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X 小市民の決意表明

「それでは、また暫しの別れであるな、我が息子よ」
夜闇を裂いて太陽が昇るほんの少し前。シルヴェストリ夫妻は身形を整え、自分達の寝室に戻ってきた。当然傍には愛する息子と、使い魔と執事も揃っている。
残念ながら、息子の婚約者はここにはいない。昨夜、姿を変じてしまった主を見つけ、大混乱に陥った従者達に二人は無理やり引き離され、直哉も抵抗したものの、迎えに来たマリチカに「往生際が悪くてよ」と秘術で昏倒させられ、グリゴラシュに家まで運ばれた。それ以降、互いに連絡を取ることも出来なくなっている。折角買った彼女の携帯電話は、返すタイミングを逸して直哉が持ったままだ。
「こんなに短くて、ごめんね直哉。アンドレーアちゃんにも、ちゃんと挨拶したかったのに」
本当に申し訳なさそうに頭を下げる母に、直哉は気にしないでと言う代わりに首を横に振った。
アンドレーアから何の連絡も無い理由の一つに、彼女の両親を含めた一族がこの極東の島国に上陸したという事実がある。昨夜の時点でマリチカが調べ上げた門間の一族の咎を、ディミトリエ自らバラウール家に伝えたからだ。勿論彼女が竜の力を暴走させた原因も、門間であると一言添えて。
手はかかれども、たった一人の愛娘を危険に曝した罪を彼等が許す筈もなく、怒りを持って一族郎党全て粛清されたであろう、というのがディミトリエの見解だった。心が痛まないと言えば嘘になるが、真実を明かせばバラウールの怒りを受ける相手には自分も含まれてしまうので、懸命にも直哉は口を閉じることにした。
そして、その粛清に父も加わったのだろうと直哉は何となく気付いている。父が妻子に何某かの手を出されて、黙って見逃すことなど有り得ないと身に染みて知っているからだ。その結果、こうして4日と経たないうちに再び彼等が眠ることになってしまうのも、間接的に己のせいだと思うと何も言えなくなる。
結局のところ。今回もまた、父とアンドレーアに迷惑しかかけられなかった自分に、直哉は落ち込むしかない。
「マリチカ、グリゴラシュ。此度も大儀であった。吾輩が一時の眠りに落ちる内、今一度愛息を頼むぞ」
「任せておおきなさい。この子が根を上げるまではね」
「仰せのままに、旦那様」
主の言葉に僕達は、言葉の差異はあったけれど、どちらも真摯に応える。そしてディミトリエの視線はもう一度息子に向き、いつもと変わらず不敵に笑んだ。
「どうした、息子よ。暫しの別れがそんなにも辛く切ないか?」
「……そういうわけじゃないけど」
「ふはは、照れるのではない。お前は何時まで経とうと吾輩の愛し子だ」
そうやって、全て解っていると言わんばかりに笑ってかわされてしまうから、直哉は何も言えなくなる。礼も、詫びも。
やはり無表情のまま俯く息子に、両親は困ったように顔を見合わせて、無造作に父がその手を息子の頭に置いた。母親譲りの硬い黒髪を、わしわしと撫ぜる。驚いた直哉が顔をあげると、いつになく穏やかな父の顔があって二度驚いた。
「己の意志を貫くことを恐れるな、我が息子よ。お前が考え、お前が選び、お前が決意した結果であるのなら、吾輩も史子も、喜んでその礎となろう。親とは、そういうものだ」
「そうよ、直哉」
史子も手を伸ばし、もうすっかり子供のきめ細かさは無くなったけれど、柔らかさの残っている息子の頬に触れる。
「私達はずっと、直哉に我慢ばかりさせてしまっているわ、昔も今も、きっとこれからも。だからね、貴方の力になれるのが、私達は一番嬉しいの。もっと我儘になっていいのよ、直哉」
柔らかく降り注いでくるかのような暖かい母の声に、不覚にも直哉の涙腺が緩んだ。足元に控えている猫にだけは気取られたくなくて、どうにか堪えたけれど。
「―――二人とも、元気で。また会えるのを、待ってる、から」
ありがとう、とごめんなさい、の代りに、どうにか二つの単語を絞り出すと、両親は共に笑ってくれた。
「さて、そろそろ時間だ」
「ええ、あなた」
やがて、軽く口付けを交わしながら、夫婦二人は棺の中に入る。その蓋を閉めるのは直哉の役目だ。小さな頃から、ずっと。
幼い時は、この行為をいつまで続けることが出来るのか、本当に両親が目を覚ますのか、いつ母が肉塊になってしまう日が来るのか―――そんな想像が恐ろしくて仕方なかったけれど、今は耐えられる。
こんなにも自分を愛してくれる両親が、自分を裏切る筈がないと、知っているから。
「―――お休み、父さん、母さん」
「うむ、また会おう、直哉」
「お休み、直哉」
最後に挨拶を交わし、直哉は棺の蓋を被せる。ぴたりとそれは隙間を塞ぎ、夫妻を眠りに閉じ込めた。
誰からともなく息を吐いて、寝室から出る。殿はグリゴラシュが務め、きちんと三つの鍵を閉めた。
「お疲れさまでした、直哉さん」
「うん。……マリチカ」
仰々しく頭を下げてくるハウスキーパーに頷きながら、直哉は足元にしゃなりと腰を下ろす猫に呼び掛ける。元来口が重い教え子の珍しい行動に、マリチカはぱちりとひとつ大きな瞼を瞬かせて応えた。
「ちょっと付き添って欲しいんだけど」
「代償に何を捧げられて?」
馬鹿にしたような猫の鼻息に、僅かに眉を顰めつつも、直哉は言葉を重ねる。
「出世払いってことにしておいてくれ。今やらないと、絶対後悔する」
「不相応な行いは貴方だけじゃなく、貴方の大切なものを喪失する可能性もあってよ。全て承知でこの私に、生意気にも願うのかしら?」
猫も既に直哉の求めるものが解っているのか、それでもあくまで馬鹿にしたような口調を崩さない。直哉とて引きさがるつもりは全く無かったが、言い返す前に助け舟がやってきた。
「マリチカ、戯れは程々に」
「グリゴラシュ?」
ずっと無言で控えていた老紳士が、不意に口を開いた。驚いたのは直哉とマリチカ、どちらともだ。忠実なる執事である彼は、主であるディミトリエが命じたものでない限り、自ら動き出すことは滅多に無い。一人と一匹の視線を受けて、老紳士はふと、柔らかく笑って猫に言う。
「我等が旦那様より賜りし命は、直哉さんのお力となること、ただ一つ。それを違える君ではあるまい?」
グリゴラシュの敬語じゃない話し方を久しぶりに聞いたな、と内心直哉は思った。物心ついた頃から傍にいるこの忠実な執事は、幼い直哉だけでなく、誰に対しても敬う言葉を崩さない。彼がこんな喋り方をするのは、同僚であり、また主に仕える前からの付き合いである、この単眼猫に対してだけだ。何故そうであるのかは、直哉も知らないのだが。
「…………それは当てつけかしら、グリゴラシュ?」
「いいや。君が私にすら狼藉者の正体を教えなかったことなど、全く気に病んでいないとも」
「しっかりと根に持っているのではないの! 男振りが知れてしまってよ!」
「この老い耄れに、今更何を求めるというのかね?」
「ああ腹立たしいこと……! 直哉、さっさと準備なさいな!」
「うん、え?」
矢継ぎ早なやり合いを交互に見ているうちに、彼等の間では話がまとまったらしい。いきなりマリチカに促されて、反射的に返事をしてから目を瞬かせていると、グリゴラシュがどこか誇らしげな顔で一礼して見せた。
「衣裳のお支度を致しましょう。アンドレーア様へのご挨拶に向かうでしょう?」
「……うん」
自分の望みは既に、父の従者達には筒抜けだったようだ。素直に頷き、自分の部屋に戻ると、連れ立って来た執事が、素早く差し出した上着に腕を通す。僅かに昨日の傷によって体が軋むが、夜に受けた傷だったので殆ど治っており、行動を阻害されるほどではない。それでもその反応に気付いたらしいグリゴラシュが、今度は痛ましそうに顔を顰める。
「申し訳ありません。我々がついていながら、直哉さんにこのようなお怪我を」
「グリゴラシュが気にすることじゃない。俺が無茶したせいだし」
「マリチカの横着が過分に過ぎるようでしたら、遠慮なく仰ってください。私の持てる力全てを持って、あの猫を動かしてご覧に入れましょう」
「いいって」
いつになく熱の入ったグリゴラシュをいなしつつ、直哉は幼い頃の事を思い出していた。
あくまで従者として前に出ず、決して多くを語ることが無い分、その行動で主と、主の息子に忠節と誠意を現す執事。最初、直哉に対しても様付けをしていた呼び方を、彼自身が恥ずかしいからと拒んだ時、その意を汲んでさん付で呼ぶようにしてくれた時から、ずっと。
「……グリゴラシュ」
「はい、直哉さん」
「俺の将来の夢、第二希望はまだ『執事』だから」
「なんと」
戯れだと思ったのか、グリゴラシュはくつりと笑った。手早く直哉の襟を直し、膝を着いてスラックスの皺を綺麗に伸ばしている。視線を合わせない今のうちにと、直哉はそっと口を開く。
「でも、第一希望がもっと大事なものに変わったから、ごめん」
「それが、ようございます」
「そのせいでまた、マリチカにも、グリゴラシュにも迷惑かけるかもしれない」
「それで、ようございます。直哉さんは遠慮なく我々をお使いください。それが従者としての喜びであり、ひいては私の喜びでございます」
そう言ってから、珍しくグリゴラシュはばつの悪い顔をした。己の感情を言葉に乗せてしまうなど、執事に取ってはあるまじきことだったのだろう。申し訳ありません、と僅かに頭を下げるその姿に、直哉は首を横に振るだけで答えた。
「いつまで待たせるつもり!? あの子が帰ってしまっても知らなくてよ、直哉!」
そこで猫の苛立った声が部屋の外から聞こえ、二人で顔を見合わせる。グリゴラシュが苦笑しつつ素早く立ち上がり、もう一度直哉の全身を確認して、離れる。
「よくお似合いでございます」
「ありがと。それじゃ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ、直哉さん。もうじき忌わしき陽光が昇ります、お気をつけ下さい」
頷きながら、まだ使い慣れない日焼け止めクリームを顔と手に塗り終わり、部屋を出る。不機嫌そうに尻尾を振っていたマリチカが、待ちかねたようにたしたしと足を踏み鳴らした。
「全く、小狡い手段ばかり身につけて、情けないこと!」
「性分なんだって」
不機嫌そうな猫と共に外に出ると、じわじわと大気を染めていく太陽から彼女を逃す為、柔らかな毛並を抱き挙げて日傘の下に入れる。日中故に迂闊に動けないそれがますます不満らしく、苛立ちは収まりそうもないが。
「ああ、全くもって、ディミトリエも史子も、グリゴラシュもあの子も! 皆貴方に甘過ぎるわ、私が絞らなくては際限なく堕落してしまうでしょうね!」
不満気に体を丸め、これ以上話さないとばかりに寝たふりを始めた猫の機嫌を損ねない為、その中に君も入っているんだという事実を懸命にも直哉は飲み込んだ。
そして、グリゴラシュが事前に呼んでくれていたタクシーに乗って、一路アンドレーアの別荘に向かったのである。



辿りついた頃には、既に太陽の輝きは猛威を奮っていて、屋敷は不気味に静まり返っていた。
しかし、屋敷の中の気配は先日よりもかなり増えていた。一族郎党がこの島に渡って来た為、彼女付きの従者が皆ここに詰めかけているのだろう。
一人と一匹は足を忍ばせて、屋敷の裏口に回る。封印の秘術によってかけられている鍵を、マリチカは一睨みで解術する。金属の鍵は吸血貴が嫌う為付けられていないので、音も殆ど立てずに内部に侵入することが出来た。息を殺し、細心の注意を払って中を進む。マリチカがいても、見咎められたらその場で最後だ、無礼なる混血を血祭りに上げるのに誰も躊躇はしないだろう。
かといってディミトリエが眠ってしまった今、直哉に後ろ盾は何もない。正面切って入ろうとしても追い返されればまだいい方で、最悪やはり血祭りだ。結局、こうするしかアンドレーアに逢う方法が無かったのである。
滑らかな絨毯を踏み、広い屋敷を躊躇わず進む直哉の足取りに、マリチカが訝しげに首を傾げる。彼女が見通す目的地への道のりに、何も言っていないのに一度も間違わず進んでいるからだ。
「……直哉、何故あの子の部屋の位置を知っているの」
「……前に教えて貰った。まさかこうやって出向くとは思ってなかったけど」
無邪気に「何時でも遊びに来て欲しい」と告げた彼女に、無理だろうと思っても何も言えなかった過去が懐かしい。
そう、いつだって直哉は、アンドレーアが来てくれるのを待つだけだった。色々な理由を言い訳にして彼女の好意に甘え、自分からは何も告げず、また何もしなかった。
しかし今、彼女の本意が解らないまま、引き離されて音沙汰が無くて。
このまま、また離れ離れになってしまうなんて、絶対に御免だ、と思ったから。
「……ここね。間違いないわ」
マリチカの助言と、己の記憶が一致して、直哉も頷く。ずっと乗っていた肩の上から飛び降り、恐らく従者が詰めているだろう隣の部屋の前に猫が陣取る。恐らく万一の時には、足止めを引き受けるつもりなのだろう。目線だけで感謝を告げて、直哉は豪華な浮き彫りで飾られた扉の前に立つ。勿論この扉も、アンドレーア自身によって厳重に封印されているだろう。
しかし直哉には、確信があった。この部屋の持ち主が、自分を拒絶する筈が無いと。
かち、り。
ドアノブに直哉の指が触れた瞬間、僅かな音だけで開いて客人を迎え入れた。



中の空気は、嗅ぎ慣れた香水の匂いがした。当然窓はカーテンと共に完全に締めきられているので、明りはない。僅かな燐の火による青いランプが、階段を昇った所にあるベッドサイドに設えられているだけだ。
闇の中に目を慣らすことは容易い。更に青い明りのおかげで、ベッドの上で横になっている小さな体に、すぐ気付くことが出来た。
足を忍ばせて、そこに近づき―――待ち侘びた彼女の姿を見て、直哉は罪悪感の籠った息を吐くことをどうにか堪えた。
竜の血の暴走は、未だ完全には収まっていなかった。彼女の顔と体は漸く、美しい銀糸と白い肌を取り戻していたが、眠ったままの息は未だ荒い。そして両の手足の先は未だ黒い鱗に覆われ細長く伸び、禍々しい爪をそのままにしていた。
「アン、デ」
そっと、眠りを妨げないように細心の注意を払って、銀糸に触れて撫でる。苦しそうに眉間に皺を寄せていたアンドレーアの顔が、少しだけ安らいだのを見て、何度もそれを繰り返す。
「アンデ、ごめん」
―――自分が未熟なせいで。自分の血のせいで。誰よりも大切な人を、また苦しめた。
「ごめん、アンデ。ごめん―――」
何度謝っても謝り足りないのに、馬鹿になった脳髄はそれしか言葉を紡げない。
ぽた、とアンドレーアの白い頬に滴が落ちる。そこで初めて、直哉は自分が泣いていることに気付いた。情けないと思っても、上手く止めることが出来ない。ただ、滴が唇に滑り込んでしまっては事だと、そっとそれを拭って―――
「……………ナーヤ……?」
その手に、血色の瞳が僅かに開いた。驚く直哉に対し、アンドレーアはまだ夢と現の間を彷徨っているらしく、とろりと蕩けた瞳で直哉を見上げている。
「夢か………。いや……夢でも、いい。ナーヤ……ナーヤだ」
鉤爪が生えたままの黒い腕が、直哉に向かって伸ばされる。勿論、彼女に相手を傷つけようという気は微塵も無い、ただいつも通り、それが幻だとしても、愛しい相手に手を伸ばしただけだ。それをしっかりと受け止め、爪が刺さらないように―――当人は怪我をしても構わないが、また血が彼女を苦しめることになってしまう―――細心の注意を払いながら、直哉は出来るだけ優しく聞こえるように、彼女の名前を呼んで、起き上がろうとするその体をそっと抱き寄せた。
「アンデ、夢じゃない。俺はここにいるよ」
「………ぁ……? ナー、ヤ?」
耳元で囁かれた声と、伝わる体温に、アンドレーアの意識がぴんと張る。見る見るうちに血色の瞳が驚愕で見開かれ……そこからぼろぼろと、真珠のような涙が零れ出た。
「あ、ぁ、ナーヤ、ナーヤぁ」
子供のように泣きじゃくって、直哉に縋りついてくるアンドレーアは、それでも己の体の状態はきちんと理解していて、爪が愛する男を傷つけないように躍起になって腕を離そうとしている。
それがいじらしくて、大丈夫だと言いたくて、直哉は躊躇わずに己の両腕に力を込めた。彼女の腕が使えないのなら、己が強く抱き締めればいいことだと言う代りに。
「何度も、嫌な夢ばかりっ、ナーヤが、あぁ、ナーヤぁ」
「うん、うん」
「嫌、怖い、お前に、お前にだけは、嫌われったくな、い、うぅ、ああぁ」
「大丈夫だよ、アンデ、俺は生きてるし、絶対に、君の事を、嫌いになったりしない」
怖がる彼女をどうにか慰めたくて、直哉は朴訥ではあるが必死に言葉を紡いだ。
彼女が何よりも恐れているのは、血の暴走そのものではない。それによって、誰よりも愛する男を、失ってしまうこと。それは彼の肉体、心、或いはその両方という意味で。何度も、何度も、そんな夢を見続けてしまったのだろう。
「ひっ、う、あぁ、ナーヤぁ……!」
嗚咽を堪えることなく、後はただ直哉の名前を呼び続ける少女を宥める為、大丈夫だと繰り返し、背や髪を撫で、額や頬に何度も口付けた。


感情の爆発は十分ほどで収まり、直哉はアンドレーアの豪奢なベッドの上に完全に乗り、彼女の敷布団代わりになっていた。銀糸の少女は直哉の胸を枕にして、やっと安心できる場所を見つけたと言いたげに、うつ伏せで全身を弛緩させている。二人きりでそうなっていても、何故か直哉の中には先日のような熱の籠った衝動は沸き起こってこなかった。ただ、彼女の腕が出来るだけ早く元の姿を取り戻せるようにと、緩やかに畳まれた黒鱗の手を摩ってやっている。勿論それで治りが早くなるわけではないが、せずにはいられなかったのだ。
「ナーヤ、もういい。触れても、不快なだけだろう?」
「全然」
時折困ったようにそう言ってくるアンドレーアの問いにも首を振り、手を止めない。アンドレーアは戸惑いつつも決して嫌では無いらしく、言葉以上の静止はしない。ただ、甘えるように鼻を鳴らして、直哉の胸に頬を擦りつけるだけだ。
もう暫くこの幸福を互いに享受していたかったけれど、時は無常だ。日がその力を失い切る前に、直哉はここを去らなければならない。
「……アンデ」
「ん……」
「いつ、帰る?」
「……日が沈めば、そう時間を取らずに手足は治せる。そうすれば、すぐに」
辛そうにアンドレーアの眉が顰められ、ぐいぐいと額が直哉の胸に押しつけられる。今度こうやって逢えるのがいつになるか、それは二人にも解らない。
バラウール家がシルヴェストリ家を、忌わしく思っているのは当然。ディミトリエが眠っている今、アンドレーアが抑えなければ直哉達に危険が及んでしまう。だからこそアンドレーアは帰らなければならないし、その地位を捨てることも出来ない。
直哉も、いっそ自分の血が只の人間のものであったのなら、彼女に全てを捧げて下僕となっても良いと思っているのに、それも出来ない。
どこまで行こうとしても、結局は行き止まり。この想いの果てはそれしかないと、お互い解っていた筈なのに。
「アンデ」
促すように声をかけ、直哉はポケットから、カエルが付いたままの携帯電話をそっと差し出す。アンドレーアの顔に、傍目で見て解る程に喜色が浮かぶが、変じたままの自分の腕を見て、やはり困った顔をする。彼女の不安を払拭しようと、直哉は躊躇わず異形の腕を手に取り、その中に小さな機械を置いた。握り潰さないように、おずおずと黒い爪がそっとそれを掴む。
「……有難う、ナーヤ。これの使い方はもう全て頭に入れた。いつでもナーヤの声が聞けるのなら、恋しくなっても平気だ」
「うん。……それと」
「?」
ここまで来て、直哉はかなり迷った。覚悟は既に決めているのだが、単純に恥ずかしかったからだ。しかし目の前の彼女は、ただじっと彼の次の言葉を待ち侘びている。しっかり視線を合わせて、彼は腹を括った。
もう一度ポケットに手を入れて、ずっと前に手に入れてはいたものの、ずっとずっと彼女に渡せなかったものを取り出す。
「……? 硝子か?」
「……うん」
直哉の指で抓まれている、小さな硝子細工にアンドレーアは目を瞬かせる。薄紫色のグラデーションのかかった硝子に、丁度指が一本通るぐらいの穴が空いている。初めて見るものを興味深く眺めている彼女に、直哉は大きく息を吸ってから、ぼそぼそと喋り出した。
「……色々、考えてはいたんだけど」
「あぁ」
「月並みだし、安物だし、下手な金属だとアンデに悪いし」
「?」
「人間風にするっていうのも、随分迷ったんだけど」
ここに猫がいたら、はっきりお言いなさいな! と爪で叩かれているであろう言い訳をもごもごと繰り返し、僅かに赤らんだ頬のまま、アンドレーアの左手を取った。
まだその腕は黒鱗で節くれ立ち、指も異形と化したままだったのだけれど。
その硝子細工は、左手薬指の鉤爪を綺麗に通り、指先にちょこん、と収まった。
「人間は、誓いの噛み痕の代りに、結婚相手に指輪を贈るんだ」
己の指先を見て呆然としているアンドレーアに、直哉は早口で伝える。
元来金属を忌避する吸血貴が好む宝飾具は、秘術によって清められ、宝石のみで編みあげた代物で、勿論直哉が用意出来るものではない。父に頼めば、それぐらいのものは作ってくれただろうが―――これだけは、自分で用意しなければ駄目だと思ったから。
考えに考えた末、一年前の夏期休暇の時に、手作り出来る硝子工房を探して作りにいった。出来あがってから、そのみすぼらしさに恥ずかしくなって、とても渡す事が出来ずお蔵入りにしていたのだけれど―――
赤い顔のまま、直哉は揃いで作った自分の分の指輪を、先日のせいでまだ生々しい傷口が残る薬指に嵌めた。そのまま勢いで、ぎゅうっとアンドレーアを抱き締める。細い体は抵抗もせず、そこにすっぽりと収まった。
この幸福を、繋ぎ留める為なら、何でも出来る。真剣にそう思ったから。
「いつになるか、解らないし、滅茶苦茶待たせると思うけど。俺はまだ、諦めたくない」
腕の中の体が僅かに身じろいで、直哉の顔を見上げる。僅かに揺れる彼女の瞳に籠っているのは、不安と期待がほぼ半々。血の記憶を読み取る事が出来なくても、直哉にはそれが解った。
「吸血貴のお偉いさん達がどれだけ頭固いかも知ってる。それでも、まだ俺達には時間がある」
直哉もアンドレーアも、まだ齢十七。吸血貴としても人間としても、まだまだ若い。だから、諦めることなど出来なかった。逃れられぬ理を打破することも、未来に希望を持つことも。直哉の父が母を選んだ時とは比べ物にならない程、きっと困難が多いだろうけれど。
「誓うよ。月でも、自分の名前でも、何にでも誓う。俺はアンデと一生一緒にいる。だから……待ってて、くれるかな」
直哉はようやっとそれだけ、アンドレーアの耳元で囁いた。少女の白い肩が僅かに震え、また小さな嗚咽が桑の実色の唇から漏れ出す。
「ナー、ヤ、」
「泣かないで、アンデ」
「すま、ない。違う。これは、嬉しい、んだ」
指輪が嵌ったままの異形の手が、直哉の背に伸びる。力の加減をさせないように、直哉の方が先に自分の腕に力を込める。隙間が出来ないぐらい、ぴったりと抱き締め合う。胸に埋められていたアンドレーアの顔が上げられ、直哉を真っ直ぐ見る。その顔は泣き濡れていたけれど、例えようも無く美しかった。
「ナオヤ、ナオ、ナーヤ。嬉しい。愛している。待つ、いくらでも待つ、から、いつか」
「うん。うん」
「私も、また来る。何度も、何度でも、お前の為に海を越えよう。愛している、ナーヤ」
「うん。約束する。俺も―――」
そこから先の言葉は、万が一、聞き耳を立てているかもしれない猫に気付かれぬよう、限界まで小さくして囁いた声だったけれど。
ちゃんと彼女には聞こえたので、直哉がこれまで見た中で一番、輝く笑顔で答えてくれた。



休日が開けての月曜日。
直哉は再び、苦虫をダースで噛み潰したような担任教師と一対一で向かい合っていた。担任の手にあるのは、端が僅かに歪んだ直哉の進路調査表。
「……本気か?」
物凄く脱力した声で担任が言うと、直哉はこくりと頷いて答えた。
第一希望欄に堂々と「結婚」の二文字。勿論その後、「家庭を持ち一人前になる為の精神修養を兼ね、卒業と同時に海外へ渡航予定」と注釈は付けられていたが。ご丁寧に、ディミトリエ・オイゲン・シルヴェストリ・坂井のサインと印入りだ。日曜の朝に父が眠る直前に、直哉は両親にこの旨を話し、父の快いサインを受け取っていた。
「……正確には父の仕事を少しずつ任されることになると思うんで、就職になるんでしょうか?」
「……そうだな。じゃ、第二希望にそう書いておいてくれ」
もうこの家庭に関わるのが嫌になったのか、先生はひらひらと手を振って帰れ、と言った。有り難く直哉はその言葉に従い、職員室を出る。
太陽は漸くその力を失いつつある。健康的な部活に勤しむ生徒達の声が、直哉の歩く廊下に響く。
いつもと変わらない日々。だが、今日から直哉のクラスにはひとつ机の空きが出来た。急な転校だと、先生も他の皆も口々に言っていた。
下賤の人間達に自分達の動向を一切悟らせない、吸血貴による記憶操作の秘術は完璧だ。そうやって偽りの記憶を植え付けられて―――やがて忘れてしまうのだろう、門間の事を。
つん、と少しだけ鼻が痛くなったが、直哉は泣かなかった。
他に何か方法があったのではないか、と埒も無い後悔もしたりはするが、もう既に起こってしまった事象を覆す事は出来るわけがない。あの時、あの瞬間に、門間は直哉を殺そうとしたし、直哉も門間を殺そうとした事実は、厳然として存在するのだから。
だから、彼の死を悼む資格が自分にある筈が無い、と直哉は思う。しかしきっと彼の存在を忘れる事は出来ないし、彼が居ない事を寂しいとも、思った。



人気のない玄関から、外に出ようとした時、ポケットの中の携帯が僅かに震えた。
取り出して見れば、メールが着信していた。どうやらかの吸血姫は、既に通話だけでなくメールの使用、カメラ機能まで使い始めているらしい。
「腕が快癒した」という端的なタイトルに、写真が一枚添付されている。手紙ならば、彼女はもっと美辞麗句を並べ、挨拶文もかかさないのだが、流石に操作パネルだけでそれを作り出すのはまだ無理だったらしい。
写真のファイルを開くと、直哉の顔が本当に珍しく、傍から見て解る程赤くなり、口元が堪え切れないように緩んだ。誰かに見られたら慄かれたかもしれないが、幸い周りに人はいなかった。
写真には、綺麗に広げられた白魚の如き左手。薬指にはちゃんと、硝子の指輪が嵌っていて、僅かに透ける誓いの傷口が見えた。
羞恥と幸福感で肺が満たされ、上手く呼吸が出来なくなった。どう返事を書こうかとメールを開き……思い直して、登録済みの彼女の電話番号を呼び出す。
向うはきっと夜だろうし、出られないかもしれないが、ただ声が聞きたくて仕方なかった。
呼び出し音を続ける電話を耳に当てたまま、直哉は未だ太陽の支配する外に出る為一歩踏み出し。
ぱん、と音を立てて日傘を開いた。