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V 小市民とデート

家と学校、つまり直哉の普段の行動範囲からかなり離れた隣町の繁華街。巷ではデートスポットと呼ばれているそこの駅前を、待ち合わせ場所に指定した。
電車の窓硝子に、いつも通りの無愛想な自分の姿が映っている。何を変えられるわけでもないのに、おかしくないか、つい気になって何度も見てしまう。
ファッションセンスに関して、彼は全く自信が無かった。普段着の姿を他者に見せれば、父は「もっと装飾をつけろ」とどう見ても不似合いな宝飾具ばかり差し出して来るし、母は「やっぱり新しく買ってきた方が良くない?」と首を傾げるし、執事は「良くお似合いです」としか絶対に言わないし、猫は鼻で笑うだけだった。
硝子向こうの風景に映って見えるのは、何の変哲も無いシャツとブラックジーンズに、ジャケットを合わせただけの姿。顔と、手から二の腕にかけてはちゃんと日焼け止めを塗ってきたので、手袋をする必要はない。首に細長いストールを巻いているのが唯一の洒落っ気だろうか。
アンドレーアと会う時に、こうやって服に気を使うのは初めてだった。迂闊に昨日その事実を漏らしてしまい、両親と猫から散々責められた。三者三様のその答えを纏めると、自分の為にめかし込んできた相手に対する礼儀として身嗜みを整えないとは何事か、ということらしい。確かに仰るとおりだったので、直哉も反省した。それを生かせたかどうかは、自信が無いが。
一人反省会を開いているうちに、電車は目的地に着いてしまった。改札口を抜け、手早く傘を差す。男性の日傘があまり普及していないこの国では、多少奇異の目で見られてしまうが、直哉は勿論気にしない。
駅前の、誰が作ったのか全く知らないけれどインパクトだけはあるオブジェが待ち合わせ場所だった。見ればすぐに解るからと、アンドレーアには伝えておいた。
其処には既に、華美な刺繍入りの黒い傘がひとつ。
思わず時計を見て、直哉は時間を確認する。待ち合わせの時間の、30分前丁度。今日も生憎の快晴で、この中を一人待たせるわけにはいかないと早めに出たのだが、どうやらそう考えたのは相手も一緒だったらしい。
真上から落ちてくる光をしっかりと傘で防いでいる、銀色の美貌が其処に居る。
その姿を改めて見て、直哉はもう一度驚かざるを得なかった。
彼女はいつも愛する男に逢う度、いつもデザインの違う美しい黒色のドレスを身に着けていた。しかし今日の装いは、直哉が今まで見たことの無い姿だった。
髪を纏めて帽子に収めているのは昨日と同じだが、シンプルなキャスケット帽だ。こんなに宝飾の少ない帽子は彼女の物としては珍しい。服も、色は黒で統一しているが、軽めのカットソーとパフショートパンツ。そこから伸びる綺麗な細い脚は、膝上まであるソックスで覆っている。
アンドレーアにしてはあまりにもカジュアルなその姿に、直哉は一瞬呆然としてしまうが、足は勝手に彼女の元へ向かっていく。
周りから僅かなどよめきが起こる。ここは待ち合わせ場所であると同時にナンパのスポットでもあるのだが、流石の手錬達も、この国のこの場所に似つかわしくない、氷の美貌を持った少女に声をかけるのは二の足を踏んでいたようだ。衆人環視の中、直哉は目的地に辿り着く。
「アンデ、ごめん。待たせた」
「、ナーヤ」
俯いていたアンドレーアは、近づいて声をかけるまで直哉に気付かなかったらしい。ぱっと顔をあげ、口元を僅かに綻ばせる。互いに他者には気付かれないほどの笑顔を交わし、空いている方の手を自然に繋いだ。またどよめきが起こるが、勿論二人は気にしない。普段なら直哉は躊躇うかもしれないが、彼自身も本日の「デート」にかなり浮かれているのだ。
「ナーヤ、その服はいつ仕立てたんだ? 良く似合っている」
「全部既製品だよ。アンデこそ、それ」
どうしたんだ、と言いかけて、落とした視線の中に普段絶対に見ることの出来ない、彼女の青白い太股が入り、言葉が引き攣る。その反応を不振と取ったのか、アンドレーアも自分の姿を見下ろす。
「色々、調べた。この国で、ナーヤの隣に並んで映える服を。似合わないか?」
「そんな馬鹿な」
何より先に、直哉の唇から否定が零れ出た。彼を振り仰ぎ、ぱちりと瞳を瞬かせるアンドレーアに、僅かに頬を紅潮させつつも、直哉は言葉を続けた。
「似合ってる」
流石にまだ辺りに人が多く、やっと言えたのは、ただそれだけだったけれど。ぎゅっと繋いだ手に力を入れて、残りの返事に代えた。
「……良かった」
ふ、と漏れる吐息とともに囁かれ、同じぐらい手指に力を込められたので、直哉はますます何も言えなくなってしまった。
アンドレーアは満足げに、彼と歩幅を合わせながらも、目に付いた店を興味深そうに覗いている。やはり服飾店やアクセサリー店が一番気になるらしく、足を止めがちになっていたが、ある店の前で完全に止まった。
「ナーヤ、ここは何屋だ?」
「ん? 携帯屋」
直哉の端的な説明の通り、昨今一番の流通を誇っている携帯電話ショップだ。あまり使う頻度は高くないが、直哉の携帯もこのメーカーで扱っている機種になる。それなりに混んでいる店の中には、色とりどりの携帯電話がディスプレイされていた。
「けーたい、携帯、か。何を携帯する店なんだ?」
「ごめん、説明が乱暴過ぎた。携帯電話、のお店」
「電話、は解るぞ、ナーヤの家にある機械だな。あれを持ち運ぶのか?」
きょとん、と随分珍しい顔をしたアンドレーアに見詰められ、彼女にはそんなものが必要ないのを直哉は思い出した。相手に連絡をつける為には使い魔に手紙を持たせるし、同じ吸血貴同士で波長が合えば、どんなに離れていても秘術で思念の会話をすることが可能だからだ。当然、そんな素質を持たない直哉にはどちらも出来ない。
「人間の連絡手段としては一番便利だと思うよ。こういうの」
そう言いながら、ポケットの中に一応いつも入れてある携帯電話を取り出して、アンドレーアに見せた。彼女は興味深そうにそれを両の手に取り、まじまじと見詰めながら問う。
「これを使えば、ナーヤからの声が聞こえるのか?」
「まぁ、そんな感じ。アンデもその機械を持たなきゃ駄目だけど」
「解った、ではここでこれを買おう」
「え」
唐突に言い切られた言葉に驚く暇もあればこそ、アンドレーアはするりと店の中に入り込む。いらっしゃいませ、と外国籍であろう客にもマニュアル通りの接客をする店員の間を抜け、真っ直ぐにカウンターへ向かっている。慌てて直哉も後を追うが、彼が止めるよりも先に彼女は直哉の携帯をカウンターの上に置き、口を開いていた。
「店主、これと同じものを用立ててくれ」
「は、はいかしこまりました。こちらと同じ機種ということで、宜しいですか?」
「ああ」
「少々お待ち下さいませ、確認致します」
客の容姿と言い様に面食らったものの、そこはプロの接客業を営むカウンタースタッフは、手早くカタログを確認し始める。
「アンデ、どうしたんだいきなり」
「言っただろう、この携帯、電話というものを買う」
「だから、どうして?」
本当に彼女の行動が解らなくて、直哉が途方に暮れた声を出すと、アンドレーアの方も不思議そうに首を傾げて彼を見上げる。
「これがあれば、ナーヤといつでも話せるのだろう?」
それ以外に理由など無い、とその言葉と真っ直ぐな紅い瞳に告げられて。
「………人間用の身分証明、出来る?」
「ああ、いつ必要になるか解らないからな、持ち歩いている」
だらしなくなりそうな口端を必死に引き締めながら、店員を待つ事になった。



結局、文明の利器といえどあまり活用する機会も無かった直哉の持っている機種は、大分古いものだったので在庫が無かった。直哉の取り成しと店員の頑張りの結果、アンドレーアは若干の不満を持ちつつも、最新機種を一台買うことで落ち着いた。
店を出てから、アンドレーアは手の中の小さな機械を何度も眺め、手の中で握り締めるような仕草をする。と、その機械は音も無く、彼女がいつも右手に嵌めている指輪に吸い込まれた。物を折り畳んで仕舞う秘術の指輪は、原理が解らなくても彼女や父親が昔から活用しているので、直哉も今更驚いたりはしない。
改めて手を繋いで歩き出すと、アンドレーアは満足げに息を吐いて言った。
「人間とは素晴らしいものを作り出すな。これでナーヤの声が、いつでも聞けるのか」
「ご両親に見つからないようにな?」
「解っている、見つけられたら、壊されてしまうからな。内緒だ」
人間の作った正体不明の機械など、「一般的な吸血貴」であるアンドレーアの両親、バラウール家現当主とその妻にとっては唾棄すべきものでしかない。二人の密やかな関係も、いつまで許されているか解らないほどに、彼等の嫌悪と拒否は凄まじい。アンドレーアにとっても、実の両親と争うなど、気持ちのいいことではない筈なのに。
「アンデ」
「うん?」
「辛くないか」
「平気だ。父上と母上の気持ちは重々承知している、だが私も譲る気は無い。私の伴侶はナーヤ以外にいない、あの時出逢ってから、ずっと」
淡々とそう言われて、直哉もぼんやりと昔の事を思い出す。己の薬指に誓いの傷が付けられた日の事、昨日見た夢の続きを。
「……何度も、聞いてる気がするけど」
「構わない。お前の問いには何度でも答えよう」
繋いだままの手指を軽く動かし、彼女は指先で愛する男の手の甲をそっとなぞり、言葉を促した。それに勇気を得て、直哉は口を開く。もう何度も、彼女に聞いている問いかけを、もう一度。
「如何してアンデは、俺を選んでくれたんだ?」
あの時、出会ったばかりの弱き混血、それの何処に彼女が惹かれたのか。当の本人である直哉には、未だに解らない。
「お前以外に、いないと思った」
そして、そう返して来る彼女の答えも、何度聞いても変わらない。しかし直哉の僅かな不満を感じ取ったのか、アンドレーアは真摯な声で、歩きながら言葉を紡いだ。
「ナーヤ、懺悔を聞いてくれるか?」
「俺で良ければ」
「有難う。―――恥ずかしながら私は、お前に出会うまで、人を食物のひとつとしてしか認識していなかった。だから、奥方様と婚姻を結んだ伯爵殿の話を聞いても、愚かにも不快だとしか思わなかった」
「うん」
人間の側から見れば理不尽な言い方だけれど、吸血貴の方から見れば当然の感想とも言える。ルニィ・ノァプテに居る人間とは、吸血貴に隷属し飼われているものか、屍鬼に成り果ててしまったものしか存在しないのだから。幼い頃、そんな状況を何度もルニィ・ノァプテで見てきた直哉は、素直に頷く。ペットや家畜と愛し合い、子供まで成したと言われれば、おぞましいと感じるのも無理は無いだろう。
「だがその愚考は全て、お前と出会った事によって払拭された。お前がどこまでも、誇り高く優しかったから」
「……褒め過ぎだ」
「過ぎてはいない。相応しい賛辞だ」
直哉にとってあの拙い宣誓は、軽過ぎて恥ずかしくなる代物なのだが、アンドレーアはそれを讃える。
「我等は血と掟によって互いを縛る。親子でも、夫婦でも、愛によって隷属させる術しか知らない。だがお前は、己の魂をかけて、両親の誇りを守ろうとしていた。あの時私は―――」
そこでアンドレーアは一度言葉を切り、空を見上げた。勿論、黒い傘越しにであったけれど、その目は眩しそうに太陽を見ている。
「お前が、この世で一番輝いて見えた。この目で確かめることは叶わないけれど、きっと太陽の輝きとは、あれほど眩しいのだろうと、んむ」
「ごめん、アンデ、勘弁。もういいから」
そこで耐え切れなくなって、直哉はアンドレーアの口を空いている方の手で塞いだ。答えが欲しいと思ってはいたけど、ここまで情熱的に告白されるのは、予想外過ぎて頬が熱い。
だが同時に、今後彼女の想いを疑うような言動は一切止めよう、と心密かに誓った。彼女のこの真摯な思いを否定するのは、彼女自身を否定することに繋がる。そんな失礼なことが、出来る筈もない。
「んーん」
「……ありがと、アンデ」
口が塞がったまま名前を呼んでくれる彼女に、何とか伝えられたのはその一言だけ。己の口の重さが嫌になるが、それでも彼女の瞳が微笑むように細められた為、安心した。
そっと手を離すと、宥めるようにその指先に、小さくアンドレーアが口付ける。
「困らせたな、ナーヤ。どうも今日は、浮かれている。太陽に当てられてしまったのかもしれない」
「俺も」
普段よりテンションが高くなっているのは、どうやら彼女も同じだったらしい。似ても似つかないのに、感情が顔に出にくいのだけは良く似ているお互いが、ちょっとおかしくなる。もう一度互いにしか解らないぐらい小さな微笑みを交わしてから、歩き出す。
「これから、どうしようか」
「ナーヤが普段、食べている外食を食べてみたい」
「……ハンバーガーとか?」
「ああ、それで構わない」
絶対どんなものか解らないで頷いているな、と直哉は思ったけれど、食べさせて反応を見せてみたい悪戯心が沸いたので、素直についてくる彼女の手を引いて、この国で一番店舗数の多いハンバーガーショップへ向かうことにした。
店に入ると、周りの客や店員の無遠慮な視線が外国人の美少女に向けられるが、殺意さえ篭らなければ、見られる事に慣れている彼女は、向けられる視線を意に介さない。しかし、喧騒と油の匂いが支配する、初めて入る店には興味を惹かれたらしく、忙しなく周りを観察している。店員が案内するレストランにしか入った事が無いだろう彼女を、直哉は先に促して壁際の二人席に座らせた。
「適当に買ってくるから、座ってて」
「解った。お前に任せる」
昼時で込み合うカウンター前に並んで暫く待ち、同じセットを二人分携えて席に戻った。退屈させているかと直哉は内心不安だったが、アンドレーアは先刻買った携帯電話の説明書を真剣に読み耽っていたのでほっとする。
「お待たせ」
「ありがとう、ナーヤ。不覚にも今気がついたのだが、買ってくるということは既に代金は払っているのか?」
「ん? うん」
分厚い説明書を指輪に仕舞いながら―――手品のように鮮やかすぎて、幸い他の客に見咎められることは無かった―――、重大な事実に気付いたと言いたげにアンドレーアが身を乗り出して来る。素直に直哉が頷くと、やはりそうなのか、と僅かに眉を下げた。
「この店は先払いなのだな、失念していた。私の分の代金は幾らになる?」
「いいよ、奢る」
「そんな浅ましいことをするわけにはいかない。受け取ってくれ」
「いいって」
彼女の常識では、料理の会計は食後にテーブルで行うものだったのだ。実は直哉もそうだろうと予測していたので、寧ろスマートに奢る事が出来たと内心ガッツポーズをしていた。ここは譲るわけにはいかない。
「大して高いものじゃないんだから」
「そういう問題では無いんだ」
「……頼むから、これぐらいさせてくれ」
先刻の真摯な告白にはとても釣り合わないお返しだったけれど、口下手な直哉にはこれが限界だった。
「…………解った。では次の店は、私が払う」
「……安いところでいいからね」
いつになく折れない直哉に、唇を僅かに尖らせつつ、仕方ないとアンドレーアは溜息を吐いて答えた。これで夕食は、彼女御用達のとんでもなく高いレストランに連れて行かれるかもしれないが、当面の勝利をしたことで直哉も安堵の息を吐く。
アンドレーアは狭いテーブルに置かれた、プラスチックトレイの上に並んだ料理であろうものを興味深そうに観察してから、丁寧に包装を剥がし始める。勿論直哉も同じようにした。
「……ん、ナーヤ、これはどうやって食せばいい?」
「そのまま、がぶっと」
「がぶっと……こう、か、ん」
バンズに挟まれたハンバーグとチーズに戸惑っていたアンドレーアだったが、実践して見せた直哉の動きを真似て、どうにか端に齧り付いた。どんなに努力をしても上品に食べる事など出来ないそれは、やはり彼女の唇の周りに少なくないソースを残してしまう。
「……やっぱり、別のものの方が良かったかな。そんなに美味くもないだろ?」
「ん……そうだな。だが、面白い」
舌の肥えたお姫様は口元を丁寧に手布で拭いつつ、それでも嬉しそうに目を細めている。面白い、というのは素直な感想だろう、恐らく物を手掴みで食べるのも初めての筈だ。実際気に入ったらしく、口元を綺麗に清めてから、また改めてハンバーガーを手に取っている。
「それに、ナーヤの普段の生活を知る事が出来るのは、嬉しい」
もう一口齧り、やはり口元を拭いながら、独り言のように彼女は呟く。
「ナーヤといると、私はどんどん欲深くなる。知らないことは知りたいし、同じものを共有したい。あの機械も、この料理も、そのひとつなのだから、嬉しくない筈がない」
―――窓の外からは太陽の光。本来其処に有り得ない、美しい銀色の吸血姫。その言葉は何処までも真摯で、直哉は堪らなくなる。
彼女の想い全てに応えるには、如何すればいいのか解らない。たかがファストフード一食の奢りで返せるわけもない。無力感に苦しくなる喉を、甘味しか付いていない炭酸でどうにか潤した。
かなりの時間をかけて、トレイの上の食物を二人で片づけてから、改めて直哉は問う。
「次、どこに行く?」
「この店の下階に、賑やかな場所があった。あれは何だ?」
「ゲーセン、ゲームセンター。行ってみる?」
「ああ」
外からでも騒がしさが解る、電子音に塗れた店は、ここよりも更に彼女に不似合いな場所ではないかと思ったが、向こうが興味を持てば否とは言えない。ちゃんと手を繋ぎ直して、直通の階段を使って階下に降りる。
一昔前に流行ったビデオゲームより、UFOキャッチャーやプリクラの方が幅を利かせている店内に入ると、その音量にアンドレーアは面食らったようだったが、それでも興味は尽きないらしく、きょろきょろと辺りを見回す。やがて、一番気になったらしいUFOキャッチャーの傍に近づき、中を覗き込んだ。
「随分と玩具が詰まっているな。売り物なのか?」
「ん、ここで操作して、この機械で掴めば貰える。一回ごとに金はかかるけど」
「成る程」
指を差しながら説明する直哉も、あまりゲームセンターには足を運ばない。特にこの手のゲームはどう考えても金の無駄だと考えてしまう性質だ。しかし、アンドレーアの足はひとつの機械の前で止まってしまった。幾分小さめのそれの中には、ストラップなのだろう、紐の付いた真ん丸いカエルのマスコットがころころと沢山収まっている。
「これは愛らしいな」
「…………欲しい?」
思わず呟いてしまったのだろう台詞に対して直哉が確認すると、はたとアンドレーアは彼の方を向き、恥ずかしそうに目を伏せた。先刻の食事代もあれだけ渋った彼女の事だ、強請るような言動だったと、己を恥じているのだろう。その辺りを全て理解したうえで、直哉は財布から硬貨を取り出す。
「ナーヤ?」
「あんまり得意じゃないけど、やってみる」
「いい、そんなつもりでは―――」
「俺が取りたいから」
きっぱり言い切って反論を封じ、改めて機械に向き直る。幸い、品物自体はそんなに重いものではなく、紐にひっかけさえすれば取れるであろう予想はつく。難しいものを狙わなければ、無事に手に入れる事が出来た―――それでも直哉の腕では、五百円かかってしまったが。
「―――よし。はい、アンデ」
千円かからなくてよかった、と内心思いつつ、ころんと出口から転がり出てきた赤色のカエルをアンドレーアに差し出す。しかし相手は俯いたままで、手を伸ばさない。
強引過ぎたか、或いは時間がかかり過ぎたかと直哉が焦る一瞬前に、おずおずと手が差し出される。ほっとしてその上に柔らかいカエルを乗せると、彼女はきゅ、と両の掌で包みこみ、そっと口付けを落とした。
「……有難う。大切に、する」
うっとりとした感謝の言葉が、桑の実色の唇から漏れる。たかがUFOキャッチャーのストラップひとつで、そこまで嬉しそうにされたら、直哉の方も立つ瀬が無くなってしまう。
「……どういたしまして」
何とかそう返しつつも、彼女の態度を言い訳にして、プレゼントなどろくに渡していなかった事実を直哉は反省した。
「アンデ、さっきの携帯出して」
「うん? ああ、構わないが……」
首を傾げつつも従い、取り出された深い赤色の機械に、直哉はカエルのストラップを手早く取り付けた。はい、と戻されたそれをぎゅっと握りしめ、アンドレーアは熱に浮かされた口調で言い募る。
「ああ、ナーヤ、済まない。傘を任せてもいいだろうか」
「? いいけど」
今度は直哉の方が首を傾げると、アンドレーアは片手に携帯を持ったまま、直哉の手をもう片方でぎゅっと握りしめる。これで両手が塞がるから、傘が持てないのだと言いたげに。勿論直哉は、彼女の願いを叶えることにした。
飾り気のない直哉の黒い傘の下で、少女が軽やかに歩く。時折自分の手の中の、愛する男からの贈り物を、嬉しそうに何度も見詰めながら。
「……アンデ」
「うん?」
「もっと、欲しいものがあるんなら、言っていいんだ」
繋いだ手指に力を、声には出来る限り感情を、それぞれ込めて直哉は言う。彼女に与えられるだけで、自分からは何も差し出せない、罪悪感で心臓を燻ぶらせながら。
上機嫌で歩いていたアンドレーアの足がそれでふと止まり、低い位置から確りと目線が合わせられる。
「ナーヤ。先刻も言っただろう、私は欲深い。お前に許されるなら、全てをと望みそうになる。それでは、駄目だ。私はお前を搾取したいわけではない」
「けど」
「ナーヤ」
反論は、唇に感じる吐息で封じられた。ぎりぎりで触れる位置に、桑の実色の唇がある。街中での大胆な行動は当然衆目を集めるが、直哉は咄嗟に静止出来なかった。
「私を許すな、ナーヤ。もし、箍が外れたら、また、お前、に―――……」
「アンデ? ―――!」
いつも己の意に従い、滔々と紡がれる声が途切れがちになり、ふっと吐息だけになって消える。違和感に直哉が気づいた時には、既にアンドレーアは意識を失い、瞼を閉じて体をくたりと直哉に預けていた。普段青白い顔が、随分と紅潮している。それを確認して、直哉の顔からは血の気がざっと引く。
―――日に当たり過ぎた!
人間の文明の利器による遮光の効果が、切れかけているのかもしれない。普段の建前も羞恥心も一気に吹き飛ばし、直哉は脱いだジャケットを彼女に被せ、そのまま体を横抱きにすると、何とか傘を抱えて走り出した。当然衆目を集めるが、全く構わずに。
建物の中に入ろうかと思ったが、却って他人に心配されると拙い。下手に医療行為を施されたら、彼女が人間ではないことが判明してしまうかもしれない。なるべく人のいない所へと探し回っていると、緑地帯を兼ねているのだろう公園を見つけた。大きな木も何本か茂っていた為、その木陰にジャケットを広げ、アンドレーアを降ろす。日の光を遮られ、僅かに楽になったようだが、それでもまだ息は荒い。僅かに唇が動いて、もどかしげに舌がそこを舐めるのが解った。
―――渇いているのだ。たったひとつのものでしか癒せない渇きが、彼女を苛んでいる。
思わず、自分の唇を噛み破りたくなった。口付けてその血を与えれば、一時でも彼女は癒せる、だがそれは互いに望まない事だと誰よりも理解している。
無力感に吐きそうになり、それを堪えて握られた直哉の拳に、そっと冷たい手が添えられた。はっと俯いていた顔を上げると、紅色の瞳がゆるゆると瞼を抉じ開けていた。
「―――アンデ」
「すまない……少し、はしゃぎ過ぎた、な」
安堵の息と共に名を呼ぶと、まだ弱々しくはあるものの、ちゃんと返事が返ってきた。しかしまだ、額や首筋に触れてみると、普段の彼女では有り得ないほど熱い。今の今まで気付かなかった罪悪感が、直哉の胸を抉った。
「気付かなくて、ごめん」
「謝らないで、くれ……つい先刻まで、私も気付かなかったんだ。楽しくて……我を忘れていた」
手遊びのように、細い指が直哉の拳の上で遊ぶ。答えて掌を返し広げてやると、落ち着く場所を見つけたように、同じ傷の付いた左手同士が重なる。それだけで不思議と体調は良くなるようで、戻って行く彼女の顔色に直哉は安堵した。身を起こそうとする相手の背を支え、木に寄りかからせてやる。その隣に腰を下ろすと、顔の位置が近くなったおかげで、直哉は別の事にも気づくことが出来た。
大分赤みの退いた頬の上側に、化粧で隠していたのだろう僅かな隈が浮かんで見える。本来睡眠時間である昼間に出歩いているから当然としても、己の体調と美に、常に気をかけているアンドレーアにとっては珍しい事だ。そこまで考えて、直哉にもぴんと来た。指摘しようかどうしようか迷ったが、結局口をそっと開いてみる。
「アンデ、もしかしてあんまり寝てない?」
「…………」
失態に気付かれた事に気付いたのだろう、紅色の眼が空を泳ぎ、俯く。しかし、愛しい相手に沈黙を保つ方が耐えられないのか、何度か唇を開閉し、結局頬を直哉の肩に擦りつけて呟いた。
「……情けない、失態だ。笑ってくれて構わない」
「笑わないよ」
内容を聞く前に直哉は言った。しかしいよいよアンドレーアは困ったようで、彼女にしては本当に珍しく、愛する男と眼を合わせないままでほそほそと呟く。
「作ろうと、思ったのだが、失敗した」
「うん?」
「何か、菓子でも」
「ええと」
「台所の者に気付かれないように、太陽が昇ってから始めたのだが、三回の挑戦が限度だった。……食せるものが作れなかった」
いまいち要領を得ない彼女の話し方に、直哉は二、三回眼を瞬かせたが、漸く意味を飲み込めた。つまり、昨日の夕方に宣言した行為を実践しようとして、失敗してしまったということだ。
角度から彼女の顔を覗き込むことは出来ないが、銀糸の間から僅かに覗く耳の端がほんのり紅く染まっている。己を恥じているのだろうその姿を、申し訳ないけれど直哉はぎゅうっと抱き締めてしまった。それ以外に、全身から沸き上がるこの愛しさを、昇華する方法が思いつかなかったのだ。愛しい相手の匂いと優しい圧力に包まれて、アンドレーアは眼を見開いて戸惑いの声を上げる。
「ナーヤ?」
「ありがと、アンデ」
「礼は、必要無い。失敗してしまったのだから」
「それでも、嬉しい」
吸血貴が重んじるものは血によって受け継がれる能力と記憶。だからこそ、教えや学び、書物や言葉に依る技術の伝達が軽視されてしまう。料理に関して何の知識も経験も無いアンドレーアが菓子作りをすれば、失敗して当然だ。
ただ、彼女が自分の為にしてくれた努力を、直哉が否定できる筈も無い。困ったように身を捩るアンドレーアを宥めたくて、言葉を重ねた。
「今度は、母さんに頼めばいいよ。喜んで教えてくれるから」
「……奥方様の貴重なお時間を、私が浪費するわけにいかないだろう」
「向こうも嬉しいだろうし、俺も嬉しいから、お願い」
もう一度ぎゅっと腕に力を込めると、アンドレーアの身動ぎが止んだ。はふ、と小さく息を吐く音が直哉の耳元で聞こえて、その背に細い腕が回る。
「ナーヤが嬉しいのなら……試みよう」
「うん」
安堵で腕の中の体が弛緩するのを確かめてから、ふと此処が外で人通りも決して少なくない昼日中だと、直哉は漸く思い出した。幸い公園の中からは木が陰になって見え辛いが、それでも不躾な視線は僅かに感じる。直哉は兎も角アンドレーアの造形は只でさえ目立つのだから、注目されるのは最早必然とも言える。今更ながら羞恥の波が襲ってきて、直哉はぎごちなく己の腕を外した。アンドレーアも、珍しく思い切り相手から抱擁されて嬉しかったのか、抵抗せずに離れる。
「まだ、暑い? 何か冷たいの飲む?」
「そうだな……ナーヤの普段飲んでいるものを」
先刻の食事と同じような提案をして、立ち上がろうとするアンドレーアを直哉は静止する。まだ顔色を見る限り、彼女の体は本調子とは言えず、また太陽の下に出るのは危険かもしれないので。
「俺が買ってくるよ。すぐ戻ってくるから」
「……今度はちゃんと代金を払うぞ、幾らになる?」
渋々と静止に従いつつも、これだけは譲れぬと言いたげにアンドレーアは直哉の袖を離さない。流石にまた押し問答をするのも何なので、彼女が用意していたのだろう、ちゃんとこの国の硬貨の入った財布から、百円玉だけ一枚取り出して直哉は最寄りの自動販売機に向かった。
そんなに銘柄の多くない中から、炭酸入りと炭酸無しの缶を一本ずつ買い、それを手に戻ろうとした、瞬間。
ぎりりりっ! と、左手が軋んだ。
「っ、ぐ!」
指を捩じり切られるような痛みに耐えきれず、缶を持っていることが出来なくなり、ごつんとスチール缶が地面を叩く。痛みの正体が何なのか解らないまま、直哉は左手を見る。
―――薬指の根元、誓いの噛み痕が、まるで食い千切られかけたかのように血を流していた。
「―――!」
その状態を理解した瞬間、直哉は木陰に取って返す。ほんの僅かな時間、2〜3分もかかっていない、その筈であったのに。
「……アンデ」
銀色の少女の姿は何処にもなく。
広げたままの直哉のジャケットと、ストラップのカエルが付けられた携帯だけが、木陰に転がっていた。



婚姻の証である薬指の噛み痕は、互いの思いを知らせる標となる。
逢いたいと願えば、気付かせる小さな痛みを。
寂しいと思えば、共感させる鈍い痛みを。
そして、相手の身に危機が迫った時は。
失ってしまうかもしれぬという、血を流す警告の痛みを与えるのだ。
あの幼き日、小さな姫君に付けられた傷痕を見せた時、父に言われたその教えを、直哉は今も覚えていた。
そして今、息を切らせて、直哉は街を走り続けている。まだ沈まない太陽と、嵩張る日除け傘が疎ましい。これがなければもっと楽に動くことが出来るのに、と。
最初に考えたのは、アンドレーアが同族に拉致されたのだということ。混血を伴侶として迎えた彼女に対し、不満を持つのは彼女の両親だけではない。また、彼女の家自身と対立する派閥も沢山ある。そういう意味では、直哉よりも敵は多かった。
しかし、拉致されたのが昼間だというのがどうにも引っかかる。犯人が吸血貴であるとするなら、日差しの強い晴れの日に、そんな危険な行為を実行するだろうか?
吸血貴に操られた人間、ということも考えられるが、それならば例えアンドレーアが寝不足で、本調子では無かったとしても、遅れを取るとは思えない。血によって受け継がれた秘術にも剣術にも秀でた彼女の強さは直哉が一番知っている。
勿論、アンドレーアが自ら居なくなったという可能性を忘れているわけではない。彼女に危機が迫っていることは間違いないし、何の挨拶もなく彼女が直哉の前から消えるわけもない。つまり―――直哉の命を人質に取られ、やむなく動いた可能性が、一番大きい。
「くそっ」
我知らず、怨嗟が歯の間から漏れた。汚い言葉使いは普段、マリチカからきつく戒められているけれど、吐き出さずにはいられない。
探知の秘術も、思念の会話も使えない直哉に出来ることは、傷の痛みを辿って彼女を探すことしかない。近づけば痛みは増す筈だが、そんなに融通の効くものでもない。ただ今は、噛み傷から血が止まらずに流れ落ちているだけだ。
やがて、西日がゆっくりとビルの間に没していき、街灯が灯りはじめたところで直哉は傘を放り捨てた。日の光さえなければ、直哉の体力も常人よりかなり早く回復できる。一度呼吸を整えるだけで、今までの疲労はかなり取れた。
よし、と膝を一度曲げ伸ばした時、彼の目の前を集団が塞いだ。一瞬身構えるが、僅かに見知った顔を見つける。アンドレーアの従者達だ。一番偉そうな服を着た男が一歩前に出て、横柄にノァプテ語で話しかけてくる。
「姫様を何処に連れ去った、混血(スクラヴィエ)!」
開口一番それか、と溜息を吐きつつ、改めて直哉は思考を引き締める。つまり彼女の優秀な従者達も皆、彼女の行方を掴めていないのだ。主従として血の契りを結べば、主の位置はすぐに解る筈であるのに。主本人が自ら望んで姿を隠すか、何者かに隠匿の秘術を使われるかしなければ、従者が主を見失う筈が無い。
「俺が知りたい、今探してる」
ノァプテ語は父やマリチカ、アンドレーアも多用するので、直哉も聞き取るのは得意だが、喋るのは不得手だ。やはり聞き苦しかったらしく、集団のうち半分は嘲笑を浮かべ、残り半分はますますいきり立つ。「痛めつけて吐かせるか」との物騒な声まで聞こえ、如何するかと彼は逡巡する。従者と言えど吸血貴には違いない、本気でかかられたらあっという間に血祭りに挙げられるだろう。こんなことをしている場合では、ないのに。
「俺を拷問しても、時間の無駄、あんた達が解らない場所に、俺が隠せるわけない」
我ながら情けない論法だったが、説得力はあったらしく従者達の殺気が弱まる。いやしかし、とそれでも諦めきれないらしい一部が、声を荒げようとしたその時。

「自慢できない言い草で勝ち誇るのはおよしなさいな、みっともない」

直哉を嘲る為だけの、高飛車な声が上から聞こえた。見上げると、手近な背の低いビルの上に尻尾を振る影が一つ。直哉が名を呼ぶ前にひらりと飛び降り、全く体重をかけずに彼の肩に、更に地面へと降り立つ。一つの大きな眼をきらりと輝かせ、心底呆れた風に言葉を紡いだ。
「全く世話が焼けるったらないわ、このお馬鹿」
「マリチカ、助かる」
「本当に情けないこと。一人では何も出来ないお子様なのだから」
「ああ。だから、頼む。力を貸してくれ」
躊躇わずにそう言って、直哉はなおも詰りを続けようとする猫に片膝を着き、頭を下げた。己の下らないプライドなど、彼女を助ける為ならば一蹴出来るのだ。
大きな翠の瞳が一度瞬き、そして半分ぐらいに眇められた。恐らく、笑ったのだろう。猫の笑い顔などいつもろくなものではない筈なのに、直哉にとって何故かそれは安心感を与えた。
「少しは良い男になったわね、褒めてあげても良いわ」
満足げに手の甲を舐めて毛繕いをしてから、マリチカはくるりと振り向いてアンドレーアの従者達を仰ぎ見る。
「貴方達は貴方達の仕事を全うなさい。己が主の姿を見失うなんて、僕として恥ずかしく思わないのかしら?」
小さな猫の告げる言葉に、従者達は臆する気配を見せる。同じく仕える者、という地位であれど、それぞれの主の格によって彼らの格も決定される。アンドレーアが直哉の父よりも低い地位である以上、決して無視は出来なくなるのだ。
「理解したのならば、さっさとお去りなさいな。それともこの私を退けて、我が主の息子を絞り上げるつもり? 私としては別にそちらでも構わないけれど」
次の言葉は直哉にとって容赦のない台詞であったが、従者達はどうするかと言葉を交わす前に、僅かにどよめいて全員動きを止めた。
リーダーであろう男の喉に、いつの間にか白い手袋に包まれた指が添えられていたからだ。もう一寸も踏み込めば、喉笛を刺して潰せる位置に。
「グリゴラシュ」
一瞬前まで何の気配も感じさせず、不意に従者達の一団の真ん中に現れたその手の持ち主である老執事の姿に、直哉は思わず彼の名を呼び、猫は溜息を吐いた。全く甘い事、という呟きのおまけつきで。
「遅れまして申し訳ございません。―――ここまでにして頂きましょう。これ以上、我が主の御子息を侮辱するのならば、私も己が誇りを賭けて戦いますが? ―――その気が無いのでしたら、お引き取りを」
普段とは比べ物にならない程の冷徹な声音と、誰にも気取られる事の無かったその動きに、実力をまざまざと見せつけられた従者達の戦意は殆ど霧散してしまった。聞き取れぬほどの声で悪態を吐きつつも、ばらばらと散って行く。当面の危機が去り、直哉もほっと息を吐き、猫と執事に礼を言った。
「ありがとう、マリチカ、グリゴラシュ」
「勿体無きお言葉にございます、直哉さん」
「礼を言っている暇があるのなら、急ぎなさいな」
先刻の殺気を微塵も見せず、グリゴラシュは僅かに笑んで優雅な礼を取り、猫は鼻を鳴らしてそう言った。
「何処へ?」
「あの子の所へよ」
何を言っているの、と言いたげに睨まれ、理不尽な事を言われている筈なのに直哉は反論が出来ない。そんな彼に心底呆れたように溜息を吐き、単眼猫は先導するようにてくてくと歩き出す。
「私の二つ名、忘れたとは言わせなくてよ」
「……もう解ってるのか?」
「巧妙に隠していたようだけど、私の目を誤魔化せるとお思い?」
そこで猫は漸く直哉を振り仰ぎ、すうと単眼の瞼を細める。ルニィ・ノァプテに生まれる単眼の猫は、千里眼―――この世全ての理を見通す力を持つという。その力を買われ、彼女がディミトリエの使い魔となったのは、直哉が生まれるどころか、ディミトリエが史子と婚姻するよりも前の事だ。昔一度だけ聞いたその話を思い出し、直哉の意識がぴんと張り詰める。
「何処だ?」
「先導してあげる、有り難く思いなさいな!」
先刻と似た直哉の問いかけだったが、答えは違った。言いながら、猫は狭い路地裏を駆け出し、勿論直哉もその後に続こうとする。
「直哉さん、暫く。これをお持ちください」
が、それをグリゴラシュが呼び止めた。いつもと全く変わらない、静かな執事の言葉は、珍しく焦りに満たされていた直哉の心を少しだけ凪がせる。相手の方に振り向くと、忠実なる老執事は丁度両掌に載るぐらいの、綺麗に装飾された木箱を差し出していた。
その中身に心当たりのあった直哉は、一瞬迷い、それでも手を伸ばして箱の蓋を開けた。どれだけ優秀な職人が作ったのか、僅かな軋みも引っかかりもなく蓋は開く。中には、血色の絹に包まれた、重量のある何かが一つだけ入っている。
「どうぞ、お持ち下さいませ。これは、直哉さんの武器でございます」
静かに促す執事の言葉に、僅かに心配と謝意が滲んでいるのに直哉は気づけた。丸腰で危険な場所に行かせられぬこと、己はついて行けないこと、何よりこの武器を直哉に渡さねばならないことを、密かに詫びている。その思いを知っているので、直哉は僅かに臆する心を奮い立たせ、絹を剥ぎ取ってその中身を掴んだ。
それは、直哉の手にしっくりと収まる、リボルバー式の拳銃だった。箱と対照的に、特に装飾などは付けられておらず、銘も無い、黒一色の武骨な銃。慣れない手つきでシリンダーを開くと、既に弾は装填されている。その弾丸だけが、まるで血を固めたかのように、紅い。全部で六発、ちゃんと確認してから、彼は未だ癒えない傷を持つ己の左手を握りしめ、そこから滴り落ちる血を、シリンダーの中に一滴ずつ、丁寧に注いだ。その作業を終えると銃をジャケットの内ポケットに突っ込む。流石にこの銃を堂々と持ち歩くことは、この法治国家では出来ない。彼の一連の行動を見届けて、グリゴラシュが改めて深々と頭を下げる。
「戦場に共に立てぬこと、どうかお許しください」
「気にしないで」
沈痛な面持ちのグリゴラシュは、あくまで直哉の父の従者でしかない。先刻は相手も従者であったが故に大見栄を切れたが、吸血貴同士の戦いにおいて、例え親子の間柄でも、他者の従者を己の戦いに使う事は許されない。それは個人の誇りを汚す行為だからだ。だからこそグリゴラシュは、この武器を直哉に託す為にやって来た。吸血貴としては心もとない直哉の、少しでも助けとなるように。
「ご武運をお祈りしております」
「ありがとう。行ってきます」
緊張を隠し、いつも学校に行くのと同じような軽い挨拶で、直哉はグリゴラシュの傍から駆け出した。遅い、と言いたげに立ち止まって足を踏み鳴らしていた猫が、身を翻すのを追って。



もう既に街灯やネオンに支配されつつある街中を、一匹と一人で走る。
人に見咎められないように気を使う余裕は無い。マリチカも気にせずに、表通りでも構わずに駆けて行っている。まあマリチカならば、姿を誤魔化すまやかしの秘術ぐらい既に使っているだろうと直哉は信じ、ひたすら駆けることだけに集中した。
やがて、駅前の大きなホテルの前で、一匹と一人は立ち止まり、前庭の茂みに身を隠す。この辺りでは一番の高級ホテルだが、昨今の不況の煽りを受けてか、客は少ないようだ。様子を伺いながら、直哉がこそりと囁く。
「マリチカ」
「下らない事なら答えなくてよ」
「なんでアンデの従者に、この場所を教えてやらなかったんだ?」
「先刻言ったでしょう。己が主の姿を見失うなんて、従者としては失格よ。それはすなわち、主の恥となるのだから」
不機嫌そうにふんと鼻を鳴らすこの猫は、つまり「身の程を知らぬ者」が嫌いだし、「身の程の通りに振る舞えぬ者」も嫌いなのだ。それは勿論、直哉に対しても同じことで。
「部屋は最上階ね、フロアが全部ひとつの部屋よ」
「スイートルームって奴か」
「私が手を貸すのは道を作るところまでよ、自分の伴侶一人助けられない愚か者に育てた覚えは無いわ」
「解ってる。相手は吸血貴なんだろ?」
「恐らくね」
「なら、何とかなる、と思う」
「そこは言い切りなさいな、男らしくない」
「絶対なものなんてこの世に無いよ」
「生意気ね」
いつも通りの言い合いをしているうちに、緊張していた直哉の心が静まってきた。隠し玉の武器を用意しても、直哉自身の力など微々たるもの。吸血貴と相対して、まともに戦えるわけもない。
それでも、彼の目付役であり、師匠であり、育ての親でもある猫は、彼自身の身を案じていないように見える。多分、半分は本気で、死んでしまっても構わないんだろうな、と直哉は思っている。
「―――けど、アンデを助ける。絶対、それだけは俺一人でやり切るよ」
「あら、いいお返事だこと」
矛盾を孕む言葉はお眼鏡に叶ったらしく、またゆるりと目を眇めて笑うマリチカに、半分だけは本気で期待されているのだろう、とも直哉は思っている。勿論どちらも、ちゃんと聞いた事は無いので、気のせいかもしれないけれど。
「行くわよ」
「了解」
茂みから立ち上がり、同時に走り出す。自動の回転ドアを潜り抜け、ドアマンが動物の侵入に驚いて声を上げる前に、
「お退きなさいな!」
その目を、マリチカが睨みつける。ドアマンだけでなく、猫に気付きそちらを見た、フロアにいた従業員や客、ほぼ全員が硬直し、ばたばたと倒れ伏す。視界に収めた者を強制的に催眠状態に陥らせる、単眼猫の秘術だ。
しかしそれが効かなかった者が、数名だが存在した。異能を使った相手を「敵」と判断したらしい数人の男女が立ち上がり、一人と一匹の方に向かってくる。
「マリチカ、こいつら人間?」
「いいえ、屍鬼よ!」
鋭く言われた瞬間、直哉は手近なところにあったパーティションスタンドを掴んで持ち上げた。人間が振りまわすには少々重い代物だが、夜(いま)の直哉にならば丁度良い武器になる。
相手が得物を手に取ったのを見たのか、男女達がその身をぶるぶるっ、と震わせる。恐怖では無く、物理的な痙攣によって。
べきべき、と何かが折れる音がして。
ぼこぼこ、と何かが沸き立つ音がして。
ぐちゃり、とその体が膨らんで、弾けた。
「っ……」
このおぞましい者達を、以前直哉はルニィ・ノァプテで何度か見たことがあったので、嘔吐くことは何とか耐えた。それでも見て気持ちのいいものではないので、息を呑んでしまったが。
先刻まで人の形であった者の、体の全ての骨が折れ、肉が膨らみ、血が沸き立って弾ける。それはただの肉塊となり、着ていた服を簡単に弾き飛ばし、ぐちゅぐちゅと不快な音を立てながら、ホテルの絨毯の上を這いずり、直哉達の方にゆっくりと向かってくる。
意志を無くし、生物を餌として、その体で押し潰して食らう。これが、屍鬼だ。吸血貴にその血を吸われた者達のなれの果て。ただの人間ならばその姿に怯え、パニックになっているうちに潰し殺されてしまうだろう。
「―――醜悪ね」
しかしマリチカは不快そうに一言言っただけで、ひらりとその肉塊を飛び越えてエレベーターへ向かう。こんな雑魚に係り煩う暇などないと言わんばかりに。
緩慢な動作でその猫を追おうとした肉塊に、どじゅっ! と直哉の腕でパーティションスタンドが叩きこまれた。容赦なく、持ち上げられて二度、三度。
肉塊は悲鳴もあげず―――当然だ、屍鬼に口は無い―――ぐじゅぐじゅと崩れ、動かなくなる。
掌に伝わる肉を潰す感触に鳥肌を立てながら、それでも直哉は返す刀で道を塞ぐもう一体を潰しにかかる。こうやって冷静に対処すれば、決して屍鬼は恐ろしい怪物では無いのだ。攻撃手段をろくに持たないので、白兵武器の一つもあれば撃退することが出来る。
彼らとて元は人間で、大切に思い思われる相手がいたかもしれない、という現実を、直哉は今考えないようにする。いつか母も、これと同じものになってしまうのだろうという、恐怖と一緒に。殺しに向かってくる、説得も交渉も効かない者を慮ることが出来るほど、直哉は聖人君子ではない。
噎せ返る血の臭いと、べっとりと腕に飛び散ってへばりつく血肉の不快さに参りながらも、葛藤を振り切って屍鬼を全て潰し、直哉はマリチカの後に続いた。スタンドはもう役に立つとは思えなかったので、がろん、とその場に放り捨てる。ついでに二度と着る気になれないだろうジャケットも脱いで、手を乱雑に拭い、先刻受け取った銃だけ取り出してから捨てた。
「だから剣術をグリゴラシュに習いなさいと言ったでしょう。戦い方が武骨過ぎるわ。それと、今私に近づかないで頂戴、毛並が汚れてしまうじゃない」
「はいはい」
お説教しなければ気が済まない猫の言葉を聞き流し、エレベーターに乗り込む。マリチカは乗らない。もう己の役目は済んだからだ。戦いに向かう、幼い頃からずっと傍に寄り添ってきた子供と向かい合い、悠々と言葉を告げる。吸血貴同士が戦いの場に赴く際の、激励の言葉だ。
「天の瞳は常に空にあり。存分に戦い、己が誇りを示しなさい。我が主の子にして我が弟子、直哉・イグナチオ・シルヴェストリ・坂井」
「……了解しました。我が父の僕にして我が師、マリチカ・イァルナ」
直哉もノァプテ語を繰り、銃を手にした右手を胸に当て、滅多に呼ばない猫の本名を呼んで礼をする。単眼猫はその目を僅かに眇めて、ふんと鼻を鳴らした。
「発音が全然なってないわ。30点ね」
「辛い。せめてもう一声」
そんないつも通りのやりあいを最後に、エレベーターの扉は閉じられた。
動く者のいないフロアにバックミュージックだけが流れる中、猫はくるりと踵を返し、屍鬼の血だまりを避けて悠々と歩いていく。
門番に屍鬼を置くことは、吸血貴の掟では禁じられている。何故なら、屍鬼は吸血貴が食事を行う限り常に発生するものだけれども、それを操る事が出来る者はそう多くないからだ。脳味噌も眼も耳も全て潰れてしまった肉塊に、命令が聞けるわけもない。せいぜいが先刻のもののように人間のふりをさせて置物にするか、互いを食らい合わせて余興とするかぐらいしか使いようが無い。更に屍鬼には吸血貴の、厳正なる上下関係も通用しない。迂闊に高位の者の前に出して粗相をしたら、己の首が飛ばされてしまう。
それにも関わらず、こんな目立つ位置に屍鬼を据えているということは―――掟も知らぬ田舎者か、或いは高位の相手に逆らっても良しとする反逆者か。
未熟すぎる弟子にとって、危険な相手であることは間違いないのに、単眼猫は未練など無いと言いたげに、未だ自動で回転を続けるドアからあっさりと外へ出ていった。