いて、良いか」
「おお、勿論! 何でも聞いてっ」
 ぎごちなくはあったけれど、ちゃんと言葉に出せた。少年はやはり笑顔のまま受け入れてくれて、そのささやかな幸福に心底安堵する。
「あ、貴方は……どこまで、知っている?」
「ええと、それは……俺に見えたあの扉とか、針金の化物のこととか、かな」
 大雑把すぎる問いには、欲しい答えが返ってきた。こく、と思い切り肯くと、一歩遅れて返事が来る。
「話していい? えー、正直、全く解ってません。何で俺にあれが見えたのか、君の姿も見えたのか。そもそもあれって、誰にでも見えるものなの?」
「ぇ……、」
 矢継ぎ早な問いを飲み込むのが精一杯で、答えが遅れる。もう情報を吟味する間もなく、口を動かすだけで精一杯だ。
「と、扉は、この世界の、裏側。音だけの世界を、目で見えるようにする。扉の、歌で。負の音の姿を目で、見て、祓い易くする」
「ふうん……? つまり、あれは全部、音、だってこと?」
 また、こくりと肯く。少年は戸惑っていたようだが、何とか事実を飲み込んだ風にひとつ息を吐く。
「そっか……あの扉の中のものなら、俺にも見える、のかな」
 独り言のように呟かれた言葉の意味が、やっぱり錫には解らない。少年は頭を抱えてうんうん唸っていたが、やがて、「あー! 悩むの止め! 疲れる!」と身も蓋も無い宣言をした。
「うん、良くわかんないけどわかった。ああいうものは実は世界に沢山あって、俺はそれを偶然見れたってこと、でいい?」
「……そ、それより。貴方は、何で、剣の歌を」
 知っているのか、と問おうとして、言ってもいい言葉かどうか解らなくなって、口を噤む。剣の歌は調律士の一族にとって門外不出。彼が何故知っていたのか、何処で知ったのか、それを調べなければならない。
「つるぎのうた、って、あの歌うと剣が出て来たアレだよね?」
「んっ」
「……ええと、多分。君が、歌ってたのを、聞いて覚えたんだけど」
「は……」
 あまりといえばあまりの言葉に、絶句した。有り得ない、という驚愕が一番で、次に出て来たのは怒り。そんなことがある訳が、ない。
「あ、あ、あれは! 調律士が、生まれた頃から、修行して! やっと歌える、のに、い、一度聞いたぐらいでっ」
「俺、聞き取る事だけは得意だからさ」
 照れ臭そうに、寧ろどこか誇らしげに胸を張っている相手に、苛立ちが募る。勝手な感情だと解っていても、止めることが出来ない。
「そんな、そんな馬鹿な話が――!」
 思わず、立ち上がって相手の胸倉を掴む。驚いたように揺れる少年の目は、近づいてもどこを見ているか解らないように揺らいでおり、不信感が増した。
 更に感情のままに怒鳴りつけようとして――調律士としての意識が、ぎりぎりでそれを止めさせる。
 負の感情を、音にして出してはならない。それは調律士としての修行を始める前から、固く言い含められている。
 負の音は、発せば発すほどに新しく負の音を呼ぶ。調律士が負の音に囚われ、祓いの対象となることも、決して珍しい事ではない。
 だから、大きく息を吸って、吐く。己の醜い心を、音にしないように吐き出す。
「……すまない。取り乱し、た」
「ああ、うん。ごめん」
 ぎごちなく手を外し、また階段に腰を下ろす。少年は錫を責めることもなく、却って謝ってきた。また苛立ちと、そして罪悪感が同時に襲ってきて、両膝を抱えて蹲る。ぎしぎし軋む針金が、喉いっぱいに詰まっているようだ。苦しくて、上手く息が出来ない。
「……苦しいの?」
 耳に聞こえる声は、本当に心配そうだった。体調を崩したのかと、思われたらしい。彼は、自分を……案じている。こんな、役立たずの、自分を。物心付いたときから、家族にも誰にも、そんな風に思われた記憶は無い。
 感情が零れないように息を止めると、代わりにぼろりと目から雫が落ちた。大丈夫だと言いたいのに、口が引き攣って上手く出てこない。
「ごめん、ミモリさん。言って」
 無理だ、と言いたい。言えない。口が動かせない。言葉が、紡げない。
「助けて欲しい時には、助けてって言わないと、解らないんだ、俺には」
 焦れたような、少年の声に押されるように、おずおずと顔を上げる。目の前の顔は、心配と、不安と、本当にどうしたらいいのか解らないのだと、途方に暮れていて、涙が止まった。
「あ、ぅ、だ、大丈夫」
「本当に?」
「本当、だ。苦しくない」
「……良かった」
 ほ、と息を吐いて、少年は笑う。本当に、安心して、嬉しそうに。
「どうし、て」
 何故そこまで彼が、自分を案じてくれるのか解らなくて、思わず問うてしまったのだが。
「俺、目が見えないから」
 一瞬意味の通らない言葉を聞かされて、沈黙。
「な……に、」
 そして漸く意味を理解し、錫が絶句すると、彼は照れ臭そうに頭を掻くだけだった。
「だからね、君が助けて欲しい時は、声をあげるか、出来なかったら俺の体のどこかを掴んでくれると有り難いんだ。それなら、すぐ解るから」
 なんでもないことのように、ただ必要な事だけを告げて、彼はまた笑った。
「そんな……」
 顔を上げて彼の目を見る。顔はこちらを向いているはずなのに、彼の視点はどこか錫の瞳とずれていて、彼の言っている事が真実なのだと、認めざるを得なかった。
「俺も、またあの世界に落っこちちゃった時は、すぐに助けてって言うからさ。……呼んでもいい?」
 小首を傾げて問う彼の視線は、やはり錫と絡まない。その様を見て、鈴はかなり昔に兄から教わったことを思い出した。
 今でこそ無くなったが、昔は調律士としての力を高める為に、己の片目や両目を潰す者が沢山居たという。視覚を失くすことによって、逆に聴覚を鋭くさせ、負の音を聞き取り易く、また歌を正確に歌い上げる為に。彼が視覚を失ったのが先天的か後天的かは知らないが、結果、調律士と同じぐらい優秀な耳を手に入れたということではないだろうか。
 錫はまた俯く。手前勝手に彼を羨んでしまったことへの、反省と後悔によって。彼の苦労も何も知らず、敵愾心すら抱いてしまった己が愚かだ。
「ええっと。やっぱり駄目? 出来る限り迷惑はかけないように、頑張るけど」
 長い沈黙の後、恐る恐る問うてきた彼の言葉に、質問を無視してしまった事に気付きはっと我に返る。
 こんな出来損ないの自分に、何がどれだけ出来るか解らないけれど。
「……わ、解った。わ、わ、私が、たす、助ける、から」
 緊張と恐れで震える身体を堪えて、どうにかそれだけ告げると。
 少年はほっとしたように、またへらり、と笑って。
「ありがとう」
 なんでもないことのように、ぺこりと頭を下げた。
 ふわっと、体全体が一瞬浮き上がったように錯覚した。頬どころか、体中に血が昇ったように熱い。
 誰かに助けを求められたのも、感謝をされたのも、信じられないぐらい――嬉しくて。
「あ、貴方は、なるべく放課後、いないほうが、いい」
「えっ」
「も、もしかしたら、狙われてるかも、しれない」
 言いながら、スカートのポケットから、自分の髪の毛を入れた守り袋を取り出す。己の声を依り代に込めて作った、負の音除けとしてはありきたりのもの。それも自分ひとりで作ったものなので、効果の方は推して知るべしだ。それでも――
「ま、まだ指針、見つけてないけど。これ、少しなら、負の音避けになる、から」
 錫がこの学校に来てから今まで、時たま湧き出てくる負の音は、何の法則も無く、ただ留まっているだけだった。それが昨日から、明確な形を取り、尚且つ同じ標的を二回も狙っている。
 それは、負の音に「指針」がついた可能性が、高い。
 怒り、悲しみ、妬み、恨み。負の感情がひとの口から零れ出たとき、その音は世界に留まる。それが、人が沢山集まり、また音が反響し篭り易い場所で起こり続ければ――いずれ負の音は塊となり、音の世界から食指を伸ばし始める。自分を育てる為、更に多くの負の音を集める為に。人間や動物が、生きる為に食物を取るのと何ら変わらない行為だ。
 しかしその為には、指針がいる。何故なら負の音自身には、如何すれば負の音が増えるのかなど全く解らない。だからこそ、己と波長の合いやすい音を孕んだ人間を見つけ、その持ち主を飲み込んで意思を持つ。その身を細い針金から、様々な怪物へと姿を変えて。
 指針となったモノ=者が、目の前の少年に執着しているのか、それとも一度ならず二度までも逃した獲物に苛立っているのか。どちらにしろ、彼を放ったままでおくのは、危険すぎた。
 少年の手を掴んで、相手がびくりとするのに構わず、お守りを握りこませる。その手は自分よりも大きいが、指先や掌に随分と細かい古傷が沢山あった。少し考えて、理由に気付く。ジュースを買う時のように、彼は目の代わりに世界に触れて、物を確かめているのだろう。その結果、どうしても指先に、傷を負ってしまうのだろう。
 錫の心が、傲慢だと解っていても、僅かに軋む。おこがましいかもしれないけれど、彼を守りたいと思ってしまった。
 だって、こんなにも自分に優しくしてくれたのは、彼が始めてだったから。
「だ、大丈夫、だ。私が、失敗しても、他の調律士がすぐに来る。兄様は、強いから、大丈夫」
「ちょ、待って、ストップってば!」
「ぇ、う」
 思ったよりも強く止められて、意味が解らずに錫は口を噤む。
「失敗したら、なんて言わないでよ……それも、ネガティブじゃない?」
「あ、う、」
 確かにその通りだったので、何も言い返せなくなる。でも、だけど、と言い訳を口の中でだぶつかせているうちに、少年は逆に錫の両手をぐっと握り締めてきた。どきりとするが、振り解けない。他人の体温を感じる事も、久しぶりだった。
「それならさ、俺……。何か役に立てないかな」
「な――」
「あああごめん! 俺みたいな素人が、出来るものじゃないのかもしれないけど!」
 絶句した自分の声に怒りを感じたのか、慌てて少年は首を横に振る。それでも、彼は錫の手を離さないまま、強く訴えた。
「でもさっき、俺が作った剣を君が使えてたし。同じ風に、俺が歌ったら手伝えない?」
「――……」
 錫は完全に何も、言えなくなる。きっと彼の力を借りれば、恐らく、祓いが成功してしまう事が、解ってしまったからだ。
 未だに信じられないが、聞いて覚えたという剣の歌、そこから紡ぎ出された剣は、自分のものとは比べられないぐらい強い代物で。それをまた借りることが出来れば、今よりも、ずっと、自分は――
 ――馬鹿。何を考えてる。
 自分の虚栄心を満たしたいが為に、守るべき彼を利用するなんて、そんな恥知らずなことを出来る筈も無い。
「……み、くびるな」
「え?」
 小さな声は、彼に聞こえたのかどうか。ぐっと丹田に力を込めて、振り払うように叫ぶ。
「わ、私は調律士だ! お、お前の力なんか借りなくたってお役目は果たせる! 馬鹿にするなっ!!」
 必死になって突っぱねた。どうしても浮かんでしまう彼への嫉妬に、気付かないふりをして。
 相手の手を振り解き、立ち上がると、傍に置いてあったジュースの缶が、音を立てて転がった。幸いまだ封は切っていなかったので惨事にはならなかったが、少年は音に反応したらしく、びくんと肩を震わせた。その隙を逃がさず、全力で駆け出す。
「ミモリさん!」
 後から呼び止める声が聞こえたけど、振り向かずに走り続ける。
「俺! 隣のクラスの、奉来安綱!」
 不意に告げられた彼の名前に、足は止められなかったが思わず振り向く。彼は、今までとは段違いの、真剣な顔で。
「助けが欲しい時には、助けてって、言っていいんだよ!!」
「――ば、か!」
 子供のような悪罵しか出せず、情けない自分がもう嫌で。
 後はもう、振り向かずにその場から駆け去った。