時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 気がつけば、辺りの嫌な音は、すっかりとなりを潜めていた。
「すーこ? ミモリさん? 四方谷さんも」
「だい、じょうぶ。みんな、いる」
 糸が完全に取り払われた空間で安綱が呼ぶと、たどたどしくて掠れているけれど、紛れも無い錫の声が聞こえて安堵する。腕の中にいる柔らかい塊は、多分妹だと思うけれど自信が無い。抱っこするなんて、小学生に上がる前以来だ。しかも自分がやりたくてやったのに、危ないからと母に悲鳴を上げて止められ何でか菫子の方が怒られ――うん、大体自分が悪く、あまりいい思い出ではない。
 片手を伸ばして地面に触れると、床の感触がした。学校の中なのは間違いないらしい。随分と、静まり返っているけれど。
「み、皆気を、失ってるだけ。負の音が、完全に祓われたら、目を覚ます、から」
「そっか」
「だ、だから、私――」
「オイコラ愚図ッ!!」
「うおっ?」
 錫の声が不意に胴間声で遮られ、驚いた。同時に、錫の息を飲む声が聞こえ、どかどかという重い足音。
「し、白銀兄さ――」
「一体何やりやがった! 大人しくしてろっつっただろうがァ!!」
 いきなり容赦の無い罵声の上、先刻まで穏やかだった錫の声が完全に萎縮してしまっているのは解ったので、妹をそっと床に寝かせると、周囲の安全を触って確認してから、立ち上がる。
「あれだけのモン、てめぇが祓えるわきゃねぇだろうが! 兄貴が来てたんなら――」
「あのー、すいませーん」
「あァ!!?」
「あ、ぅ、待って、」
 相手の声が煩すぎて聞こえないかな、とちょっと思ったが、意外にもすぐに反応は帰ってきた。諌めるような声をあげてくれる錫が有り難いが、まずは乱入者と話さなければ。
「良くわかんないけど、あの化物を倒して、俺達を助けてくれたのはミモリさんですよー。間違いないですよー」
「んだとォ……? てめぇ、何モンだ? この愚図の何なんだよッ」
「し、白銀、様、落ち着いて――」
「てめぇは黙ってろや!」
 真っ向から叩きつけられてくる罵声に、しかし安綱は全く怯まない。自分にのみ叩きつけられた悪意なら、もっと抉るように痛い。先刻、四方谷から受けたものと同じように。
 この声の感じは、多分――苛立ちからくる八つ当たりみたいなものだ。そして、その苛立ちの原因は、恐らく。
「俺はミモリさんの友達ですよ。転校以来、とってもお世話になっています。それと――」
「んだよ!!」
「……妹さんが心配だったんなら、怒鳴らないで安心させてあげてください」
「ッ……」
「白銀、様?」
 安綱のとぼけた促しに、一瞬白銀は完全に沈黙した。錫の戸惑ったような声に、我に返ったように息を飲み――
「誰がだこのボケがああああああああッ!! ぶちのめすぞてめぇ!!!」
「いや同じく妹のいる身としては、気持ちも良く解るから」
「こ、んのッ……!!」
「白銀様、お、落ち着いて――!」
 辺りの空気が動き、自分の前に錫が立ったのが解った。あ、彼女を庇うつもりだったのに庇われてしまった、と自分の失策を安綱が思う前に、再び男の絶叫が響く。
「この愚図がッ!! とっとと後始末してこい! 俺ァ先に帰るからな!!」
「は、は、はいっ!!」
 錫の声の後、ぶわっと顔に風が吹きつけ、男の気配が消えた。走っていったにしても足音が聞こえなかったなぁ、と思っていると、前に立っていた少女の体が揺らぎ、こちらへ倒れてきた。
「っ、ミモリさん!?」
「ぁ――、ご、ごめなさ」
 あれだけ走り、戦い、歌い、そして今男の前で踏ん張って、完全に緊張が切れてしまったのかもしれない。すっかり力が入らない錫の体を受け止め、二人で再び廊下に座り込んだ。
「ええと、今のって、お兄さんでいいんだよね?」
「う、うん。すぐ上の、兄様、だけど」
「図星だったのかな、怒らせちゃってごめん」
「そ、そんなこと、ない。兄様は、私の事、嫌い、だから」
「えー?」
 今言葉を聞いただけではあるが、錫の評は安綱にとっていまいち信用できなかった。兄としての勘、といえば何とも説得力はゼロだが、激しやすいだけで根はいい人の気がする。勿論、それで錫が怯えているのは看過出来ないけれど。
「とりあえずは……これで全部、終ったんだよね?」
「う……うん。もう、負の音は祓われた。兄様が、掃除もしてくれたし……」
「そっか。――ありがとう、ミモリさん。いっぱい助けてくれて」
 一瞬、息を飲む音が聞こえる。また謝られたりするかな、とちょっと寂しく思う安綱の想像は、大きく外れる。
「や……安、綱!」
「えっ」
 不意に、名前を呼ばれて、戸惑っているうちに、自分の手がぎゅっと握られた。あの世界にいた時は、心細さも相俟ってずっと手を握っていた筈だが、いざ助かると非常に恥ずかしい。しかし彼女の方はそんな機微は無いらしく、更に両手で包み込まれた。
「あ、あ――ありが、とう……」
 詫びではない、礼。伝わる温もりと、震えているけれどはっきりと聞こえたその声に、安綱は、自分が成せたのだということを、知る。
 ああ、俺は――妹だけじゃなく、彼女も助けられたのだと。
「どういたしまして」
 だから、笑って返した。ふ、と小さく揺れる少女の吐息は、彼女の笑いだろうか。だったらいいな、と少し思う。しかしこの状況は何とも照れ臭く、そのついでに疑問を解消する事にした。
「ええっと、その……ミモリさん、俺の名前」
「ぇっ……ま、間違えた?」
「違う違う! あー、苗字じゃなくて、いきなり名前で呼ばれたのが、凄く、照れるというか」
「そ、そうな、の? 家では、皆名前で呼ぶのが、当たり前、だったから……」
「あ、そ、そうだよね! 特に深い意味は無いよね!?」
「???」
 不思議そうな相手の声が非常に恥ずかしい。安綱が悶々としているうちに、少女は手を離してしまった。
「そろそろ……あ、後始末、しないと」
「ぇ、うん。何するの?」
「……忘却の歌を、歌う。……調律士の仕事は、公に、知られたら、い、いけないから。み、皆に、忘れてもらう、全部」
「え――」
 安綱は絶句する。確かに、これだけ派手な事件が、警察沙汰やマスコミ発表にならないわけがない。そうならないようにする手段が、調律士にはあるということなのだろう。
「それじゃあ、……俺も?」
 おずおずと、問う。返事は無いが、多分彼女は肯いているのだろう。
「も、元々、役目が終ったら、学校は辞めないと、いけない。わ、忘れた方がいい。巻き込んでしまって、勝手、だけど」
「そんな――待って、」
 立ち上がろうとするが、錫はもっと早く動いていた。安綱から軽く離れる足音がして、歌声。
「夢か現か幻か――ゆらゆらと消え、何も残さじ――」
「っ!!」
 咄嗟に、安綱は自分の両手で耳を塞いだ。自分の導となる大切な器官であるそれを。しかし歌声は何にも遮られず、耳に滑り込んできて――
「――!!」



 ざあ、と脳味噌を洗われるような感触がして、終った。
 凄く頭がすっきりとして、本当に忘れてしまったのかと恐怖が沸いて――
「ミモリさんっ!!? ――あれ?」
 彼女の名前を叫んでから、何かおかしいことに気がついた。そも、忘れてしまったのなら、おかしいことにすら気付けないのではないかと。
 ぽかん、としていると、はぁ、と小さな溜息。諦めていたような、どこか安心したような。
「やっぱり……貴方に、効かなかった。知ってる、でしょ。私の歌、だ、駄目だってこと」
 言葉は、落ち込んでいるように、自分を責めているようにも聞こえる。しかし何故か安綱には、彼女が笑っているような気がした。
 あの世界にいれば、顔を見る事が出来たのに――と、生まれて初めて安綱は、自分の目が見えない事を悔しく思ってしまった。
「み、ミモリさん!」
「う、うん」
「俺、忘れたふりするから! それでいい!? 俺はそうしたい!」
「……うん。わ、私も……そうしたい」
 立ち上がって、大股で彼女に近づく。錫はもう、動かなかった。見えなくても、目の前に、立っている。
「……もう、会えない?」
「あ……会わない、ほうが、いい。また、危険な目に、あう、から」
「確かに、大変だったけど……俺、嬉しかったよ。こんなことにならなきゃ、妹の顔を見る事なんて出来なかったし」
「ぁ……」
 小さく息を飲む少女に、責めているわけではないことを伝えたくて、そっと手を伸ばす。意図は通じたらしく、そっと手を握られる感触が伝わってきた。
「ひとつだけ、お願いしていい?」
「何、だ? 何でも、言って」
「顔――顔に。触っても、いい?」
「……うん」
 促すように、少女の手が自分の手を引いてくれる。すぐに、柔らかな頬に到達する事が出来た。
 妹や母の顔は何度か触ったことがあるのだが、それ以外では初めてだ。何処に何があるかを確かめるように、しかし彼女を傷つけないように、そっと優しく。
 すると、撫でるように手の甲を触られて、どきりとした。
「もっと、強くても、平気。そんな簡単に、壊れないから」
「へあ、うん。こ、これってセクハラカウントされないよね? 大丈夫だよね?」
「気にしない、で」
「いやちょっと兄の威厳とか諸々が」
 後で寝ているであろう妹が、どうか目を覚まさないで欲しいと切に願う。折角少しは上がったかもしれない兄の株が、再び大暴落なのは間違いない。焦りから乱暴にならないように耐えている安綱をどう思ったのか、ぽつりと錫が呟く。
「貴方の、妹。ち、ちょっと羨ましい」
「えっ」
「こんな優しい、兄様が。いたら、凄く嬉しい」
「……それ、褒め言葉として受け取っちゃうよ?」
「? うん、褒めた、つもり」
「え、へへ。……ありがと」
 正しく安綱にとっては最大級の褒め言葉だった。そっと瞼、鼻筋、唇にまで触れて、降ろす。まだ、彼女との指先だけは、繋いだまま。
「も、もういい?」
「うん。――覚えた、ありがと」
 あの軋んだ音の世界で見た顔と、手の感触を繋ぎ合わせる。視覚の情報というものは、思った以上に強烈だった。うん、きっと――忘れない。
「暇な時とかさ、遊びに来てよ? 場所指定してくれたら、俺の方から行くことも出来るし」
「ぁ――ぅ、うん。いい、の?」
「こっちがお願いしてるんだよ」
 笑って言うと、少女も笑った。そして、吐息が触れるほどの距離に、気配が近づく。
「ちゃんと、修行して。と、遠く離れた相手に、声を伝える歌が、ある。それを覚えて、貴方に、伝える」
「本当? 出来たら――俺にも教えてくれる?」
「ぅ、うん。きっと、貴方なら、出来る」
 いつか必ず、と。誰にも聞こえないように、小さな声でひそやかに、約束を交わして。
 最後の名残惜しさを解き放つように、そっと互いの指を離した。


end.