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U 小市民とお姫様

吸血貴にとって、当然だが血は特別な意味を持つ。
飲まないからといって命を落とすことだけは無いが、どうしようもない飢えと渇きが増していき、確実に体は弱っていく。逆に、飲めばそれは素晴らしい精力剤にして増強剤にして回復薬となり、また相手の思考や意識の共有をも可能とする。吸血貴の本質は肉体でも、脳でもなく、血であるというのが、彼等にとって一般的な考え方だった。
また、吸血貴は婚姻を結ぶと、その伴侶の血のみを吸うようになる。支配欲・独占欲を満たし、また愛情を確認することに繋がるからだ。決して命に係わるものではないのだが、止めることは非常に難しい―――というのが、直哉が父から聞いた弁である。
婚姻は大概、吸血貴同士で行われる。もし人間を見初めたとしても、吸血と同時に少しずつ己の血を与えていくことによって、同族へ変質させてしまう。
噛まれた人間が処女や童貞だった場合、その人間もまた吸血貴となるが、それ以外の場合は意志や理性を持たぬ、人型ですらいられない、屍鬼(ムロイ)という肉塊のような怪物になってしまう。当然、吸血貴達は人間を伴侶にする場合、処女や童貞を求める。
しかし直哉の母である史子は、ディミトリエと出会った時既に処女ではなかった。二人は心を通じ合わせ、悩み、苦しんだ後―――出来得る限り、共に過ごす道を選んだ。
ディミトリエはその甘露を決して飲み干すことなく。
史子はその限りある寿命を少しでも伸ばすべく。
夫が妻の血を飲む度に、それに相応しい時間だけ共に棺の中で眠ることを選んだのである。
婚姻の証である、噛み痕のついた薬指を絡ませて。



そして現在、小さな痛みを訴え続ける左手薬指を眺めながら、直哉はいつになく浮かれていた。勿論、顔には全く出ていなかったが。
ここは、直哉の自宅がある街から遠く離れた位置にある、国際空港。最終列車でここまで来て、もう2時間近く待っている。とうの昔に最終便は出発してしまい、ロビーの明かりも消えているのだが、直哉はこっそりと滑走路の中に入り込むことに成功していた。普通なら当然見咎められる行為だが、何故か警備員は皆、直哉の行く道から目を逸らしていたから。
直哉が唯一使える吸血貴の秘術に、簡単な催眠暗示がある。本来、獲物である人間に自分を招き入れさせる為の手段として使うものらしいが、彼の力はそんなに強くない。せいぜい目を合わせた人間に、「何も見なかったから、一定時間だけ右側を向かないで欲しいとお願いする」ぐらいのものだ。相手の心に強く反するような暗示はかけられない。しかし使いようはあるもので、全ての警備員が「目を逸らしている」うちに、無事に目的地まで辿り着く事が出来た。
本来ジャンボジェットが発着する滑走路の脇に立ち、空を見上げる。直哉も夜目はかなり利く。雲によって月の光が遮られていても、その中を飛んでくる何かを見つけられるぐらいには。
飛行機の筈なのに全くエンジン音を立てず、まるで鳥のように優雅に舞い降りてきたそれは、車輪すら僅かな音しか立てずに着陸する。
それと同時に、今まで全く気配を感じなかったというのに、辺りの暗闇からぞろぞろと人影が這い出して来る。彼等の動きは素早く、あっという間に飛行機を取り囲み、ある者は絨毯を、ある者は花をと、てきぱきと飛行機から降りて来る者を出迎える準備をしている。毎度のことながら、かなり怖い光景で、直哉はほんの少し臆してしまう。こんな仰々しい出迎えに、慣れるのは中々難しい。
と、これまた時代錯誤な使用人の衣裳に身を包んだ女が無言で直哉の傍に近づき、頭を下げてから促すように歩き出す。こちらへどうぞ、の意味合いだろう。ちゃんと礼をしてから、恐る恐る後に続く。態度に出ないので、その姿はやはり余裕を持って見えたが。
案内されたのは、アスファルトに敷かれた血色の絨毯が丁度途切れる位置だった。闇に隠れる飛行機を見上げると、今まさに階段が設えられた出入り口から、出てくる人影が見えた。
まるでそれを待ちかねていたかのように、雲間が切れて月が顔を出す。冷たいけれど弱くない光が、闇に散る銀髪を映しだした。
身長は恐らく直哉の顎までしかない、小柄な少女だ。月によって輝く銀の髪は真っ直ぐで、脹脛までの長さがある。病的なほどに青白い肌と、冷たい血色の瞳、桑の美色の唇に、それは良く似合っていた。
顔立ちはとても麗しいが、表情はまるで凍ってしまっているかのように動かない。だが直哉の仏頂面とは異なり、それが更に彼女の人間離れした美しさを醸し出しているように見える。
シンプルだが大胆に肩と背中が開いている黒のドレスの上で髪を遊ばせながら、その少女は地面を見下ろし、直哉の姿をすぐに見つけ、僅かに唇を綻ばせた。つられて、直哉も心の中だけで笑う。一年ぶりに見る彼女の顔が、去年よりもずっと美しいと感じてしまったからだ。
少女は普段ならば、はしたないからと絶対にしないであろう、靴音も高らかに階段を駆け降りるという暴挙に出た。傍に控え、或いは下で待ち構えていた従者達が驚きの声を上げるのにも構わず、真っ直ぐに走ってくる―――直哉の元へ。
「ナーヤ!」
そう桑の実色の唇が紡ぎ、黒い絹の長手袋に包まれた細い腕が、直哉の首を捕まえて思いきりしがみ付く。勢いはあったもののその体は軽く、彼はしっかりと受け止めることが出来た。
唇が触れあうぎりぎりの距離で、少女と直哉は向かい合う。直哉の腕が腰を支えているため、彼女の足はまだ地面から浮いたままだ。それが嬉しくて仕方ないというように、冷たい指がするりと直哉の頬をなぞり、耳に絡みつく。彼女自身に染み付いた血の香を隠す為の、香水の匂いが鼻を擽る。触れあう体の冷たさとその香り、何より顔の近さに直哉の心臓が跳ね上がり、喉を詰まらせているうちに、少女の方が唇を開いた。
「ナオヤ、ナオ、ナーヤ、会いたかった。迎えに来てくれて、有難う」
素直な好意を惜しげもなく、美しい声で紡ぐと、心を抑えきれないとばかりに直哉の頬や口端、瞼に何度も口付ける。ひやりとしたその感触に思わず彼は肩を竦めてしまうが、気持ち良いのも事実なのでされるがままにしてしまう。
しかし辺りの者達の驚きが、嫉妬と憤怒に変わっていくのを肌で感じたため、まずは相手を地面に下ろすことにした。彼と違い、同族に愛され敬われる存在なのだ―――彼女は。
「解ったから、とりあえず降りてくれ、アンデ」
彼女の愛称を呼びながら腰に回した腕を緩めても、相手の腕の方はちっとも緩まない。直哉が困っていると、捧げる口付けには満足したらしい少女が、うっとりとした瞳で真っ直ぐに彼の目を覗きこんでくる。
「もっと呼んでくれ、ナーヤ」
「……アンデ、アン、アンドレーア。頼むから」
幾つかの愛称を織り交ぜて名前を呼ぶのは、家族や恋人などごく近しい相手にしか使わない、吸血貴特有の親愛表現である。直哉は少し恥ずかしくて苦手なのだが、決してするのが嫌なわけでもない。更に公然での羞恥を堪えて、軽く頬にキスを返すと、周りの負の感情はぞわりと高まったものの、彼等を統べる吸血姫(ストリゴアイカ)、アンドレーア・イオネラ・バラウールは満足したようだった。腕をほどき、かつんと高い踵で地面を鳴らす。
「降りたぞ、ナーヤ。だから手を繋いでくれ」
「……だから、で続けるのは、ちょっと日本語おかしい」
下から見上げてきて逸らされない濃い血色の瞳を、同じくじっと見つめて返事をすると、アンドレーアは心外だ、と言いたげに僅かに眉を顰めてみせる。
「おかしくない。ナーヤから教わった日本語だ、ちゃんと覚えている。抱き上げられて行くのは我慢する、だから手を繋いでくれ。間違っていないだろう?」
「前者は勘弁して下さい」
流石にそれは恥ずかし過ぎたので、直哉は頭を下げて許して貰うことにした。少女は鷹揚にこくりと頷き、直哉の手に、肘まである絹手袋に包まれた、彼女の細くて冷たい手指を絡めてくる。それに心臓を疼かせつつ、ちゃんと自分の指に力を込め、直哉はやはりエンジン音が全く聞こえなかった迎えの車へ歩き出す。
車というよりもう部屋だろう、と言いたくなる広いシートに体を預けても、直哉はちっとも寛げない。まだアンドレーアの手は己のものと絡んだままだったし、運転席の方から漂ってくる冷たい気配や、姿が見えない筈なのに感じる彼女の護衛の存在などが気になって仕方がないのだ。紛れもなく彼は、現在此処に存在する従者達全員からの悪意を受けていると言っても過言ではない。
そんな直哉を宥めるように、肩に銀糸の頭が擦りつけられる。見下ろすと美しい顔があって、直哉は思わず目を逸らしてしまう。近過ぎたからだ。
アンドレーアはその仰々しい名前が示す通り、吸血貴の中でもかなり高い地位にある一族の一人娘だ。年の頃は直哉と同じ十七歳、本来寿命の存在しない吸血貴にとってはまだまだ若輩だが、これだけの従者を統べる実力を彼女は有している。爵位などの詳しい権力の構図は、直哉は良く知らないのだが、本来ならば吸血貴の世界では弾かれ唾棄されるだけの、混血――ノァプテ語でスクラヴィエと呼ばれる――が気安く話しかけることすら許されない相手だ。
それなのにこの美しい姫君は、ほんの十年数前に出会った直哉をいたく気に入り、幼い子供の真摯な思いと浅薄な行動に則って、婚姻の契りまで結んでしまったのである。
当然彼女の親を始めとして一族郎党、彼女に心酔する者達全てによる憤怒の嵐が巻き起こったのは、一大事としてルニィ・ノァプテで今でも語り継がれているらしい。ディミトリエがアンドレーアの父よりも位が高くなければ、とうの昔に直哉は八つ裂きにされていただろう。今とて、あちらこちらからの殺気が酷い。精神的に鈍感なことに自信がある直哉でも、中々にきついぐらいには。
「ナーヤ」
「ん?」
柔らかい吐息が胸元を擽り、直哉は嫌な気配から解放されることが出来た。肩の上のアンドレーアの頭が、更に強く擦り寄り、猫のように首筋の匂いをすん、と嗅いでいる。冷たい唇が、皮膚に隠れた血管を、触れるか触れないかの位置でなぞったのが解る。
「……アンデ、血は」
「解っている、ナーヤ。大丈夫だ、吸わない」
ぞくりと走る背筋の怖気と快感を堪えて直哉が咎めると、吸血姫はうっとりとした瞳のまま答えた。こうやって香りを嗅ぐだけで満たされると言わんばかりに、本当に幸せそうに。
先刻とは別口の居心地の悪さを感じるが動くことも出来ず、直哉は自由な方の手を何度か握ったり開いたりを繰り返すことだけで堪えた。
「ナーヤ、緊張しているのか」
「……そりゃもう」
「大丈夫だ。私がいる限り、誰にも手出しはさせない」
アンドレーアがそうやって口を開けば、辺りの殺気はすぐに竦む。吸血貴にとって上位の者に逆らうというのは、それだけ侵せぬ禁忌なのだ。誇り高き姫君は直哉を真っ直ぐに見詰め、誓いのように言葉を紡ぐ。
「ナーヤ、お前は私の伴侶だ。アンドレーア・イオネラ・バラウールの名にかけて、私は己の伴侶を全ての血と肉と魂を持って守り抜く。お前の敵は須らく、私の爪と牙で退けよう」
かなり物騒な物言いの上、普通そういう台詞は男が言うべきじゃないだろうか、と直哉は心の中だけで考えた。もしうっかり口に出してしまったら、この姫君は瞳を輝かせて「ならばお前も言ってくれ」と喜ぶに決まっているから。
自分にはまだ、そこまで決められる覚悟が、無い。一族郎党の悪意を一身に受け、彼女と添い遂げるという覚悟が。
それが申し訳なくて、せめてもの罪滅ぼしにと思いながら、そしてまたそれも欺瞞だと思いながら―――一番近い場所にあった彼女の旋毛に、ちょんと口付けた。周りの気配は意図的に無視する、視線が無いなら構うものかと。
すぐに彼女はその感触に気づき、ぱっと顔を上げると白い頬を僅かに紅潮させて、「もう一度」と言った。
「もう無理。今日の営業は終了しました」
「延長を要求する。どこでも構わない、もう一度口付けてくれ」
細いが柔らかい体が、膝の上に乗ろうと迫ってくるのを必死に宥めていると、ふとアンドレーアが繋いだままの手を取り、その手首の匂いを嗅いで首を傾げた。
「……香水か? 違う。不思議な香りがする。薬のような……」
「薬? ……ああ、もしかして」
手から漂う匂いならば、と直哉はすぐに思い至った。夕方に塗った、日焼け止めクリームの匂いだ。水仕事もして、もう完全に取れている筈なのだが、五感の優れた吸血姫ならば気づける程には匂いが残っていたようだ。
「まさか、どこか怪我を?」
「いや、違う。これは何て言うか、どっちかっていうと怪我の予防の為で」
一瞬不安そうに眉を顰めた彼女を安心させる為、直哉はその匂いの正体を、利点と弱点含め、簡単に説明をした。
「……というわけで、手間はかかるけど昼間ちょっと出歩けるぐらいには使えそうだ」
「素晴らしいな……それを使えば、直哉は昼夜を統べるもの(ソアレーレ・ヴァーラ)になれるのか」
アンドレーアは心底感心した、と言う風に大きく頷いた。直哉を見初めてから、彼女は人の作る文化や設備に非常に好意的であり、素直に称賛をくれる。それは直哉にとっても嬉しいことであったが、姫君に悪しき知識を教えて誑かしている、とますます周りからの視線が冷たくなるのが辛いところだ。
ソアレーレ・ヴァーラとは、ノァプテ語で本来日の強い夏を現し、転じて太陽の光に屈せぬ、昼日中に自由に出歩ける吸血貴のことを指すようになった。勿論極々稀な存在であり、かなり長年生きている直哉の父も実際に出会ったことは無いらしい。吸血貴の中では伝説扱いの存在だ。
「そんな大層なものじゃないって。薬が切れたら元通りなんだから」
「ナーヤ」
あくまで軽く言葉を締める直哉をどう思ったのか、美しい少女は両手を伸ばして彼の頬を挟み、真剣な目で見つめて言った。
「自分を過小評価するのはお前の悪い癖だ。お前を貶める者が例えお前自身でも、私は許さないぞ」
君は俺のことを逆に過大評価しすぎだ、と言いたいところを直哉は懸命にも堪える。彼女を怒らせるのも悲しませるのも、御免だったからだ。
き、と僅かなブレーキ音と共に、車が止まる。いつの間にか窓の外には、大きな洋館が鎮座している。アンドレーアがこの国に滞在する時にいつも使う別荘だ。自然にドアが開き、屋敷から出てくる召使達が列を成す。
「アンデ、着いたから」
繋いでいた手を解き、両肩を叩いて宥めるが、白い体は離れない。鼻先が触れ合うほどに近づかれ、直哉は息を呑む。
「ナーヤ、一度だけ。唇に」
その声がとても切なげで、拒否など思いつかなかった。唇を近付けると、紅い瞳は自然に閉じる。柔らかい場所にそっと触れて、すぐ離れた。
「……公爵殿と奥方様は、いつまで?」
「まだ、解らない」
「明日、すぐに逢いに行く。待っていてくれ」
互いの吐息が感じ取れる位置で囁き合い、最後にアンドレーアの方からちゅっと、音だけのキスをした。名残惜しそうに体が離れ、車外へ出ていく。
目の前に控える大勢の召使を睥睨し、吸血姫は闇夜に響く声を朗々と上げた。そこには先刻まで直哉に見せていた、少女としてのいじらしさは微塵もない。
「―――ナーヤをシルヴェストリ公爵の屋敷まで無事に送り届けろ。私の命に最も忠実に応えた者に、褒美を取らす」
車から降りた少女の傲慢とも取れる命令に、周りに控えていた従者は挙ってその場に膝を着く。その中心に立つ姿は正に、支配する者として相応しい風格と覇気を備えていて、直哉は見惚れてしまう。
しかし同時に、そんな姿を見るたびに、彼の心臓は僅かに軋んで燻る。彼女と自分は、立ち位置も、見るべき場所も、手に入れられるものも、皆違うのだろう、と。
ありとあらゆる意味で、互いには相応しくない相手。その事は彼自身が一番良く解っている。
車がゆっくりと動き出す。直哉が後部の窓を振り返ると、彼女は丁度屋敷の扉を潜るところだった。
遠目ではあったけれど、銀糸を揺らした彼女が振り返り、手を振ったのが見えたので、振り返す。それでも嫌な燻りは退いていかない。結局のところ、直哉には自信が無いのだ。
―――どうして彼女はこんなにも、自分の事を好いてくれるのかと。
卑屈な思考を振り解きたくて、直哉は柔らかいシートに沈んで目を閉じる。勿論辺りの消え切らない悪意を黙殺しながらだったが。
美しき姫君の釘刺しのおかげで、重い空気の中であったけれども五体満足で、直哉は無事に、屋敷とは名ばかりのマンションへ帰還することが出来た。


十年以上前、まだ直哉の一家が夜を支配する国(ルニィ・ノァプテ)に暮らしていた頃の話だ。
母は吸血貴の社交界に入ることを許されなかったので、父一人に連れられて、直哉は色々な屋敷を巡った。
何処に行っても彼に降り注がれるのは、嫌悪と嘲笑。もっと酷い時には、完全に「いないもの」として扱われた――――それは流石に父が怒り狂い、事無きを得たけれど。
バラウール家の宴に呼ばれた時も、それは同じだった。
設えられたテーブルの上のグラスに満たされている液体を飲む勇気も持てなかったし、着飾った男女のあからさまな好奇と侮蔑の視線を、無視できるだけの胆力もまだ直哉には無かった。
屋敷の主と歓談する父の傍で、その足にしがみ付いて俯いていることしか出来なかった彼の袖が、不意にくん、と引かれる。
驚いて上げた彼の顔、その目の前に、銀色の髪に血色の瞳の少女がいた。
その時の彼にはそう形容することは出来なかったが、完全に見蕩れてしまった。それほどまでに、彼にとってその少女は美しく見えたのだ。
声を挙げられない直哉をどう思ったのか、少女は無言のまま、もう一度くん、と袖を引く。彼を導くように、そして、大人たちに気付かれないように。
一瞬迷って、彼はおずおずと父の膝から手を離し、少女の導きに従った。僅かな明りだけだった広間の扉から滑り出て、更に屋敷の奥へ進む。ほの暗い闇に支配された廊下も彼にとっては恐ろしかったけれど、少女の足取りはしっかりとしていて、恐怖を薄れさせた。
やがて連れてこられたのは、真っ赤な花が咲き乱れる中庭だった。月が中天に輝く夜の庭で、少女は漸く振り向き、桑の実色の唇を開いた。
「如何して、あの場所にいた?」
唐突な問いかけに、直哉は一瞬言葉を失くす。少女の言葉は決して排他的な責めではなく、真っ直ぐに彼だけを見つめている。父の添え物としてでも、蔑む象徴としてでもなく、ただ見ている。悪意しか向けられないあの場に、何故留まっていたのかと、ただ問うていた。困り、惑い、考えて―――漸く直哉は、答えを口にした。
「……逃げたら」
「…………」
「父さんとの約束を、破るから」
何故母の名前が、父に聞こえない場所で口汚く罵られているのか、そして何故自分にもその悪罵が向けられるのか、その理由をもう直哉は大体理解している。ご丁寧に説明してくれる相手は、大勢いたから。
だが勿論、理解は出来ても納得は出来るものではない。彼は、父にそう教えられたから。
『直哉よ、胸を張れ。吾輩は己が魂に恥じる行いを何一つしてはおらぬ。なればお前も、その証を皆に見せ付けよ。お前は吾輩、ディミトリエ・オイゲン・シルヴェストリと、わが愛しき妻、史子・坂井の子―――』
「俺の名前は、直哉・イグナチオ・シルヴェストリ・坂井。俺がいることが、父さんと母さんの愛の証だから」
父の言葉を借りただけの、拙い宣誓ではあったが、幼い直哉の本気の思いでもあった。自分がいる事で、父と母が認められるのなら、頑張りたいと思った。勿論それは子供の浅知恵でしかなくて、それしきのことで吸血貴達の常識が覆る事など有り得ないと、まだ彼は気づいていなかったけれど。
「……お前は、強いのだな」
ぽつり、と囁かれた少女の言葉に、直哉は目を瞬かせた。強くなど無い、父や猫のような不思議な力も持っていない。彼はそう否定しようとして、少女が一歩自分に近づいてきたので、思わず言葉を飲み込んだ。花のような、鉄錆のような、不思議な匂いが鼻を擽り、彼の頬が赤く染まる。そんな動揺に気付かず、少女はじっと間近で少年の瞳を見詰め、もう一度囁いた。
「そして、優しい。こんな透き通った想いを持った者に、初めて出会った」
もう一歩、少女が近づく。目の焦点がぶれ、互いの鼻が触れそうになる。いよいよ直哉は混乱して、棒立ちのままでいることしか出来ない。
「ナォ、ヤ? ナーヤ? どう呼べばいい?」
「え、」
「お前の名だ。私はアンドレーア・イオネラ・バラウール。好きに呼んでくれ」
「アン……デ? あ、俺も、別に、好きに」
「では、ナーヤ」
今まで無表情だった少女の目が細められ、口角が僅かに持ち上がる。何故だかそれだけがはっきり見えて、直哉はその次の言葉を夢見心地のままで聞いた。
「私と、婚姻を結んでくれ」



「こら、起きろ坂井!」
「………………あー……」
声と共にぱん、と丸めた教科書で机を叩かれて、直哉は漸く覚醒した。まだはっきりと夢と現実を分割することが出来ず、思わず漏れた溜息にクラスのあちこちから失笑が聞こえた。
「お前、朝から寝っぱなしらしいな。具合でも悪いのか?」
あまり生徒を怒るのが得意ではなく、その分生徒に慕われている現国の教師は、苛立ちと心配が丁度半分の声で聞いてきた。決して不健康なわけでもないのに、太陽の下に長時間居る事が不可能だと言うだけで、教師は直哉を「病弱」の類に分類してしまう。気持ちは解るし、その方が直哉にとっても、生きやすくなるので有り難いことだったが。
「いえ、ただの夜更かしです」
「全く……せめてこの時間はもう寝るなよ」
「努力します」
人を食ったような直哉の答えにも、先生は苦笑するだけだ。そんなに進学校でもないこの高校では、授業時間もあまり緊張感は無く、ゆるゆると進んでいく。
もう一度欠伸を噛み殺して、先生の言うとおりせめてこの、午後の授業ぐらいは頑張って瞼を開けていようと、直哉も改めて黒板を見る。それでも油断すると、睡魔に脳味噌がずぶずぶ沈んで行きそうになる。
普段は夜寝て朝起きる「人間にとって」健康的な生活を送っている彼にとって、昨日の夜更かしは長過ぎた。緊張に耐えてやっと家まで帰ってきたら、父と猫による根掘り葉掘りの尋問が待っていて、母は学校があるんだから寝なさいと言ってくれたけれど、その頃にはもう明け方で。
結果的に、本日の授業・休み時間は揃って睡眠に当てられた。昼食も食べずにひたすら惰眠を貪る直哉に、クラスメートは皆遠巻きになり、門間も驚いていた。もう少し直哉が普段から周りに親しみを持たせていれば、お節介な誰かが体調を心配してくれただろうが、そこまで親しい相手はいないし、門間もそこまで面倒見は良くなかった。世知辛いが、面倒が少ないのは良いことだと、直哉も遠慮なく邪魔の無い睡眠を味わった。
ぼんやりと先刻まで見ていた夢を思い出しながら、直哉は己の左手に視線を落とす。昨日と同じく、存在感のある噛み傷が薬指の付け根に鎮座している。
昨夜、どうにも頭に引っかかっていたせいで、昔の夢を見てしまったようだ。彼女が会いに来る度に、直哉が出ない答えを考えてしまう問題が、始まった時の夢。
あの後、実際に婚姻の証として、直哉はアンドレーアの左手薬指に噛み痕を付け、我慢してその血を僅かに飲んだ。純血の吸血貴ならば、その血に籠った彼女の想いを、少しでも読み取ることが出来たのだろうが、直哉には勿論そんな能力は無い。こんな時、せめてもうちょっと父に似たかったと思ってしまう。
尚且つ、あの後―――つまり、アンドレーアが直哉の指に証の傷を付けた後は、そんな甘い想いを育む暇も無かったから。
授業終了のチャイムが鳴り、そのままホームルームに移行する教室の中、直哉は机に入れて暫し存在を忘れていた、進路希望表を取り出す。実は、両親に相談する前にもう中身は記入していた。第一希望に「就職」とだけだが。正直、彼は生きる上であまり意味が無い勉学に励む勤勉さは持ち合わせていなかったし、このご時世、昼日中にろくに外を出歩けない者が、安定性の高い就職が出来るとも思えないことであるし。やっぱり本格的に訓練して、執事を目指した方がまだ芽があるんじゃないかと、夢物語のようなことを彼はつい考えてしまう。一番の願いは、そうそう簡単に叶えられるものではないのだし。
いつもなら太陽を出来るだけ避ける為に、下校時刻ぎりぎりまで学校で時間を潰すのだが、今日は別だ。きっと夜にアンドレーアが来るだろうから、家で一眠りして体調を整えなければならない。担任教師の冷たい視線をものともせず、手早く荷物をまとめて校門を出た。
「おー、珍しく早いな坂井」
「ん」
いつも先に帰ってしまっている筈の門間と、通学路で合流した。今日一日で、ある意味武勇伝を成し遂げた直哉をどう思ったのか、まじまじとあまり高さの変わらない位置にある仏頂面を見詰めてくる。
「……何?」
「や、何か良いことあった?」
不意に尋ねられ、直哉は未だに残っていた眠気が一瞬で飛んだ。え、と声を漏らして横を見ると、またいつものにこにことにやにやの中間に当たる笑みで、悪友がこちらを見ている。
「眠い割に、随分嬉しそうじゃん。女でも出来た?」
その言葉には、まさかなー、という軽いからかいのみで、他意は混じっていなかったが、聞かされた方はあからさまに動揺してしまった。ぎく、と揺れた直哉の持つ傘に、門間の方も「え、マジか」と漏らす。
「ちょっと待てよえええ!? 誰どの子うちのクラスかそれとも別か!? 先輩か後輩か!?」
「何でお前がそんなに動揺してるんだ、落ち着け」
物凄い勢いで食いついてきた友人の肩を掴んで遠ざけ、体勢を立て直す。門間も何とか落ち着いたのか、だってよー、と腕を組んで不満げに言う。
「俺以外に友達いない無愛想に、そんな羨ましい話があってたまるか!」
「放っといてくれ」
「絶対俺の方がお買い得物件なのに……!」
バレンタインなどのお祭りにはそれなりのチョコを貰うにも関わらず、いざ相手に告白すると「友達にしか見られない」と断られてしまう門間の遍歴は良く知っているので、直哉はそこを突っ込まないでおいてやる。
しかし迂闊に「彼女」の事を話すわけにもいかない。というより、言っても冗談だとしか思われないだろう。それだけ相手のスペックが浮世離れし過ぎている、吸血貴だということを差し引いても。
腕を掴まれがくがく揺さぶられながら、眠くて回転の悪い頭を何とか働かせようと頑張っている直哉の鼻が、不意にある匂いを捉えた。
華の香に似ているけれど、どこか鉄錆の臭いが混じる、それなのに不思議と不快では無いこの香水の匂いを、昨日も、夢の中でも、嗅いだ。
「ナーヤ」
そんな馬鹿な、と思うより先に、今度は彼の耳が声を捉える。門間と同時に振り返ると、其処には。
陽光の下にも関わらず、日傘を差しただけで佇む、銀髪の美しい少女。
「アンッ……?」
驚愕よりも先に恐慌して、直哉の喉が引き攣った。彼女も純血の吸血姫だ、迂闊に太陽に当たればその身は灰になりかねない。慌てて駆け寄り彼の分の傘も差しかけると、アンドレーアはその行為自体が嬉しいらしく、僅かに口元を緩めた。
「何を驚いている? 明日すぐに行く、と言っただろう?」
「言った、けど何で。太陽が、」
「大事ない。試すのは初めてだが、中々に快適だな、この薬は」
言われて、改めて直哉は鼻を蠢かせる。独特な香水の匂いとは別に、今彼が手と顔に塗っている、あれと同じ匂いをほんの僅かに、感じた。
「……日焼け止めクリーム?」
「人間とは面白いものを作るな。まさかこの私が、こうやって昼を出歩けるとは思わなかった」
無表情ではあるが、そう言ってくるりと傘を回すアンドレーアの顔はどこか浮き立ち輝いているように見える。今日のドレスは決して露出の高いものではないが、それでも肩や掌はその白さを剥き出しにしている。その部分に、直哉が買ったものよりも数段上質な、あの薬を塗っているらしい。
「……無茶するなよ……」
思わず、咎める言葉が漏れていた。直哉とて自分の体で試してみたが、それは火傷程度で済むからこそ出来た無茶だ。彼女にもし薬の効果が無かったら、消し炭になるか、灰になるか。想像するだけで、直哉の脳髄が恐怖に痺れる。
と、今日は手袋を外している白い指が、そっと直哉の頬を撫でた。我に返った彼の、目の前にいる少女は、やはり表情は動いていなかったけれど、残念そう、というよりも、申し訳なさそうに見えた。
「……済まない。驚かすつもりは無かった。早くお前に逢いたかっただけなんだ……ナーヤ、悲しませたな。済まない」
そこまで言われて、漸く直哉も思い至る。折角逢いにきてくれたのに、まだ礼どころか挨拶のひとつも交わしていないことに。
「こっちこそ、ごめん。逢いに来てくれたのは、本当に嬉しいんだ、俺も。ただ」
「ただ?」
労いの言葉にほっと息を吐く彼女をいじらしく思いながらも、改めて直哉は恐る恐る後ろを振り向く。アンドレーアも首を傾げたまま、彼の横からそちらを覗く。
直哉の思った通り、そこには埴輪顔のまま固まっている門間がいた。シンプルであるが一目で高価だと解る光沢のドレスを纏い、日傘を差す、病的な美しさを湛えている外国人の少女が、友人と親しげに、この国の言語で会話を交わしている―――という状況が、理解の限界を超えてしまったようだ。自分とて事情を知らなければ同じような状態になるだろうと、直哉は溜息を吐いて呟く。
「……なるべくなら、俺が一人の時に話しかけて欲しかった、な」
「ナーヤの友人か。それは無礼をした、きちんと挨拶をせねば」
一歩踏み出そうとする彼女の前に立ってそれを塞ぎ、肩を押さえてくるりと逆を向かせる。「ナーヤ?」と不思議そうに見上げてくるアンドレーアを促しつつ、その背を押して、早歩きの限界速度で歩き出す。即ち、厄介な揉め事から遁走する。
「……はっ!? 待て! ちゃんと説明しろー坂井ー!!」
「週明けにな」
後ろから漸く我に返ったらしい友人の叫びが聞こえるが、振り向かないままぼそりと答えるだけで直哉は逃げの一手を取った。月曜日に散々問い質されるだろうが、今は勘弁して貰いたいので。
幸い相手のパニックもまだ解けていないらしく、追いかけてくることはなかった。ほっと息を吐き、速度を緩める。
「ナーヤ、友人を置いてきて良いのか?」
息一つ切らさず直哉に押されるまま歩いていたアンドレーアも速度を落とし、隣に並ぶ。
「……上手く説明できる自信が全然ない」
「どう言われても私は別に構わないぞ?」
はぁ、と溜息を吐きながら言うと、すぐに返事が来る。そういうわけにもいかない、と顔をあげて、真摯な光を宿す紅い瞳に射抜かれた。責めるわけでなく、しかし偽りなど微塵もない、幼い頃に直哉が出会ったときと、寸分違わぬ輝きに。
「我等には我等の、人には人の柵があるのだろう。私の存在がナーヤの枷となるのを、私は望まない。お前に都合の良いように、説明してくれて構わない。私の心は何も変わらないのだから」
桑の実色の唇が、ほんの少しだけふくりと緩む。銀糸の髪は日に当たらぬよう、綺麗に纏めて鍔広の帽子を被っている。良く知っているその顔と、あまり見ない髪形、その二つを本来なら有り得ない太陽の下で見ているという事実。その事に思い至って、直哉は我慢できなくなった。
ばすん、と色気のない蝙蝠傘が、アスファルトに落ちる。
「ナーヤ? 傘が、」
相手が傘を落としたことに気づいたアンドレーアが慌てて自分のものを差しかけると、その体が固まった。直哉が両腕で、彼女の細い肩を抱き締めたからだ。
周りに人がいない事の確認はしたけれど、直哉のもし見られたら、という羞恥心はこの一瞬だけ吹き飛んだ。何かせずにはいられなかったのだ―――ここまで、自分を大切にしてくれる相手に対して。
アンドレーアの方も、驚いたのは一瞬だけで、嬉しそうに目を細めて体の力を抜き、その身を委ねる。何せ彼女の愛する男は、こんな露骨な愛情表現を滅多にしてくれないから。
「アンデ」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ふ、と互いに吐息だけで笑い、体を離す。アンドレーアは幸せそうに、するりと猫のように直哉の腕に身を摺り寄せて絡めた。
「ナーヤ、口付けは?」
「……ここでは無理」
ここまでやって、漸く羞恥の波に襲われたらしい直哉がふい、と顔を逸らしてしまうと、アンドレーアは不満げに眉を顰める。
「……ナーヤの家では、出来ない」
普段の大胆さと裏腹に、アンドレーアは直哉の両親に対しては非常に気を使う。どちらかが傍にいる限り、普段のようにキスを強請ることも無ければ、身を寄せることすらしない。理由はディミトリエが彼女より高位の吸血貴であることと、史子が彼女自身の尊敬の対象だから、らしい。マリチカやグリゴラシュならば平気なのだが、彼女から見れば、使い魔や使用人とは空気のような存在だからなのだろう。
直哉が傘を拾い、手を繋いで歩き出しても、姫君の不満は収まらない。
「頬ならば良いだろう」
「無理だって」
「なら額」
「勘弁」
「首筋は?」
「もっと無理」
「手指で良いから」
「………解った」
強請る声に切実なものが含まれたのが解ったので、やむなく直哉は足を止めた。何とか妥協できる提示だったのと、彼女が涙を流すのは自分に関わることに対してだけだと知っているし、絶対に見たくなかったので。
もう一度辺りを確認してから、繋いだ手を持ち上げて、ちゃんと自分の噛み跡が残っている彼女の左手薬指の上に、僅かに身を屈めて掠めるだけのキスをした。
もし他者が指摘したら直哉は恥ずかしさに悶絶してしまうだろうが、その姿はまるで姫君に永遠の忠誠を誓う騎士のように見えた。



まだ日が沈むには僅かな時間があったが、二人が家に到着した時には、もう史子は目を覚ましていた。
「まあまあ、アンドレーアちゃん、いらっしゃい! まだ日も明るいのに、体は大丈夫? さあ早く上がって上がって」
「お久しぶりです、奥方様。ご挨拶が遅くなり、誠に申し訳ありません」
玄関まで迎えにきて、喜々として息子の恋人を迎える史子と裏腹に、アンドレーアの方は背筋をぴんと伸ばしてから、ドレスの裾を抓んで恭しく礼をする。表情は普段と全く変わらないが、直哉にはちゃんと解る―――緊張しているのだ、それもかなり。いつでも余裕を崩さず、優雅に振舞う彼女の非常に珍しい姿を直哉はこっそり斜め後から楽しむ。
「直哉、ちゃんと自分の部屋片付けてらっしゃい。ちょっと待っててね、もうすぐタルトが焼けるから。カスタードの簡単なのだけど、美味しいのよ。気に入ってくれるといいんだけど」
「いえ、お構いなく」
母の促しに肯いて、やはり硬い彼女の声を背に聞きながら、直哉は先に廊下を進む。はしゃぐ声音が示す通り、史子はアンドレーアの事が大のお気に入りだった。勿論息子との関係における様々な柵を全て承知の上で、娘が出来たような今の状態が嬉しくて仕方ないらしい。
直哉の部屋はそれなりに片づいている、というか物が最初からあまりないので、来客用のクッションを引っ張り出すだけでもてなしの準備は終わる。丁度そこでやっと史子から解放されたらしいアンドレーアが、開けたままだったドアから覗きこんできた。
「ナーヤ、入っていいか?」
「いいよ」
床に置いたクッションを勧めると彼女は頷いて近づき、座った直哉と向かい合う形に置いてあったそれを拾い上げ、直哉の隣まで移動する。クッションを床に置き、とすんと腰を下ろすと、そのまま体を傾がせて相手の肩に頬を懐かせる。固まる直哉に構わず、その匂いを嗅いで漸く落ち着いたのか、アンドレーアはずっと続けていた緊張を解き、大きく息を吐いた。
「………ナーヤ、ちゃんと私は挨拶出来ていただろうか」
「充分すぎるくらい。そんなに気使わなくてもいいのに」
「奥方様に敬意を払うのは当たり前だ。あれほど強い方を、私は見た事が無い。尊敬に値する」
確かに母親が逞しいのは充分承知だが、そこまで彼女に言わせる理由が直哉にはよく解らなかったので、無言で続きを促す。
「……己が全てを愛するものに捧げるというのは、中々に難しい。私にはまだ、それだけの勇気が無い」
ぽつり、と肩の上で独り言のように呟かれ、直哉は銀糸の旋毛を見下ろす。アンドレーアは動かずに、ただもどかしげに言葉を紡いだ。
「ナーヤ、許してくれ。私は恐ろしい、お前に全てを曝け出すのが」
「アンデ」
彼女の声が沈んでいるのに気づいて、肩を支える。名前を呼んで、もう片方の手で銀糸を撫でる。そんなに苦しむ必要はない、と伝えたかったから。
「そんなの、当たり前だ。俺だって、君に全部は捧げられない。他に大切なものもあるし、そんな勇気もない」
アンドレーアの真剣な思いに応えることも、突き放して断罪を受けることも出来ない。彼女一人を宙ぶらりんにして、苦しめている。こうやって、父が目覚めている時、その影響力のあるこの土地でしか、彼女を迎えられないのだから。
そんな直哉の葛藤も良く知っているアンドレーアは、違う、違うと首を振る。
「ナーヤは何も悪くない。どうか、無理だけはしないでくれ。お前を失うことが、私にとっての絶望だ。こうやって、またお前に逢えるのなら、それだけでいいから、ナオ、ナーヤ」
互いの体を互いの腕で、ぎゅっと抱き締める。強く、強く。絶えず沸き起こる不安を、重なった心臓の音で消す為に。
二人の間には山ほど問題があって、それを解決するにはもっともっと長い時間がかかるのは間違いない。それでもこうしていれば、諦めずにいられる。
暫く無言で、互いの体温を確かめ合う。アンドレーアの平熱は、直哉よりもずっと低い筈なのに、触れあう部分が酷く熱い。
二人きりなのだ、と理解して、直哉は自分の頬が僅かに紅潮するのが解った。この状態は、拙い。色々と。
普段必ず姿を消して傍に控えているアンドレーアの従者も、彼女自身が拒んだのだろう、今は気配を感じない。きっと着いてきてはいるだろうが、ディミトリエのテリトリーであるこの家の中には絶対に入ってこない。
どっ、と心臓が大きく揺れた。まるでそれに答えるように、アンドレーアの手がぎゅっと直哉の背中を掴む。
何とか身を捩って腕の中を見下ろすと、彼女の青白い肌も僅かに朱が載っていて、息が震えた。熱に浮かされたような声が、直哉の肌を擽る。
「ナーヤ、吸いたい」
「アンデ!」
「解っている―――解っているから。もう少しだけ、このまま」
首筋に触れる唇を咄嗟に引き剥がそうとすれば、嫌々と首を振られ、ますますしがみつかれる。体に籠る熱を如何にか払拭したくて、直哉は大きく息を吐いた。
きしり、と僅かに、廊下の軋む音。
ばっ、とどちらからともなく身を離し、アンドレーアは自分のクッションをちょっと遠ざけてから、大人しくそこに座る。直哉は凄い勢いで立ち上がり、窓を開いて大分冷えてきた夜気を迎え入れた。気のせいなのだろうが、随分と部屋の温度が上がっていると感じたので。
やがてこんこん、とノックの音がして、「直哉、ちょっといい?」という母の声がした。「いいよ」という答えよりちょっと先にドアが開いたのは、間違いなく史子の足元に鎮座するマリチカのせいだろう。普段、無作法だとよく直哉をこき下ろす癖に、こういう時はわざと嫌がらせをしてくる。
「お邪魔するわよ」
「本当に邪魔だよ」
「ごめんなさいね、やっとタルトが出来たから持ってきたの。沢山あるから、いっぱい食べてね」
「有難く、頂戴致します」
立ち上がって皿を受け取るアンドレーアを微笑ましく見守る史子と対照的に、視線を合わせて火花を飛び交わせるマリチカと直哉。長閑な二人に聞こえないように、あくまで小声でやり合う。
「半端な未熟者の癖に、色惚けて無責任な行動をしそうだから止めてあげたのよ」
「煩い。そんな事解ってる、助かったよ馬鹿野郎」
「まぁ、お下品ね。私は野郎じゃなければ馬鹿でもなくてよ」
ふふん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らす猫に、まだ動揺の解けていない直哉は二の句が継げなくなる。悔し紛れに睨みつけると、おお怖い、と足取りも軽く部屋を出て行った。
「主人が起きるのはもう少し後だと思うから、それまでゆっくりしていてね。お夕飯食べていけるかしら?」
「はい、お言葉に甘えます」
「良かった。今日はグリゴラシュさんを掻い潜って、二品は作ってみせるわね!」
「……一応あの人の仕事なんだから、それぐらいで勘弁してやって」
「だって、何もしないのは却って落ち着かないのよ」
起きている間は出来る限り家事をしたい母と、己が仕事を主人の妻にさせるわけにはいかぬと奮闘する執事の攻防は今日も続いているらしい。こちらも上機嫌で部屋を出て行く背を見送り、ぱたんと閉まったドアに二人で同時に溜息を吐く。
「……ナーヤ、奥方様からだ。有難く頂こう」
「ん」
小さめのカスタードタルトにカラメルソースをかけたそれは、史子の得意料理のひとつだ。一口分をフォークに刺して差し出してくるアンドレーアに首を振り、直哉はお先にどうぞと促してやる。ちょっと迷ったようだが、甘い香りの誘惑に勝てなかったらしく、小さな唇がぱくりとそれを頬張る。決して量を沢山食べる事は無く、食べ方も優雅なことこの上ないのだが、美味しいものに目が無いことも直哉は知っている。
「ん……美味だな」
「そうか、良かった」
別に直哉自身の手柄ではないのだが、僅かに細められた彼女の瞳が嬉しくてほっと息を吐く。しかしそれを見て、すぐに彼女の顔の方が曇ってしまった。
「どうした?」
「……やはり、料理は出来た方がいいか?」
俯いて呟くアンドレーアには、普段の威厳も、先刻までの妖艶さも全く感じられない。只、惚れた相手に好かれたいと願う、年相応の少女にしか見えない。その様が却ってむず痒く、直哉はクッションに座り直してから口を開く。
「アンデは出来ないんじゃなくて、やらなくて当たり前なんだろ? 気にしなくてもいいよ」
やらないどころか、厨房に入ることすら許されないと聞く。グリゴラシュが史子を最後まで止められないのは、偏にディミトリエが史子の作る料理を大いに喜ぶからだ。もしアンドレーアが迂闊に厨房に入ったら、主を満足させられなかった咎で料理人が罰せられるかもしれない。馬鹿馬鹿しい話ではあるが、そういうことが罷り通るのが吸血貴の貴族社会なのだ。
宥める直哉に、しかしアンドレーアはふるふると首を横に振る。
「やるのか、やらないのか、じゃない。ナーヤは、私の作る料理を、食べたいか?」
「そりゃ勿論」
真剣な目で問われて、考えるより先に答えを返してしまった。訂正する間もなく、アンドレーアの方がうん、ともう一度頷く。
「解った、全力を尽くそう」
「無理はしなくていい」
「お前の為に行う行為に、無理など無いぞ」
きっぱりと言い切られたその言葉に軽く眩暈を感じ、直哉はそれ以上の拒否を行うことなど出来なかった。食べてみたいのは、事実であったのだし。
それでも何か言おうと考えているうちに、再び甘苦い菓子の欠片が唇の前に差し出され、完全に言葉を封じられた。



史子の言葉の通り、ディミトリエはそれから一時間ぐらい経って漸く起き出してきた。
丁度いい時間になったので、直哉と両親とアンドレーア、マリチカも顔を合わせて夕食の宴が開かれた。メニューはグリゴラシュと史子の攻防の末、白米とムニエルと煮物とフィレステーキと白子和えと漬物、という何とも和洋折衷なものになったが、どれも美味であるので何も問題は無かった。
そして片付けをするにあたり、史子がアンドレーアを「アンドレーアちゃん、お話しましょう!」と素早く引っ張ってダイニングに行ってしまった。マリチカはさっさと自分の部屋に戻り、直哉は父と共にリビングに追いやられてしまった。彼女がまた心労を感じていないか、或いは執事がまた胃を痛めていないか、気になって直哉はついソファで中腰になってしまう。
「寛いでおけ、愛息よ。美しい光景であれど、不躾に見るのは野暮であるぞ」
珍しく父親に正論を吐かれたので、直哉も大人しく座り直す。ディミトリエはいつも通りグラスを優雅に傾けながら、上機嫌に微笑んでいる。
「史子にとってアンドレーア嬢は娘も同然。母娘水入らずの時を過ごしたいのだろう」
その言葉に、直哉の眉間にきゅっと皺が寄る。両親が自分達の恋路に非常に理解があるのは有難いことだが、それは同時に両親にまで多大に迷惑をかけることに繋がる。息子の困惑が解ったのか、ディミトリエは不敵に笑う。
「直哉、己が父を甘く見るでないぞ。息子の恋路一つ、支えられぬで何が親か。負い目を感ずる必要など無い」
絶対の自信を孕み、断言する父に対し、直哉はそれでも申し訳なさが先に立つ。彼自身がまだ、何の力も持たない、守られる事しか出来ないただの子供だと理解しているからこそ。
「……父さんは」
「うん?」
「怖くなかったのか。母さんと、結婚する時に」
当たり前だと、一笑に伏されると思っていた。しかし、俯いた直哉の耳には、笑い声一つ聞こえない。
あれ、と彼が思った瞬間、どすんと横に衝撃が落ちてきた。そのままがしりと太い腕で、肩を引き寄せられる。驚いて声を上げるよりも先に、耳元で囁かれた。
「怖かったとも。己が今まで信じてきた理、全てを敵に回すのだからな」
今度は驚きすぎて、声が出なくなる。直哉にとって父は、常に何者が相手であっても不敵に笑い、堂々としている男だった。叱責も怨嗟も何処吹く風とばかりに蹴散らし、同族達の悪意の視線に晒される妻と息子を、ずっと守り続けていた。母の故郷であり、また同族が殆どおらず危険が少ないであろうこの国に移住した時も、「さぁ父を尊び敬え!」といつものように笑うだけで。
珍しく、他から見て解るほどに驚いて、目を見開いている息子に、父はやはり不敵に笑い、「史子には内緒だぞ?」ともう一度囁いてから、声のトーンを元に戻した。
「だが後悔など無い。教えてやろう、我が息子よ。愛とは、惚れた相手に対し、全力で痩せ我慢をすることなのだ。胸を張れ、見栄を張れ。そして決して突き崩されるな。それが崩れた瞬間、その相手は失望と謝意と軽蔑の目でお前を見るだろう。それ以上に恐ろしい事など、この世にあるまい?」
極論だ、とも思ったけれど、直哉は肯かざるを得なかった。確かにそれは想像するだけで、死ぬより恐ろしいことだったから。
「……父さんも、そういう経験あるの」
「苦く未熟な思い出があるからこそ今がある。全てが今、愛しき妻を慈しむ為の試練であったのだと思えば、どうということもない」
ふふん、と胸を張る父を、尊敬せざるを得なかった。我知らず、常に真一文字に結ばれている筈の直哉の口角が、僅かに上がる。そしてディミトリエは、この世で二番目に愛する一人息子のそんな僅かな変化を見逃さない。
「おお! 笑ったな愛息よ! なんと麗しい! さあもっとその笑顔を吾輩に見せておくれ!」
「え、そう?」
「一瞬で引っ込めるのではない! 折角史子に似て愛らしいというのに……!」
「この顔にそういう形容できるのって、この世で父さんだけだよきっと」
「当たり前だ、お前達の可愛らしさはこの世で吾輩だけが知っていれば良い!」
恋人に褒められるのとは別口のむず痒さに直哉が内心落ち着かず、自分の顔をごしごし擦っていると、やっと解放されたらしいアンドレーアがリビングにやってきた。よいしょと未だ肩に回っていた父親の腕を退けて、出迎えの為に直哉は立ち上がる。
「公爵殿、奥方様のお時間を頂いてしまい、申し訳ありません」
「いやいや。君が来ると妻子どちらも非常に喜ぶのでな、寧ろ有り難いところだ。何の遠慮をすることもない」
着衣の裾を抓み、ディミトリエと貴族風の礼を交わしてから、アンドレーアは直哉に向き直る。
「ナーヤ、待たせた」
「いや。時間、大丈夫?」
時計はまだ宵の口、吸血貴達にとってはこれからが本格的な活動時間だが、アンドレーアの立場としては長い間護衛を側から離すわけにもいかない。本人もそれを解っているので、残念そうではあったがこくりと肯く。
「今日はもう、戻らないといけない。ナーヤ、明日も学校とやらへ行くのか?」
「いや、明日明後日は休み」
「そうか、それなら」
ほっと息を吐いて、アンドレーアの表情が緩む。僅かな微笑みに直哉の心臓が跳ねるが、横に座ったままの父の視線が気になりすぎるので、無表情を保つ。そんな彼の心に気付かずに、更にアンドレーアは爆弾を投下する。
「明日、昼に会おう。あの薬があるから、大丈夫だ」
「っ、え」
「人間のするような、逢瀬がしたい。何処に行けばいいのか、教えてくれ」
するりと左手同士を絡め取られ、更にもう片手で包まれる。見上げてくる紅色の瞳に、直哉は太刀打ちが出来ない。視界の端で、軽くウインクをしたディミトリエが立ち上がり、ダイニングの方に歩いていくのが見えた。妻がこちらに戻ってこないよう、防波堤になるつもりだろう。有り難いと目礼だけ返しつつ、ぐるぐると沸騰しそうになる頭で考えて―――
「……じゃあ、取り敢えず、待ち合わせ場所、決めよう」
舞い上がっていると解っていても、そんな答えを返すことしか出来なかった。