時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

W 小市民と愛の試練

アンドレーアは、非常に不機嫌だった。
理由は勿論、折角の念願叶った逢瀬を不心得者に邪魔されてしまったからだ。彼女が愛する男と逢える時間は、己が寿命と比べたらごくごく僅かであり、一分一秒たりとも無駄にしたくないというのが、素直な気持ちだった。
それなのに今、何処とも解らないホテルの一室、そこに鎮座した巨大なベッドの上で、鎖によって拘束されている状況が、全くもって腹立たしく、いつになく眉間にはっきりと皺を寄せている。
腕を纏めて締めあげている鎖に対し、力を込めてみる。最早日は沈み、彼女の力も本調子に戻っている筈なのだが、皹一つ入らない。それでも諦めずにじゃりじゃりと鎖を鳴らし続け―――手首に走る痛みに、漸く止めた。
何とか手首を見上げてみると、擦り切れだけでなく火傷の痕が鎖の下から覗いている。聖別された銀の効力だ。吸血貴はこれに傷付けられると、中々治らない。
しかしそれを見て、アンドレーアはいよいよ不審によって眉を顰める。何故ならば自分を略取し、ここに拘束した男は間違いなく―――
「あーあ。無理するからですよ、アンドレーア様」
ドアの開く音と共に、心底呆れ、どことなく馬鹿にした、そんな声がかけられる。一度姿を消した狼藉者が再び戻ってきたらしい。アンドレーアはすう、と目を眇め、明りの無い部屋の中を見通し、若干の見覚えのあるその顔を確認する。
夜闇は吸血貴にとって視界の弊害にならない。彼女の眼に見えるのは、微笑と嘲笑の丁度間ぐらいに見える、不可思議な笑顔。それを確かめて、銀色の吸血姫は全く感情の籠らない声で問うた。
「……お前は一体、何者だ」
その男の眼は、明りの無い部屋の中で確りとアンドレーアの顔を捉えている。紛れもなく、吸血貴に相違あるまい。この鎖で、彼女を拘束した張本人である筈なのに。
相手の笑顔が深くなり、嘲笑の度合いが大きくなる。アンドレーアのその不審すら読み取り、嘲ろうとしている。
「誇り高き血の一族の、末裔ですよ。この極東で元来、細々と生きてきた、ね」
その男は芝居がかった仕草で肩を竦め、ベッドに腰掛ける。はしたなさも忘れて蹴ってやろうかとアンドレーアは足を動かすが、残念ながらそちらも腕と同じように固定されていた。
「ルニィ・ノァプテで貴方達が怠惰を貪っているうちに、俺達は己の血を繋げ続けた。貴方達は否定するでしょうけども、負荷がかかることによって血の進化は加速する。俺みたいに、突然変異も産まれやすくなる」
元々この国では信仰が薄いですから、聖銀なんて大概平気ですけどね、と鎖を指先でつつく男に、アンドレーアは全く動揺を見せず、そうか、と一言納得の言葉を呟いただけだった。
吸血貴の祖はルニィ・ノァプテに生まれたとされるが、そこで争いに負けた者達は世界に散り、細々とその血を繋げていった。その忘れられた一族のひとつが、この男が属する場所なのだろうと、アンドレーアは理解する。
彼等は故郷に帰る事を心に望みながら、同時に未だ中心権力の座から降りない「長老」達を始めとする一派を憎んでいると言われている。バラウール家も長老派の有力者であるし、今や自らその座を放棄したシルヴェストリ家も、嘗ては長老派に属していた。
「遠き血族か。恨みを持って、私を殺しに来たのか?」
「まさか。そんな事をしても何の得にもならないですよ。でも、貴方を殺したい相手には事欠きませんから、いくらでも『手柄』になるでしょう?」
「『長老』達に私の首を捧げ、取り入るつもりか。愚かな。この程度であの老獪な方々が動くものか」
自分の命を交渉材料に使われているにも関わらず、アンドレーアの声音は揺らがない。男はその反応が若干不満そうだったが、更に言葉を続けた。
「ついでに、貴方の心を惑わす混血も捧げれば、どうでしょうね」
じゃりんっ!!
アンドレーアの腕を封じる鎖が、大きく鳴った。彼女の表情はやはり変わらない、がその紅い瞳は闇の中にも関わらず爛々と輝いている。怒りに我を一瞬忘れてしまうほどに、その言葉は効果覿面だった。一度、何かを抑えるように大きく息を吸い、声音はあくまで冷静なまま、彼女は言う。
「……それが目的で、ナーヤに近づいたのか」
「亡命してきたシルヴェストリ家は有名でしたしね、俺なら監視も楽に出来た。混血一人だけじゃこれまた何の価値も無いですが、貴方が一緒なら話は別だ。掟を乱す愚か者を、纏めて見せしめに始末出来るんですから」
「ナーヤに手を出すな」
凛と響く声に、男はやれやれと呆れた息を吐く。
「俺としては、あいつになんで貴方みたいな方が執着するのかが、全然解らないんですけど。初めて見た時は何の反応も出来ませんでしたよ、驚きすぎて」
「お前が知る必要は無い。ナーヤの全ては私のものだ」
「けどあいつは貴方の想いを全部無視してるじゃないですか」
「これ以上私の伴侶を侮辱するか?」
いよいよアンドレーアの声に重い冷気が籠る。動ける状況ではないのに、その気迫だけで男を殺さんとばかりに睨みつけている。そんな彼女を、男はあくまで嘲笑し―――心の隙を抉った。
「アンドレーア様。貴方ずっと血を呑んでいないでしょう?」
「―――」
一瞬、アンドレーアが息を呑んだ。僅かな動揺だったが、男はそれを見逃さない。
「本来伴侶となるべき相手に、あいつは血を捧げていない。貴方の血を呑むことも出来ない。そんな奴が本当に、貴方の伴侶として相応しいとお思いですか? そのせいで、俺にも捕まえられてしまうんですよ」
事実であった。直哉と婚姻を結んでから、アンドレーアは己が想いに従って、他者の血を呑むのを拒んだ。しかし同時に、直哉の血も吸ってはいない。当然、彼女の吸血貴としての肉体は緩やかに衰え、癒されることのない渇きを堪えることになる。
「あいつは吸血貴としての己を拒んでいる。人間のふりをして生活し続けているのが何よりの証拠だ。そんな奴が吸血貴の姫君である貴方を、本気で愛するわけがない」
じゃりん! また鎖が鳴った。アンドレーアの瞳の光は、全く衰えない。もう少し男が近付けば、その喉笛を噛み千切らんとするかのように、ぎりりと牙を唇に食い込ませている。彼女は己への侮辱は耐えられても、愛する男の想いを否定するような言葉は、決して看過することは出来ない。直哉がどれだけ悩んで、苦しんで、それでも彼女を愛してくれているのか、彼女自身がこの世で一番理解しているからこそ。
「貴様に、私達の心など何も理解出来まい。私がこの世で愛するのは、ナーヤただ一人だ」
はぁ、と男が溜息を吐く。意地を張る子供を、しょうがないといなすような、また見下すような感情が籠っていた。
アンドレーアは激情を抑えながら、この男の隙を探す。しかし鎖はそうそう緩まず、また彼女の体を痛めつけ続けている。
血を飲み続けていれば―――或いは伴侶の血を飲んでいれば、こんな鎖の戒めひとつ、容易く弾き飛ばす事が出来るだろう。だがそれだけは、アンドレーアに出来ない。
彼の血を飲む事。想い焦がれ、渇望し、全身の細胞が欲するもの。
それでも彼女は、その行為に踏み切らない。それが、彼女にとっての、直哉に捧ぐ愛の証だからだ。己が意志と誇りを全て賭けた、彼女なりの痩せ我慢だ。
何故なら一度だけ、彼の血がその舌に触れた時、彼女は―――
忌わしい過去を思い出し、アンドレーアはぶるりと体を震わせた。間違いなく、恐怖によって。
もう二度と、あのような過ちを犯すわけにはいかない。そして恐らく自分を探している彼がここに辿りつくまでに、この男を始末しなければいけないと、彼女は必死に考える。
危険だと解っていても、直哉は必ず彼女を助けに来る。そしてこの光景を見て、怒りと悲しみと、絶望を味わってしまうだろう。それは死よりも恐ろしく、彼女の心を抉る。
(ああ、どうか)
祈りは空しく、アンドレーアの鋭敏な耳に、誰よりも愛しい男の足音が僅かに聞こえてくる。
(無力な私を、許せ。ナーヤ)
戒められたままの掌をぎゅっと握った瞬間に、バン! と扉が蹴り開けられた。



部屋の中に走りこんだ直哉は、勿論まずは武器を構えようとしたのだが、眼に入ってきたその光景に一瞬反応が出来なくなった。
どうして、自分の友人がここにいるのか、という事実に対して、思考と体が硬直してしまった直哉の耳に、鋭い声が飛び込む。
「ナーヤ、逃げろ! そいつは―――昼夜を統べるもの(ソアレーレ・ヴァーラ)だ!!」
するりと耳に入り込んだ、愛しい相手の声の意味を一瞬で理解し、咄嗟に横へ跳ぶ。まさに間一髪、闇から滲み出てきた「何か」がじゅるん! と飛び出し、今まで直哉の立っていた場所を穿ち、抉った。それはまるで水のように、また形を無くして部屋の闇に融けていく。
「すげぇな、坂井。やっぱ夜になると動きも違うんだな、混血のくせに」
死角になるソファの後ろに滑り込んだ直哉の耳に、ぱち、ぱちというゆっくりとした拍手と共に、アンドレーアとは別の意味で良く聞き慣れた―――毎日、学校で良く聞いていた声が届く。絶え間なく沸き立つ疑問を深呼吸一つで無理やり飲み込み、部屋の様子を改めて確認する。
ベッドの上に拘束されたアンドレーア。その姿を見ると、直哉の意識は沸騰して千切れそうになるが、いつになく不安を湛えた紅の瞳が自分だけを見ていることに気づき、どうにか堪えることが出来た。彼女にだけは無様な姿は、見せたくない。
そしてそのベッドの傍に立ち、いつもよりにやにやの分量が大分多い笑みを浮かべている、門間淳一。彼と目線があった瞬間、ますますその笑みは深くなり―――
「っ!」
嫌な気配を床から感じ、飛び退った。それでも間に合わず、そこから湧き出た黒い棘が、直哉の足を抉り、突き刺す。痛みに耐え切れず、その場に倒れてしまった。どうにか相手からの射線を遮る位置にあるソファの後ろに、這いずって隠れる。幸い追撃は来なかったが、抉られた場所の痛みは容赦なく苛んでくる。
「う、っぐ……!」
「ナーヤ、ナーヤ! 止めろ、ナーヤに手を出すな!」
悲鳴が聞こえたのか、アンドレーアの悲痛な叫びが部屋に響く。ああ、泣かせているなと思い、直哉は自分が情けなくなる。助けに行くと豪語していたくせに、また彼女を悲しませてしまった、と。
しかしそれで却って、腹を括ることが出来た。友人、だと思っていた相手に対する不満や疑問や嘆きよりも、彼女の涙を止める方が先だと再認識したのだ。手に持ったままだった拳銃のグリップをぎゅっと握りしめ、引き金に指を当ててから、直哉が口を開く。
「……門間」
「ん? どうした?」
名前を呼んで帰ってくる答えは、いつもと同じ過ぎて直哉を苦しめた。それでも、確かめなければいけないことがあると、声を振り絞る。
「アンデを、どうする気だ?」
「お前が知る必要無いだろ? ここで死ぬんだから」
はは、と笑い混じりにあっさり言われて、ショックよりも先に直哉は可笑しくなってしまった。彼の言動が、嘗て直哉自身やその家族を虐げて嘲笑っていた、吸血貴達と全く同じだったからだ。彼等は父の目を盗んで、戯れに直哉を蔑み、肉体にも精神にも散々に傷を付けた。彼等にとって混血の子供は、暇潰しの玩具程度のものでしかなかったのだ。勿論、そんな露骨な行動をした相手は、その後全て父に八つ裂きにされたけれど。
裏切られたと感じるよりも、気付かなかった自分を、直哉は無様に思う。理不尽な悪意に慣れ過ぎて麻痺していたのか、それとも友好的な相手を勘ぐる事を忘れたのか。
それとも、高校の入学式の日に。何の屈託もなく―――恐らくそれも計算の内だったのだろうけれど―――話しかけてくれたのが、嬉しかったからか。
寂寥を堪える直哉をどう思ったのか、門間はあくまで、普段と全く変わらない言葉使いのまま、ふうんと息を吐いた。
「結構余裕あるじゃん、お前。もうちょっとショック受けてくれると、やり易かったんだけど」
「そう、見えるか? こう見えても俺は繊細なんだけど」
あははは、という門間の笑いが響く。心底、面白くなさそうに。
「じゃあそのまま、抵抗せずに死んでくれよ」
声には何の気負いもない。いつも通り、休み時間にノートを見せてくれと頼むのと、同じ言い方で。
ああ、こいつに取って俺は、それぐらいの価値でしか無かったんだな、と直哉は納得した。体の傷以外で、心臓の裏側辺りがぎしぎし軋むが、今、気を裂く痛みでは無いと思い、無視をする。
命を賭ける戦いの場に立ったのならば、例え誰が相手だろうと情や未練には全て蓋をしなければならない。嘆きも詰りも、生き残らなければ出来なくなるのだから―――。口煩い猫から、直哉が最初に教わったのが、この言葉だった。
「そりゃあ、困る。俺が死んだら、アンデが泣くから」
それだけ言って、相手の息が僅かに乱れた瞬間、直哉は障壁から飛び出して門間に銃を向ける。躊躇いに震えて固まりそうになる指を、無理やり動かし―――
「―――かぁっこいいなぁ、坂井!」
「ぐあ……!」
しかしその瞬間、足の裏から伸びてきた棘に足の甲を貫かれ、悶絶して倒れた。そして漸く気付いた、門間の攻撃が何によるものだったのかを。
窓からの月光で僅かに見える、闇に融けこんでいた門間の影だ。それが姿を変え、棘となり床から襲いかかってきたらしい。
影の秘術使いは、己の影に沈んで自在に平面を行き来することも出来るという。恐らくアンドレーアを拉致した時も、この力を使って彼女ごと姿を消していたのだろう。3回攻撃されてやっと気づくなど、マリチカに知られたら鈍すぎると叱られるのは間違いないだろうし、気付いたからと言ってそれを止める手段も、直哉には無いのだけれど。
「物騒なもの持ってんなぁ。こんなもん、大した役にも立たないだろうに」
ゆっくりと近づいてきた門間が、どうにか取り落とすことを堪えた直哉の銃に視線を落とすが、取り上げようとはしない。吸血貴にとって、破壊力の高い爆弾ならばともかく、拳銃程度の威力ならば当たっても致命傷になることはない。もし銃弾が聖別された銀製ならばその限りではないが、自分に聖銀が効かないことを門間は良く知っているので、驚異では無いと踏んだのだろう。
対して、痛みを堪えながら、直哉は冷静に状況を鑑みていた。こうやって、相手が自分を舐めているのなら、武器を手に持てているのなら、まだ勝機はある、と。
「なぁ坂井。お前ってさ、何のために生きてるわけ?」
不思議そうな声で、門間が問いかけてくる。倒れたまま直哉がどうにか顔を上げると、相手の顔には嘲笑しか張り付いていなかった。
「お前との付き合いはもう2年くらいになるけどさ、本当に不思議だったんだよ。吸血貴としてろくな力もない、人間として生きるのも面倒そう、じゃあなんでお前生きてるんだ? とっととくたばっちまった方が楽だと思うんだけどな、俺」
妙にはまる、軽く肩を竦めるポーズを決めて、なおも門間は言い募る。
「吸血貴の世界も人間の世界も変わらない、力の無い奴は力の有る奴に支配される。マジで、お前何で生きていられんの?」
声に苛立ちが籠り、がつっ、と直哉は側頭部を踏まれた。「ナーヤ!」とアンドレーアの悲鳴が上がるが、門間は意に介さない。僅かな苛立ちを隠さないまま、足に力を込めて話し続ける。
「俺だって、昼夜を統べるもの(ソアレーレ・ヴァーラ)でなけりゃ、役に立たないっつうことで処分されてもおかしくなかったわけよ。お前はどうよ? ちょっと体が丈夫なだけの、何にも出来ない木偶の坊じゃねぇか。ああ、役に立たなさ過ぎてシカトされてたのか? それなら尚更―――殺されたって文句言えねぇよなあ?」
ごりごりと力を込めて踏みつけられ鼻を潰される。じわりと鼻腔の奥から滲んでくる感触を不快に思いながらも、直哉は彼の言葉をしっかりと聞いていた。
つまり、門間にとって世界とは、そういうものだったのだろう。血族であっても、家族であっても、生まれ持った力が無ければ排除される。それが彼の生きる為の標であるから、それと合致しない直哉の存在を認めたくないのだろう。
しかし勿論直哉も、己が生きる標に従えば、そんな言い草を許容することは出来ない。
何故、生きているのか、と聞かれるならば。
「……そんなの、決まってる」
「へぇ?」
足の力が僅かに緩んだので、顔を絨毯に擦りつけたままでも上を向くことは出来た。見下ろして来る嘲りの顔を、視界に入れて、直哉は。
鼻血を垂らしながらも変わらず、いつも通り、それこそ毎日教室で彼に話しかける時と同じように、表情一つ変えないで。
「生きるのって、楽しいからな」
あっさりと、答えを返した。
「―――……は、」
ひくり、と引き攣る門間の顔を見て、ああ今こいつを傷つけたんだな、と僅かな罪悪感が直哉を疼かせるが、こちらもかなり酷い目に合わされたからお相子か、と思い直して続ける。
「寝っぱなしだけど、父さんと母さんは仲良いし、家族はハウスキーパーと猫がいるし、何より俺には勿体ないくらいの、この世で一番俺を愛してくれる奴がいるから。凄く人生楽しいし、死にたくない」
面倒事が多くても、他者の悪意に曝されても、それを差し引いて余りあるほどの幸福が自分にある事を、直哉は知っている。
「俺の寿命がいつ尽きるのか解らないけど、その人生のうち出来るだけ、最後には全部、俺はアンデにあげる予定だから」
ここで初めて、直哉は感情を視線に込めた。例え友人が相手だろうと、そしてどんな理由があろうと、許せるものではなかったのだ。この世で一番大切な相手を、戒め傷つけられた行為が。

「―――てめぇに何一つ、渡してたまるか」

普段の言葉使いを全て頭の中から吹っ飛ばし、吐き捨てるようにそれだけ言った。
「―――ふっざっけんなよ、この出来そこないっ!!」
「っぶ!」
その視線を遮るように、罵声と共に思い切り踏みつけられた。がつんがつんと、まるで頭蓋骨を踏み破らんばかりに何度も続く衝撃が、意識を遠のかせようとするが、彼は必死に耐える。ここで気絶するのは死亡と同義だ。
「何も出来ないくせに! 混血のくせに! ムカつくんだよお前のそういうとこ全部っ!」
「止めろ! 止めろ! 止めろ! その足を退けろ、触るなっ!!」
「殺してやる―――殺してやるっ!!」
アンドレーアの悲鳴で更に煽られたかのように、門間の瞳に狂気が灯る。ぞわり、と地面が撓み、ぐずぐずと崩れ、直哉を飲み込もうとする。水に濡れた海藻のようなその影は、あっという間に直哉の体を膾切りにしてしまうだろう。
咄嗟に、直哉は手を伸ばす。手離さなかった武骨な鉄を、まっすぐに門間に向けて。
影が牙を剥く一瞬前に、引き金を引いた。

―――タンッ!

意外と軽い音。至近距離の為、狙いを外すことは無かった。直哉の撃った銃弾は、門間の脇腹に突き刺さった。
門間は、その衝撃により、激昂から僅かに立ち戻ったものの、未だ優位が揺らがない事を確信していた。重ねて言うが、たかが拳銃の弾に、致命傷を負わせられるわけがないと解っていたからだ。それなのに。
「っ、ぐ―――!!?」
最初に門間が感じたのは、違和感だった。体の中に、明らかな異物が入り込んだという、違和感。銃弾が残っているのか、と思ったが、その感触は既に体内に無い。貫通したのか、と思っても、その痕跡も無い。そうしているうちに、次の衝撃がやって来た。
「ぎっ、い!? な……ぐあああああああっ!!!」
銃弾が叩きこまれた傷口から、何かが染み込んでくる。門間の血管を、沸騰しているのに冷たいと感じる、矛盾を孕んだ液体が入り込み、暴れまわっている。堪らずがりがりと傷口を掻き毟って出そうとするが、その液体自体が意志を持っているかのように、血の流れに乗ってどんどん体中に広がってしまい、間に合わない。
「おま、えっ、何し…………っああああがあああっ!」
全身に走る激痛に耐え切れず、絶叫して床を転がり回る門間と対照的に、直哉の方がよろよろと立ち上がる。自分の手によって苦しむ友人を見て、武器を握ったままの手は震えていたけれど。
「なん、なんだっ、これ、なんだアアアア!!?」
「げほっ、…………、……俺の、血だ」
あまりの苦しさに蹲って叫ぶ門間に対し、漸く直哉は応えた。
直哉の銃に装填されていた銃弾は、父ディミトリエが冷却の秘術を使って凍らせておいた直哉の血そのものだ。一度秘術をかければそう簡単に溶けることは無いが、同じ直哉の血に浸した場合のみその秘術が解かれ、生物の体内ほどの体温があれば、あっという間に溶けてしまうようになる。これが、吸血貴に対する、直哉が持つ唯一の切り札だった。
直哉の血は、吸血貴全般に対して非常に強い毒性を持つ。これは混血の特性ではなく、直哉以外の混血にこのような能力が顕現した事実は今まで確認されていない。
マリチカが見立てたところによると、直哉の「吸血貴の力」は己の「血液」に集中してしまっているらしい。相手の体内に入った瞬間、その血液は今まで流れていたそれを食い潰し、まるでウィルスのように全身に広がり、その血を全て、「直哉自身の」血液に変質させてしまう。血に己の記憶を蓄え、共有することの出来る吸血貴にとって、一度触れてしまえば命に関わる劇薬となるのだ。例えて言うなら、精神を全て、坂井直哉という存在に食い潰されることと同じ。異分子でしか有り得ないものに、全てを蹂躙され消滅してしまうのだ。
直哉自身は勿論、彼の両親すらも、この事実に気付いたのは彼の血を初めて吸った相手―――そう、アンドレーアが現れてからだった。幸いその事実は、ディミトリエが上手く隠してバラウール家に伝えたので、すぐさま直哉が吊し上げられることにはならなかった。もしもこの能力の特異性が広まってしまえば、直哉はただの混血ではなく、吸血貴にとって非常に危険な存在となってしまう。無力に見せかけた方が安全であるという、不本意ではあるがディミトリエの苦肉の策だった。それでも追及を避けるため、一家はルニィ・ノァプテを離れざるを得なかったが。
直哉自身にとっても、この血はこの上なく厄介なものであったが、未だ寝台に拘束されている彼女を救う為になら、使うことが出来た。本来彼女を苦しめるものでしかなかったこの力を、少しでも役に立てられるのだから。
まだ血の滲み出る鼻を乱暴に拭い、傷の痛みを堪えて寝台に近づくと、アンドレーアの腕を戒める鎖にまず手を伸ばす。聖銀は触れているだけで吸血貴の自由を奪うので、緩く絡めてあるだけだった為、幸い容易く解けた。その腕は自由にした瞬間、両方とも彼に抱きついてくる。
「ナーヤ、ナーヤ!」
名前を呼んで、しがみ付いてくる細い体に、直哉は漸く、ずっと震え続けていた己の手を止めることが出来た。銃をぽとりと寝台の上に落とし、おずおずとだがその背を抱く。彼女に自分の血がつかないように、細心の注意を払って。皮膚につけたぐらいではその力を発揮することは無いが、彼女を汚してしまうことも嫌だったからだ。
「アンデ、ごめん。遅くなった」
「ナーヤ、ナーヤ、ナーヤ……済まない。お前がその力を忌んでいることを、知っているのに」
首筋に顔を埋め、耐え切れないと言わんばかりに詫びるアンドレーアの、頭を撫でようにも手が血塗れなので、代りに直哉は、旋毛に頬を擦り寄せて慰める。
「そんな事ない。俺こそ、こんな行き当たりばったりな助け方しか出来なくて、ごめん」
見栄を張った痩せ我慢は、上手くいかなかったらしい。漸く上げられたアンドレーアの瞳が僅かに揺れて潤み、ますます辛そうに眉を顰められてしまった。
「違う、私は―――ナーヤ!」
更に言葉を続けようとしたアンドレーアがはっと息を飲み、直哉の肩越しに後ろを見つめている。直哉も振り向くと、体を痛みに痙攣させながらも、門間が立ち上がろうとしていた。
「ふっざけんな……こんなん、認められるかっての……!」
間違いなく、直哉の血の弾丸は軽くない傷を負わせたらしく、体のあちこちの血管が破れ、血を噴き出している。それでも直哉に向ける憎悪の視線は揺るがず、ざわざわとまた闇の中の影が震えだす。
「ナーヤ、足を解いてくれ。私がやる」
「大丈夫、ちょっと待ってて」
「ナーヤ!」
膝でいざって庇おうとする少女を庇い返し、直哉は紅く染まった銃を拾い上げ、構えて寝台の前に立つ。相手にどれだけ血の効力が効くのか個人差はあるし、一度種がばれてしまえば、直哉の射撃の腕ではもう一度食らわせるのは難しいだろうが、譲る気は全くない。悲痛な声を背中に受けても、揺らぐわけにはいかなかった。
その光景を見て、門間の顔はますます憎悪に歪む。ぞわりと、部屋中の闇が歪んだ。
「かっこつけてんじゃねぇよ、混血がぁっ!!」
びゅるんっ! と四方八方から、影の棘が襲いかかってくる。流石にもう一度あの銃弾を食らいたくは無かったのか、棘は直哉だけでなくアンドレーアにも襲いかかってきた。当然、直哉はアンドレーアに覆い被さって盾になるが、その全身が容赦なく鋭い棘で抉られる。腕の中の少女を心配させるのが嫌で、悲鳴を無理やり飲み込んだ。
「っ、ぅ……!」
「ナーヤ! ナーヤ、止めてくれ! 離してくれ……!」
「っは、やっぱりな。影は影でしかないからな、お前の血に塗れても何ともねぇよ。ああ―――そうだ、いい事思いついたぜ」
直哉の血に塗れた棘が、ずるずると抜き取られ、その焦点を変える。空気の変化を感じ取り、直哉は咄嗟に身を起こし、アンドレーアの足を戒めていた鎖を引っ掴む。
「アンデ逃げろ!」
「ナー……!」
何とか鎖を解き、詫びる暇も無く彼女の体を突き飛ばす。寝台の下にどさりと小さな体が落ち、残されたシーツだけを無数の棘がざくざくと抉った。
「邪魔すんなよ坂井!」
「が……ぅっ! ぃ―――っ!!」
そしてその棘は再び身を翻し、直哉の腕や足、胸や腹も刺し貫いてベッドに縫い付けた。特に銃を持ったままだった右腕は、念入りに茨のような影の蔦が絡みついている。僅かに身動ぎするだけで直哉の身には激痛が走り、シーツに紅い滴が飛び散る。どうにか視線だけ動かすと、棘から無事に逃れたアンドレーアの両目が恐怖と驚愕によって、限界まで見開かれていた。直哉の姿を映していたその瞳は、すぐに輝きを怒りのみに変え、門間の方を睨みつける。
「下種がっ……ナーヤを離せ!」
「おっと、動かないで下さいね、アンドレーア様。流石に夜の貴方には、勝てるとは思えない。だから、俺に何もしないで下さいね、このままこいつを刺し殺されたくなければ」
彼女の唇が、悔しさで噛み破られそうになっている。全身を痛みで戒められながら、それを目の端で見て直哉はまた情けなく思った。結局こうやって、彼女の重荷になることしか出来ないのか、と。アンドレーアもまた己の無力を噛み締めながらも身動きが出来ない。自分の行動一つで、直哉の命が奪われてしまうやもしれないこの状況を、打破する手段が彼女には見つけられない。
二人の動きを封じた門間は満足そうに息を吐き、先刻思いついた卑劣な提案を実行に移すことにした。直哉の血に塗れた影棘を一本、ずるりと伸ばしてアンドレーアの喉元に当てる。
「……や、めろ、門間っ……ぐ!」
制止しようと直哉が起き上がろうとし、傷口を棘で抉られて堪らずまた寝台に突っ伏した。直哉にも、アンドレーアにも、門間の目的が理解出来た。直哉の血を―――アンドレーアに、飲ませるつもりだ。
「お前は黙ってろ。さ、アンドレーア様、遠慮なくどうぞ。貴方の愛する男の血ですよ?」
彼女の唇に触れそうになる棘から滴る血は、紛れもなく直哉のもの。その香は彼女にとって何物にも代え難い芳醇さで、求めずにはいられなくなる。例えその後、恐ろしい悲劇が起こるとしても。ぐっと息を飲み、押し殺した声でアンドレーアが告げる。
「―――ナーヤを解放しろ。そうすれば、お前の言うとおりにしてやる」
「貴方の命令を聞く理由は無いですね。さっさとしないと本気で殺しますけど」
「止めろ!」
「アンデ、駄目だ!」
アンドレーアと直哉、二人同時の静止が響き、白い手指が棘に触れる。銀色の吸血姫は何かを決意した顔で、その棘を己の唇に促した。その目はしっかりと、愛する男に向けたまま。
「ナーヤ、済まない。必ず、助けるから」
「アンデッ!!」
「―――出来ればで、良いから。眼を閉じていて、くれ」
それだけ、門間に聞こえない程の小声で告げて。
桑の実色の唇が、そっと棘から滴る滴に触れた。



「―――っ、く……」
がく、とアンドレーアの体が崩れる。喉を掻き毟らんばかりに己の首を抑え、苦しそうに蹲る。
勝利に笑おうとした門間の唇は、しかし開く直前で止まった。彼女の体から、奇妙な力の軋みを感じ取ったからだ。
伴侶の血は吸血貴にとって何よりの糧であると、当然門間も知っている。しかしつい先刻知った直哉の血の効力と、それが理由であろうアンドレーアの吸血拒否を理解したつもりだったので、たとえ力を増したとしても恐れるに足らず、と彼は判断していた。
その判断は、決して間違ってはいなかった。直哉の血は確かにアンドレーアのそれを食い潰し、彼女の意識を削っていく。
その代わりに―――何かが沸き上がってきたことに、やはり門間は気づいてしまったのだが。
蹲ったアンドレーアの腕や足が、ぎしぎしと軋み、その容積を増やしていく。二倍に、三倍に。
床に広がった美しい銀糸の髪は、ざわざわとたなびく黒き鬣に変わっていく。
透き通るような白い肌も、それに合わせるかのように硬質な輝きを放つ黒鱗に覆われていく。
そして何よりも、漸く持ち上げられた顔の、眼が。
彼女の紅色の瞳が、額、頬、顔中のありとあらゆるところに開かれ、そのうちの一つがぎろりと門間を睨み据えた。
「ひっ……!」
そのあまりのおぞましさに、門間が上げかけた悲鳴を何とか堪えている間も、変異は更に続いていく。もう、冷たくも美しい少女の面影は何処にもない。
胴体から生える腕―――もう前足と表記するべきか、それが全部で四本、後足も同じく。節くれだった硬質のそれが寝台を跨いでぐしゃりと潰し、その先に生えた黒い爪ががりがりと絨毯を毟る。同時に生えた太い尾が、苛立たしげに床を何度も叩く。
まるで、巨大な蜘蛛のようにも見えるが、頭部には何本も角が生え、傷口のように真っ赤に開かれた鼻面の長い口には、無数の牙が並んでいる。
「――――ギィィイイイイイアアアアァァァ!!!」
そしてそこから、まるで金属が擦れ合うような咆哮を上げた。
「……竜(ドラクル)っ……!」
その姿をまともに見て恐慌した門間は、どこか頭の隅で、それを思い出していた。
バラウール家は遥か昔に、既に滅んだ生物の長、竜と契りを結んでその血を得た一族であると。しかしその力は既に衰え、直系でも顕現させることは出来ないと言われていた。それに、竜とは嘗て世界を統べるほどの強さと、美しさを兼ね備えた生物だったと聞く。このような、見た瞬間に正気を失ってしまいかねないほど、恐ろしい姿だった筈もあるまい。
恐怖のあまり思考が錯綜している門間は、そこで漸く―――12の紅色の瞳が、全てこちらを睨みつけていることに気付いた。
「う、わああああああああっ!!」
その瞬間全ての思考を断裂させ、影の中に潜り、逃げを打った。とてもこんな化け物に、敵う訳がないと。だが、部屋の半分を埋める程に膨れ上がった巨体は、彼が逃げ切る前に、容易くその首を伸ばし―――
ぼりんっ、と。
数多の牙で、門間の影に成りきらなかった半身を、噛み砕いた。
「ぎっ……………!」
悲鳴すら上げられず、門間の体はあっという間に破られた血袋のようになり、闇の中にまき散らされ、融けた。肉体を保ち切れず、影となって砕かれたのだ。
しん、と部屋は静まりかえり、やがて闇の中に、僅かな音が響く。
「ア……ア、ア……」
異形に変じた吸血姫が、乱杭歯の間から噛み千切った血肉をぼとぼとと落とし、呻きを漏らし続けている。その引き攣った声には、敵を血祭りに上げた悦びも、愛する男を救えた安堵も無い。
あるのはただ―――恐怖。
直哉の血が、体中で暴れている。伴侶の血は確かに彼女に莫大な力を与えるが、その毒性は変わらない。たった一滴、それだけでも彼女の体を責め苛み、心を削り、その奥底に眠っていた竜の血を顕現させてしまうのだ。
しかし、体の痛みも心の痛みも、彼女にとっては瑣末事に過ぎない。今思う事は、ただ一つ。
「ルゥうウ、アアアあぁアア……!」
苦しげな、悲鳴を上げる。身を捩り、隠せる場所は無いかと足掻き続ける。
見ないで欲しい。
この醜い姿を。
ただ、愛する男に、裏切ったと言えど友を殺す事を、させたくなかっただけなのに。
見ないで―――どうか、見ないで欲しい!
「アンデ」
名前を呼ばれた。誰よりも愛しい相手の、その声で。首を振りたくリ、相手の顔を見たくなくて全ての目を閉じる。
「アンデ、アン、アンドレーア」
ひたりと、何かが鼻先に触れた。直哉の手だ。そう思った瞬間、アンドレーアの呻きが止まる。
「泣かないで。大丈夫だから」
ゆっくりと、撫でてくる。柔らかい肌も、美しい髪も、全て失ってしまった彼女の体を。
「ごめん、アンデ。俺はあの時、ひとつだけ嘘を吐いたんだ」
謝罪の言葉に、巨体がびくりと震える。嫌だ聞きたくないとばかりに捩らせる巨体を恐れもせずに、直哉は殆ど彼女の頭に抱きつくように腕を回し、何度も鼻先や顎を撫ぜた。
「覚えてるんだ、あの時」
額に開く瞳の瞼に、躊躇わずに直哉は唇を落とす。口付けされたのだとアンドレーアが気付いた時、巨体の震えは止まった。
「約束した時の事。俺は全部、覚えてるんだ」



「ちぎり、のぎしき?」
「ああ、そうだ。婚姻を結ぶ者に、己の指を一本捧げる」
物騒な申し出に、びくりと震えた直哉をどう思ったのか、銀糸の少女はほんの少し口端を上げるだけで微笑む。
「案ずるな、指を切り落とすわけではない。宣誓をして、私のこの指の付け根から、軽く血を飲むだけでいい」
「……俺、血を上手く飲めない」
「そうなのか? ほんの少し、舐める程度でも?」
「……やってみる。どう言えばいい?」
直哉自身、まだ幼かった。その儀式が一生の効力を持ち、一族の長老達ですら覆すことの出来ない契約になるとは知らなかった。
ただ、目の前の美しい少女を、悲しませたくなかった、ただそれだけだった。つまりもう既に、彼女に魅了されていた、と言えるかもしれないけれど。ほんの少し、残念そうに眉尻を下げた少女に是と答えを返すと、安心したように息を吐いてくれたので、直哉も嬉しかった。
中天に満月が輝く中庭で、誰にも見咎められないままに、子供二人は儀式を始めた。花畑の中に向かい合って二人で座り、銀色の少女は朗々と宣誓する。
「続けてくれ。『天の瞳が堕ち、地の泉が枯れ、世界が輝きで焼き尽くされようとも』」
「天のひとみが落ち……地の泉が枯れ、世界がかがやきで焼きつくされようとも」
流暢なノァプテ語の発音に苦労しながらも、アンドレーアの言葉を聞き取り、後に続いて紡ぐ。
「『我が名、我が魂、我が誇りにおいて、共に闇夜の道を歩まん』」
「我が名、我が魂、我が誇りにおいて、共にあん……やの道を歩まん」
「ああ、それで良い」
頷いて、少女は左手の薬指を少年の口元に捧ぐ。
白くて細いそれに齧りつくのは、直哉にかなりの躊躇いを齎したが、彼女は指を引いてくれない。おずおずと口の中に入れ、ぐっと歯に力を込める。
「ん……」
「! いひゃい?」
僅かに息を呑んだ少女に、慌てて口を離そうとするが、少女自身がそれを押し留めた。小さく首を振って、どうか止めるなと、直哉の肩を片手で押さえる。
彼も腹を括り、もう一度強く犬歯に力を込める。ぷつ、と皮膚が破ける音がして、口の中にじわりと鉄錆の味が広がる。反射的に吐き出しそうになるのを何とか堪えて、その雫を飲み込んだ。
「もう、いいぞ」
「は……ごめん、痛かったよね」
「お前は本当に、優しいな」
彼の心は罪悪感でいっぱいだったが、アンドレーアは寧ろ嬉しそうに己の傷がついた手に口づける。年の頃は同じ筈なのに、妖艶な色気すら垣間見えるその姿に―――まだそれがどんなものなのか、直哉には気づけず説明も出来なかったけれど―――落ち付かなくてもぞもぞと膝を動かした。
「天の瞳が堕ち、地の泉が枯れ、世界が輝きで焼き尽くされようとも、我が名、我が魂、我が誇りにおいて、共に闇夜の道を歩まん」
少女は滑らかに誓いの言葉を紡ぎ、直哉の掌を手に取る。来るであろう痛みと、やはりどうにも収まらない落ち着かなさに、彼は心臓の高鳴りを抑えきれない。
そして、少女の小さな牙が、少年の薬指に突き立ち、僅かにそこを吸った瞬間。
「! う、っぐ―――!」
「アン、デ!?」
喉を押さえ、苦しげに呻いた。どうしたことかと、彼がその体を支えようとした瞬間。
彼女が、異形に変化していくのを、目の当たりにした。
その白く美しい体が、黒く硬質で巨大な化け物と化すのを、ただ茫然と直哉は見ていた。毒の苦しみと、伴侶の血の力によって、アンドレーアは呻き、叫び、散々に暴れた。十二の眼から紅い涙を流しながら、中庭の木々や建物の壁を引っ掻き、噛みつき、ぐしゃぐしゃに打ち砕いた。騒ぎを聞き付けた大人達が集まってくるまで、直哉はずっとその光景を見ていた。
確かに恐ろしかった筈なのに、目を逸らすことが出来なかった。体の方が耐え切れなかったのか、駆け付けた父に抱きあげられた瞬間、気を失ってしまったのだけれど。
次に気がついた時には、両親と、泣き腫らした顔をしたアンドレーアがいて。
済まない、済まないと、何度も謝るその姿が、遣る瀬無くて。
「どうして、謝るの」
そう問うた。彼女が、あのようになってしまったのは恐らく己の血のせいで。あんな姿になっても、絶対に直哉自身を傷つけようとしなかったのに。
そんな思いを込めて問うたのに、彼女は縋るような瞳で「覚えて、いないのか……?」と聞いてきたから。
「うん。……よく、覚えてない」
彼女を安堵させる為ならばと思って、嘘を吐いた。


「だから、大丈夫。君の姿を見ても、君の事を、嫌いになったりしない」
「ァ―――……ぁ、」
硬い皮膚の上に、唇を付けるぐらい顔を近づけ、直哉は囁く。それに応えて、異形の太い喉が震える。苦鳴が、僅かな嗚咽に変わる。
「大丈夫。大丈夫だから」
僅かに開いた紅い眼の瞼、そのひとつひとつに、直哉は丁寧に口付ける。そこから零れる血色の滴を、そっと掌で拭ってやる。これが彼女の涙であることも、知っているから。
異形に対する恐怖など、既に感じない。何故なら彼女は、あの時も今も、この恐ろしい姿になっても絶対に、直哉を傷つけることだけはしなかったからだ。ただ直哉を守る為だけに、彼女自身でも忌んでいるこの姿に変わる事を覚悟したのだと解っているから。
「アンデ。大丈夫だから―――泣かないで」
己の体から流れる血が、また彼女の口に流れ込まないようにだけ、細心の注意を払って、直哉は冷たい鱗に頬を擦り寄せる。再び鼻面を何度も撫でてやると、ぴすぴすと子犬のような小さな吐息が聞こえて、大顎が擦り寄ってくる。
直哉は心底から安堵の息を吐いて、一抱えもある彼女の首をしっかりと抱き締める。
そのまま、やっと主の居場所を掴んだアンドレーアの従者達が駆け付ける短い間、ずっと寄り添っていた。



惨劇の終わったホテルから、やや離れたビルの屋上に、月明かりに照らされて、ずるずると地面にへばりついた影が滑り集まっていく。
やがてそれは一つの塊となり、門間の姿を作りだした。
「くそっ、なんて……なんてこった」
しかしその半身はまだ影に融けたままだ。吸血貴ならば大概あの程度の傷では死ぬことはないが、齧り取られた部分はそう簡単に再生出来ない。彼も暫くは潜伏し、傷を癒すことしか出来無いだろう。失敗したことで、この国の同族達からの風当たりも強くなる事を予想し、門間は憤懣やる方ないと言いたげに呼気を吐く。それもこれも皆、あいつらのせいだという怨嗟を漏らそうとして、
「まぁ、見苦しい事。やはりこの国の血族にはろくな者がいないわね」
「っ!!」
自分を嘲る声を捉え、反射的にそちらを睨みつけた。
屋上の給水塔の上、夜闇の中に輝く、翠の瞳が一つ。
「これもあの子の修業かと思って見逃しておいてあげたのに、やる事なす事軽すぎるわ。相手を否定したいのならば、己が命と誇りを、全て懸けて戦いなさいな。逃げてしまえばもう、お前には如何なる慈悲も与えられないのよ」
「黙れ、使い魔の分際で……!」
自分を見下す猫を苛立ちのままに怒鳴りつけてから、門間は重要なことに気付いた。あれの使い魔が、自分の存在を既に掴んでいるの、ならば。
思考が繋がった瞬間、逃げを取った。誇りなど、命が無ければ表せない。体を再び影に沈め先刻と同じように分散して逃げようとした、その時。
「―――喋り過ぎだ、マリチカ」
そんな声が響き、彼の体は自ら分かつ前に、ぞぶん、と四つに切り裂かれた。本来何者の攻撃も受けない筈の、影に変じた体が。
「ひ、ぎっ……!?」
何が起こったのか解らず、動けないまま門間は再び猫を見る。猫は変わらず、給水塔の上で悠々と座ったままだ。そしていつの間にか、その後ろに立つ影が、一人。
乱雑に撫でつけられた赤髪を風に靡かせ、冷たい青の瞳で門間を見下ろしている。それを確認して、いよいよ門間の瞳は恐怖一色に染まった。
吸血貴同士が戦って敗れた場合、敗者には何も与えられない。その地位も誇りも全て剥奪され、何をされても文句は言えない奴隷の地位に落とされる。彼等にとって敗北とは、中々訪れぬ死よりも恐ろしい結末だった。
尚且つ、そんな時に実力差の有り過ぎる高位の吸血貴に出会っては。
「…………ディ、ミトリエ様……お、お許」
「貴様と話す言葉は持ち合わせていない」
静かに、だが鋭い言葉が門間の命乞いを止めた瞬間、ぞぶん。今度は八つ、更に二つずつに分けられた。相変わらず、門間を切り裂くものの姿は眼で捉えられない。
「ぎぁ! あ、あ、ぐっ」
「そして貴様の言葉も既に聞く価値に値しない。貴様は吾輩の、この世で二番目に大切なものを傷つけ、蔑み、侮辱した」
ディミトリエは一歩も動いていない。指一本動かしてもいない。それなのに何かが、門間の体を切り裂き、削り、闇に返していく。
「それ故に貴様の未来は、苦しむ死か苦しまぬ滅かの二択しかない。貴様の嘆願も怨嗟も、吾輩には何の意味も成さないのだ」
門間が何を思い、何を企み、何を恨んで直哉を狙ったのか。また、そこまで至る理由として、彼の身に何があったのか。
そういうものに、ディミトリエは一切興味を払わない。聞く気も無いし、話す事を許そうともしない。何故なら彼は、非常に―――激怒していたのだ。
そして彼は朗々と、闇夜に響く断罪を唱えた。
「ディミトリエ・オイゲン・シルヴェストリの名において、貴様の存在は否≠ナある!」
ぞぶぞぶと、影が、門間の体が、切り裂かれていく。彼自身は何故か痛みを感じていない。ただ体が、まるで一口ずつ噛み砕き飲み込まれていくような不快感だけが、彼の脳髄に残っていく。最早、顔を、喉を食われ、悲鳴すら上げられない。
「貴様の血も否=I 名も否=I 吐息すらも否≠ナある! 髪の一筋、血の一滴に至るまで、この世界に残すことは許さん!」
そしてそのまま、意識すらも端から食われ、砕かれ、飲み込まれて―――消えた。
門間という存在を一口残らず食べ尽くした「それ」は、しゅるりとディミトリエの指輪のひとつの中に戻る。それが何であるのか、人が見ても感知は出来なかっただろう。千里先を見通し、全てのまやかしを見破るという単眼猫の目でも、それを見ることは叶わない。
「否定≠フ指輪―――久しぶりに使ったわね。あんな小物相手に、大盤振る舞いしすぎではなくて?」
「ふん、吾輩の息子を徒に傷つけた罪、これでも安いであろう。―――マリチカ、何故すぐに教えなんだ」
概念をそのまま叩きつける秘術の指輪―――高位の吸血貴でもそう持つ事は出来ない神秘を一度指先で擦り、普段の躁状態では有り得ない、静かに冷たい声音のまま主は己が使い魔に問うた。目の良すぎる単眼猫は、先刻自分で言っていた通り、門間の正体を知っていながら主にすら伝えていなかったようだ。本来絶対に逆らえない筈の主に対し、マリチカは全く動揺する素振りすら見せず、優雅に尻尾を振って応える。
「シルヴェストリ家の嫡男、貴方の一人息子が、この程度の試練すら越えられなくてどうしろと言うの?」
「むぅ……試練をわざわざ増やす事もあるまいに」
「知っているけど、貴方は息子に甘過ぎてよ」
「直哉はまだ十七歳だ」
「もう十七歳よ」
一つの眼と二つの眼が睨みあい―――根負けしたのは主の方だった。やれやれと肩を竦め、首を振る。
「お前を直哉の教育係としたのは間違いではなかったが、吾輩は後悔しているよ。……我が愛息を迎えに行ってやってくれ」
「褒め言葉として頂いておくわ、我が主様。仰せのままに」
ゆるりと眼を細めてマリチカは微笑み、ひらりと別のビルに飛び乗って、優雅に歩き去る。そこに残ったのはディミトリエと―――もう一人。
「……待たせてしまったね、史子」
「いいえ、あなた」
給水塔の影に隠れていた直哉の母・史子が顔を出す。応える顔は笑みを浮かべているけれど、その色は浮かない。あまりにもおぞましい、良人の下した処刑をその目で見てしまったからだ。しかしこれは、彼女自身が望んだことでもある。
例えどのような苦難が振りかかろうとも、この男の妻であろうと決めた時から。彼が下す全ての結論に従う限り、そこから眼を逸らす真似だけはすまいと誓ったのだ。
そして今、向かい合う良人の瞳の輝きが増している。そこに籠るのは、愛情だけでなく、抑えきれない渇き。秘術を使ったが故に枯渇した彼の魔力を癒す為に、必要なものを持っているのは彼女だけ。
ディミトリエの指が史子の頤に伸びる。史子は抵抗しない。
静かな口付けがほんの僅かな時間続き、裏腹の激しい抱擁が互いの体を繋ぐ。
そして、ディミトリエの牙が史子の喉に刺さる。優しく、ほんの一口、その甘露を吸って離す。
これでまた、彼女はあの醜悪な肉塊に一歩近づく。その結末を少しでも伸ばす為に、また眠らなければならない。
恐れはしない。それが二人で選んだ道だから。
ただ、また独りにしてしまう息子が不憫で、史子は一粒だけ涙を零す。
ディミトリエはそれを全て理解し、また慰めるように、そっと指でその雫を拭った。