時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

歌を掲げよ、剣を紡げ

 日が傾ぎ、色のついた光が差し込んでくる学校の廊下を、一人の少女が歩いている。
 毛先の揃っていない長い黒髪を揺らし、真っ直ぐに歩いていく。西日で透き通って見える瞳は灰色がかった銀色で、光の加減によっては一瞬虹色にも見える、不思議な瞳の持ち主だった。
 この学校の女生徒用制服を規定通りに着こなしているので、生徒であることは間違いない。顔も、にっこり微笑めば愛らしいであろうと言えるぐらいには整っていた。
 しかし、非常に緊張しているような、あるいはこれから向かう場所に対して挑みかかるような、鋭い空気を纏う姿は、16,7の少女の姿にはあまり似合わない。
 少女は歩きながら、唇を小さく動かしている。
 紡いでいるのは、歌だった。

 ――暗闇に堕ちて
 ――沈まぬが為
 ――浅き夢に揺蕩い
 ――我は此処に扉を開く

 お世辞にも、綺麗な声とは言い難かった。がらがらと濁り、少女にしては低めの声。高音が苦手らしく、たまに掠れて消えかかる。
 己の不格好な歌を恥じているのか、少女の表情は硬い。しかし、歌うことを止めることは無い。
 何度も、何度も、同じフレーズを繰り返し、歌う。
 周りに他の誰かがいれば、見咎められるところだったろうが、廊下に人影はひとつもない。かなり遅い放課後の時間であるとしても、どこかそれは不自然に見えた。
 否、不自然なのはそれだけではない。


 きしきし、きりきり、と。
  

 硝子を爪で引き掻くような、針金が擦れるような、不快な音が何処からか聞こえ、少女の眉間に更に皺が寄る。
 それでも、少女は歌う。やがて廊下の真ん中で足を止めても、歌を止めることは無い。


 ――この身は既に
 ――天地に響く
 ――一振りの剣となりて――


 目の前に立ち塞がるものを、少女は睨みあげる。
 廊下のど真ん中に、突然現れた、巨大な両開きの扉。
 不自然としか思えないその光景にも、彼女は怯まない。


 ――堕ちよ、されど、沈まぬ


 少女が手を伸ばす。その指先が触れるか触れないか、その瞬間に。
 内開きにぎい、と扉が開き。
 まるでそこに吸い込まれるように、少女の姿は消え。
 同時に、扉もその場から消え去った。




「――あれ」
 思わず、奉来安綱は呟いた。今まで聞こえていた歌が、不意に消えたからだ。
 安綱は音楽が好きだ。テレビやラジオからかかるものも、音源を買って自分でかけるものも、勿論生の歌や演奏を聴くのも好きだ。
 だから授業のすべて終わった放課後、教室に陣取って、合唱部やブラスバンドの活動音を聞くのも好きだった。音楽室と体育館の丁度対角線上にある己のクラスを、安綱は非常に気に入っている。合唱部は月水金、ブラスは火木土。聞きすぎて、もう覚えてしまった。
 今日は土曜日。部活動が盛んに行われる日でもあるので、ブラスバンドの全体練習がよく聞こえる。自分の席に座ったまま、そうやって音楽鑑賞をするのが、安綱の趣味のひとつだった。
 ところが。
 今日はどうもおかしかった。通しであろうブラスバンドの練習が、一番盛り上がるサビの部分で不意に途切れた。誰かがとちったようには聞こえなかったし、首を傾げた時に、別の曲が聞こえてきたのだ。ブラスバンドよりも、ずっと近くで。
 廊下で、誰かが歌っていた。
 今日は自主練習のみであるはずの合唱部ではない、独唱だ。おそらく、女生徒。高音が苦手なのかたまに掠れているが、音は外しておらず綺麗だった。八小節ほどのフレーズを何度も繰り返し、歌い続けている。
 歌詞は大仰で、聞いたことのないものだったが、声に良く似合っている、と思う。ちゃんと聞き取りたくて、耳を澄ませた瞬間――これまた、まるでラジオのスイッチを急に消したように、止まった。
 もっと聞きたかったのに、と安綱は思う。今まで聞いたことのないその歌は、不思議と彼の琴線に触れた。聞こえていた音を思い出し、彼は自分の口でかの歌を紡ぎ始める。
「ええーと。――あさきゆめにたゆたい――われはここに――」
 歌を歌うのは聞くことの次に好きだし、得意だ、と自称している。友人や妹の評価は決して悪くないので、上手い部類には入ると思っている。
「このみは、すでに――てんちにひびく、ひとふりのけんと――なりて――」
 歌詞の意味を捉えるよりも、音を追い、声を伸ばす。
「おちよ、されど、しずまぬ」
 最後のフレーズを歌い切り、ヒアリングだけでこれだけ歌えれば上等だろう、と安綱は満足し、僅かに仰のいていた顔を前向きに戻し。
 目の前に、でかい扉が鎮座していることに、初めて気が付いた。



「……ハァ!?」
 驚愕で、声がひっくり返った。思わずのけぞり、椅子に座ったままバランスを崩しそうになるが、後ろの机を無理やり掴んで堪える。自分の机にも手をついて恐る恐る立ち上がりながら、目の前の異物をじっくりと、見る。
 観音開きになっている、かなり大きな扉だ。安綱の机のすぐ前、つまり前の席の椅子との間に、まるで誂えたようにぴったりと閉じたまま立っている。
「いやいやいや、無い! これは無いって!」
 誰が聞いているわけでもないのに、言い訳のような台詞が口をついて出てしまう。信じられず、普段は前髪の下に隠れている両目をごしごしと擦ってみても、目の前の異物は消えてくれない。
 恐る恐る、自分の机を引っ張って扉の前にスペースを作る。上から見ても、下から見ても、どう見ても、扉だ。そうっと扉の後ろ側を覗いてみたが、そちらから見ても変わらない。扉だけが、狭いスペースにどっしりと腰を据えている。
「えええー……」
 正直、どうしたらいいかわからない。わかるやつがいたらお目にかかりたい。思わず妹に電話をかけたくなったが、まだ部活中であろうことを考えて堪えた。でかい扉が目の前にあるのが見えるんだが、と伝えても相手を困惑させるだけだろうし。
「……?」
 そこで、安綱の鋭い耳は、歌を捉えた。先刻のものとはテンポもフレーズも違う、しかし先刻の女子が歌っているのは間違いないであろう、歌を。
 それがどこから聞こえているか、性能の良い安綱の耳はすぐに解ってしまい――いよいよ、息をのむしかなかった。
「どういうことだよ?」
 あまりのおかしさに、唇が上側にひきつってしまうのがわかった。恐怖や驚きよりも、もはや笑いしか漏れない。
 歌声は、どう聞いても――扉の中から、聞こえるのだ。この、扉だけの、「中」から。
 口の中が乾いているのに気づき、唾を無理やり飲み込んだ。不安や恐怖よりも、好奇心が先に立つ。震える手で、そっと扉に手を、伸ばす。
 指先が木の感触を伝え、びくりと引いてしまう。やはりこの扉は間違いなく、この世界に存在しているらしい。もう一度ゆっくり、今度は手のひら全体で、触れる。
 がちゃり。
「へあ!?」
 重そうに見えたその扉は、まるで硬さなど感じさせず、ドアノブを掴む必要すらなく、触れただけでその中に、安綱を招き入れた。
 そしてそのまま――扉の中へ、落ちる。





 落ちた、と感じたのは一瞬だった。床の感触が、完全に消えたからだ。
 空中に投げ出されたような感覚に、どうすることも出来ず硬直すると、しかしそれ以上己の体は動かなかった。まるで、何もない空間に浮いたままとどまっているように。
 こんな体験、普通では有りえない。地面がなければ歩けない、壁が無ければ手もつけない。唯一あるのは自分の後ろ側に、まるで天井に空いた穴のようにぽかりと開いている両開きの扉だが、どうやって手を伸ばせばいいかもわからない。
 心臓がすくみ上るような恐怖を堪えきれず、「、ひ」と引き攣った声が口から漏れた瞬間。
 ほろり、と。
 虹色の糸のようなものが、安綱の口から零れ出た。
「っ!?」
 思わず両手でばしんと口を塞ぎ、そこで己の体が動かせることにやっと気が付けた。両手も、両足もちゃんと動く。しかし立っている感触もなく、膝を曲げ伸ばしても歩けない。
 どうすれば良いのか解らず、安綱はせめてと耳を澄ませる。
 このおかしな世界に唯一聞こえる、「歌」を探して。


――この身に沈む魂持ちて
――この地を歩く道へ進み
――この命須らく燃やし
――己が炉より刃を取出さん


 歌が聞こえる。間違いない、先刻の歌を歌っていた少女の声だ。
 すでにずっと歌い続けているためか、彼女の声は掠れ始めている。それでも、歌うことだけは止めていない。
 そして、それに伴って聞こえる、金属音。ガラスを引っ掻くような不快な音があちらこちらから響いたと思ったら、それが破砕音とともに砕かれ、消えていく。
 しかしその不快な音は、どんどん増えていく。彼女の歌が少しずつ、かき消されていくような有様に、安綱は顔を顰めた。
 彼女の歌を、途切れさせたくなかった。こんな不快な音に、負けてほしくなかった。
 だから、緊張にひきつる喉をどうにか堪え、安綱は大きく息を吸う。
「――このみにしずむ――たましい、もちて――」
 口から声を上げた瞬間、そこからほろほろと糸が零れ出る。何とも奇妙な様だったが、別に気持ち悪くはないので放っておく。虹色の糸はまるで風になびくように揺らめき、何もない世界に散っていく。
「このちを、あるく――みちへすすみ――」
 音程は間違っていない。彼女の声の丁度一オクターブ下、かぶせるように歌い続ける。
「このいのち、すべからく、もやし――」
 虹色の糸は途切れることなく、どんどん伸びていく。まるでこれは、音が目に見えているようだと、有りえないことを思った。
 少女の歌は、もう消えかけている。頑張れ、という思いを込めて、安綱は叫ぶように歌った。
「おのがろより、やいばをとりださん――!!」
 糸が伸びる。
 糸が伸びる。
 それは細い線となり、絡まり太い縄となり、やがて――一本の、道になった。
 己の足元に広がる虹に、安綱は恐る恐る、つま先を伸ばして触れる。
 僅かに、硬い感触がした。
 ……歩ける!
 気づいたら、行動は早かった。方足のつま先を蹴るように、体を傾がせ、もう一方の足も虹の道へ降ろす。すると今までの出来事が嘘のように、重力を感じ、安綱はその道上に立つことが出来た。
 やった、と思った途端、少女の歌が完全に途切れていることに気づいた。しかも、不快なノイズの方はどんどん大きく増えていっている。
「おおい!! 負けるなっ!!」
 咄嗟に、叫ぶ。同時に、口から細い虹色の矢が、暗闇に向かって鋭く飛んだ。もうこの奇怪さに慄いている場合ではない。
 あの歌を途切れさせたら、この世界は不快な音で埋まってしまう。安綱にとってそれは酷く耐えがたいことだった。
 せめて、あの子の声が再び聞こえるまでは。そう思い、安綱は大きく息を吸う。
「この身に沈む、魂持ちて――」
 歌詞の意味は、大体捉えた。気持ちを込めるということが、歌というものにとってどれだけ大事か、安綱は知っている。
「この地を歩く、道へ進み――」
 歌いながら、虹色の道を駆け出す。この道の向こうに、声の持ち主がいることを祈って。
「この命、すべからく燃やし――」
 迷うことは無い。道は見えている。きっとこの先に――
「己が炉より、刃を――!!」
 暗闇の中。向かう先。不意に現れた真白な手が、安綱の口元に伸び――
「貰った……!」
「え――」
 不意に聞こえた掠れた少女の声に、歌が途切れる一瞬前、その手は安綱の口から零れ続けていた歌の糸を掴み。
 世界に、光が溢れた。



 瞼に初めて感じた光の強さに、堪らず安綱は目を眇める。その中で、どうにか見えたものは。
 自分の唇に触れるか触れないかの位置に向けられた、淡く光を放つ剣の切っ先。刃渡りは60p程度だろうか、真っ直ぐで反りは無い。あまり装飾は無いが、銀色の刃は時たま虹の光を放っていて、美しい。初めて見るその姿に、安綱は一瞬見とれた。
 そして、その剣の柄を掴み、とても驚いた顔をしている、黒髪の少女。意志の強そうな鋭い目は、彼女の持つ刃と同じ、虹色の光が走る美しい銀色に見えるが、その色を表現する言葉を安綱は紡げなかった。
 少女の方も安綱の存在が予想外だったのか、どこか呆然として唇を開く。
「――何だ、お前!?」
 こっちの台詞だ、と思ったが、そのわずかに掠れた声に聞き覚えがあったので、安綱は反論を堪えた。自分をここまで導いた歌声の持ち主は、彼女だったのだろうと解ったから。
「ど、どうしてお前が、剣の歌を――」
 よく解らないが、彼女の方も安綱の歌を聴いてこの場に現れたらしい。色々聞きたいことはあるのだが、そこで少女がはっと息を飲み、まるで安綱を庇うように前に立った。そしてすぐに、安綱も新たな異変に気付く。
 きしきし。きりきり。何かが軋むような、不快な音が、だんだんと近づいて――否、まるで安綱たちを囲むように広がり、集まってくる。
 暗闇の中。虹色の糸が、四方から伸びてくる。それは糸というより針金のようで、きしきしと絡まり、きりきりと伸びる。それはやがて、組み上がり、ぎしぎしと鳴き声を上げる、虹色の巨大な蜥蜴と化した。
「うっわぁ……」
 恐怖と感心が丁度半々の、ちょっと間抜けな悲鳴を安綱は上げてしまう。先刻から色々非常識なことが起こっているが、これはその最たるもので、もはや笑いしか出てこない。
「さ、下がってろ!」
 一方、少女の方は安綱を背で庇うように立ち、たぶん彼の口から取り出したのであろう剣を構える。勿論剣術のことなど安綱はろくに知らないが、両手で柄を持ちひたりと構えるその様は、随分と堂に入っているように見えた。
 ぎりり、と針金が軋む音。虹色の蜥蜴が、力を貯めるように四足を曲げ、二人に向かって鼻先を向ける。しかしそれ以上動くよりも先に、少女が道を蹴った。
 針金で編まれた蜥蜴の爪が、飛び掛かってきた敵に向かう。少女の切っ先は微塵も怯まず、横薙ぎによって爪と火花を散らせた。
「おい! そこのお前!!」
「へあ?」
 低く掠れた声に不意に叫ばれ、安綱は間抜けな声を上げる。いまいち実感の沸かない目の前の光景にすっかり見入っていたせいだ。先刻より苛立ちが籠った少女の声が、安綱の鼓膜を打つ。
「歌え! 剣の歌を! 私の歌では意味が無い――これはお前の剣だ!」
「――……」
 やはり、彼女の言っている言葉の意味はさっぱり分からない。剣の歌というのは、先刻少女が、そして自分が歌った歌なのだろうということは、多分当たりがついたが。
 丸太ほどもありそうな巨大な尻尾が、少女を薙ぎ払おうとする。それを軽く飛んで交わしながら、少女は安綱を振り仰ぐ。
 不思議な色の瞳と視線がはっきりと合うのを感じ、安綱は身震いした。これが、見つめ合うということか、とどこかずれた感想が沸いた。
 言葉はもう交わさない。彼女自体にその余裕が無さそうで、ひたすら襲いかかる針金の化け物からの攻撃を防いでいる。
 それでも、安綱には通じた。彼女が自分に期待していることを。
 そんなことは、己の人生において、今まで滅多に無かったことだったから。
「――」
 すう、と息を吸う。何も出来ない己の歌が、彼女の役に立つというのなら。
「この身に沈む、魂持ちて――」
 再び口からこぼれ出た銀糸は、彼の意志に答えるように、まっすぐに剣に向かって伸びる。
「この地を歩く、道へ進み――」
 糸は彼女の動きを邪魔しようとはせず、剣に巻き付き、刃こぼれした刃を埋めていく。
「この命、すべからく燃やし――」
 更に刃は輝きを増し、襲いくる爪を、牙を、尾を切り捨てる。蜥蜴は不快な悲鳴をあげ、悔しそうにのたうち回る。
「己が炉より、刃を取り出さん――!!」
「――はぁっ!!」
 安綱の歌い終えた瞬間、剣は一際強く輝き。
 少女の気合いが、闇を切り裂く。
 その刃はまっすぐに蜥蜴の頭を切り開き――ぎちぃ、と背筋に来る音を立て、ぼろぼろと全身を崩れ落とした。
 銀色の針金はその色を黒い灰のように、世界へと散っていく。同時に、少女の持っていた剣も、同じように崩れて世界に溶けた。




「――ふぅ……」
 安堵の息を吐き、その場に佇む少女が、どこか気まずそうに安綱の方を向く。その姿を視界に納めた安綱には、どうしても確かめなければならないことがあった。
「ちょっと、失礼! 今いいかな!」
「ぇっ!? あ、いや――」
 大股でずかずかと近づくと、少女は今までの気迫が嘘のように、戸惑った風で後退るが、完全に逃げようとはしなかった。それをありがたく思いながら、安綱は彼女の目の前に立ち、無造作に彼女の頬に両手をぺたりと当てた。
「っ!? な、にっ」
 安綱の名誉の為に言っておくが、彼も普段ならばこんな不躾な行為をなんの断りも入れずに行わない。今はいろいろと突拍子もないことが起こって、彼自身混乱していたのだ。だからといって、少女にとってはなんの理由にもならないが。
 安綱は躊躇いなく、少女の頬を撫で、僅かに摘み、ふにふにと揉んだ。彼女の顔をじっと見つめたまま、輪郭を撫で、髪の感触を確かめる。自分の見ているものと、手に触れるものが同一であるのかを、確かめる為に。
 少女の方は何が起こったのか未だ解らないらしく、固まったままだ。
 更に無遠慮に、顔全体を撫でたところで、やっと我に返ったのか、少女が慌ててその手を弾く。
「や、めろっ!」
「あ、と」
 しかし諦めずに尚も安綱は手を伸ばすが、少女が身を躱そうと背を逸らしたせいで、
 ふにんっ。
 わりと前に突き出した少女の胸の上に、ぽすっと安綱の手が落ちた。
「あ」
「っ」
「ごめ、」
「――っっ!!!」
 やっと己の所業のまずさに気づいた安綱が、慌てて手を引いて合わせようとしたのだが――
 その前に、真っ赤になった少女の拳が、綺麗に下から伸びあがり安綱の顎に決まった。




 どんがらがっしゃん! と盛大に兄の教室から音が響き、奉来菫子はのんびり歩いていた足を早めた。
 多分音の原因は兄だと思ったのだ。普段はあまり心配いらないが、半年に一度ぐらい思い切りすっ転ぶことがある。今回もそれだろうと当たりをつけたのだが、次に思い切り扉を引き開け、駆けていく黒髪の女生徒の姿を見届けて、首を傾げる。
「……痴話喧嘩? 兄貴に限って?」
 ないわぁ、と呟きながらもやはり気になるので、早足で教室まで辿り着き、開けっ放しの扉から中を覗く。
 窓際から教室の真ん中にかけて、机やら椅子やらがなぎ倒されており、そのど真ん中に実の兄が仰向けに倒れている。ただ転んだだけでここまで無防備になるとは思えないし、先刻の女子に殴られでもしたんだろうか。
「兄貴ー? 生きてる?」
「……あー……」
 菫子の声に気づいたらしく、よろよろと痩せぎすな体が立ち上がる。自然と持ち上がってきた兄の手を掴んで立ち上がらせると、そこでやっと目が覚めたらしく、はっと息を飲む。
「夢!?」
「どんなの見たの?」
 がばりと身を正し、何が見えるわけでもないのにあちこちきょろきょろとしている兄の肘をぽんぽん叩いて落ち着かせる。
「いやなんかこう、でかい扉があるんだけど見える?」
「どこに」
「俺の席の前、やっぱ見えない?」
「夢なんでしょ?」
「夢かぁ……」
 ほんの少しだけ残念そうに肩を落とした兄が流石に不憫になったので、ちょっと背伸びをして頭を撫でてやる。
「……見えたの?」
「見えたの色々。夢でも初体験だよ」
「そっかぁ」
 慰めていいものかどうか、菫子には解らない。何せ、彼女の兄は。
 頭を撫でてやっていた手をちょっと下げて、顔にかかっている前髪をちょっとずらしてやる。簾の向こうに見える兄の眼は、閉じられたままだ。妹の指の感触に反応したのか、瞼が僅かに開くが、そこから覗く僅かに色の薄い瞳は、どこか焦点がずれており、菫子と視線を絡ませることはない。
「では、ご感想は?」
「いやあ吃驚。新世界だったね。いや、あれが本当に『見えてた』ものなのかどうかは解らないんだけど」
「まあそうだろね。私も証明は出来ないし」
 何せ彼女の兄は、生まれつき――光の加減しか解らないぐらい、視力が弱いのだから。