時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

T 小市民の一日

分厚い遮光カーテンの向こうから、ぴちぴちと鳥の鳴き声が聞こえて、漸く直哉は目を覚ました。
一般的に、太陽の光を浴びると、人間は自動的に睡眠から覚醒するように出来ているらしいが、直哉にとって起きぬけの太陽光はちょっと御免蒙りたい不快さなので、起きる為には視覚・触覚よりも聴覚に頼ることにしている。
最も彼は、低血圧でも無ければ寝起きも悪くなく、起きる時間がくれば自然に目を覚ます癖がついている。小学校を卒業してからは、念のために置いてある目覚まし時計のお世話になった事は一度もない。
今日も役目を果たす前にその時計の息の根をぱちりと止め、もぞもぞとベッドから這い出す。見回せばいつも通りの何の変哲もない、机とベッドとワードローブだけで殆ど埋まってしまう、狭い六畳間だ。3LDKのマンションで四人と猫一匹で暮らしていれば当然の配置だろうし、直哉自身も不満はない。あまり広い部屋を与えられても却って身の置き場に困る性格だった。
ゆっくりと上半身を起こしたその時、ノックもせずにかちゃりとドアが開き、するりと隙間から影が入り込んできた。人工的な暗闇の中で、きらりと翠色の光が一つ閃く。
「おはよう、直哉。起きているならさっさと支度をしなさいな、食事の用意はもう出来ていてよ」
「おはよう、マリチカ。入る時にはノックをしてくれ」
可愛らしいが随分と時代がかったその声の主―――足元に歩いてきた毛の塊に対し、直哉は普通に返事をする。彼女のこういう喋り方は彼が物心ついたころから変わらないし、変える気もないだろうし、変えたいとも思わないからだ。
ベッドの下に降ろしたジャージを履いたままの両足に、戯れにその体を擦りつけてくる彼女は、少なくとも直哉の父と同じぐらいの年らしい。勿論彼が確かめた事はない。女性に年を問うのは品が無いと、父に良く言い含められているからだ。
「この手でどうやってノックをしろというの。貴方に払う礼儀なんて、貴方が生まれた時から持ち合わせていやしないわ」
「じゃあ声をかけてくれ。にゃあでもみゃあでもいいから」
「猫扱いしないで頂戴」
「猫じゃないか」
立ち上がった直哉の足元で、マリチカと呼ばれた単眼猫が、不満げに肉球をたしたしと踏み鳴らす。片目ではなく、単眼、即ち顔の真ん中に大きな眼が一つ鎮座している猫だ。夜道で出会ったら大人でもトラウマになってしまいそうな姿であるが、幸いなことに今まで直哉の家周辺でそんな都市伝説が囁かれた事は無く、直哉自身は物心ついた頃から一番傍にいるこの姿に、もう慣れ切ってしまった。
直哉の両親が居ない間、目付役として辣腕を奮うマリチカは、彼の生意気な言い草が気に食わなかったのか、「全く、口ばかり達者になって、誰に似たのかしら」とぶつぶつ呟きながら部屋を出ていってしまった。間違いなく君に似たんだよ、という事実を伝える言葉をぐっと飲み込んで、直哉は手早く身支度をして部屋を出た。
マリチカの言った通り、ダイニングのテーブルには既に朝食が設えてあった。ご飯と味噌汁に焼き魚と大根おろし、ほうれん草のお浸しと納豆、この国のスタンダードな朝食の姿だ。それらが並べられるダイニングもリビングも、カーテンを閉じたままであるのが何とも朝食らしくないが。
食事が据え付けられているのは直哉用の席だけで、その傍には灰色の髪を綺麗に撫でつけた彫りの深い老紳士が既に控えており、深々と頭を下げる。
「お早うございます、直哉さん。今日も忌まわしき陽光に抗いお目覚めするその御姿、ご立派でございます」
「おはよう、グリゴラシュ」
仰々しい挨拶をしてきた相手のこれまた仰々しい名前を呼んで、直哉は老紳士が引いた椅子に腰掛ける。こんなやり取りも小さな頃から毎日のように行っている、様式美のひとつだ。
ロマンスグレーという形容に相応しい老紳士が、きちんと燕尾服に身を包み、茶碗にご飯を盛る姿も、傍から見れば物凄い違和感のある姿なのだが、直哉にとっては当たり前の光景だ。受け取ったご飯をテーブルに置いてから「いただきます」と両手を合わせる。
暫く、僅かな陶器の触れあう音だけが部屋に響く。食事中の会話ははしたない行為だと、直哉は子供の頃からマリチカに教わっている。彼女の教育はスパルタこの上なく、迂闊にマナーを破ると、血が出ないのに痛い、絶妙な力加減で手の甲を引っ掻かれてしまう。その結果直哉は、今時の男子高校生にしては珍しく、テーブルマナーもそつ無くこなせるように成長することが出来たのだが。
「直哉さん、本日は何時にお戻りでございますか?」
ご飯と味噌汁をきちんと一回ずつおかわりして、食後の日本茶を啜っていると、珍しくグリゴラシュから声をかけてきた。この有能な執事―――現代日本においてやや違和感があるので、直哉は普段ハウスキーパーと呼んでいる―――は、余程の事がない限り自分から話しかけてこない。つまり、今日は余程の事が起きる予定であり、勿論直哉もそれを知っていた。
「日が暮れる前には、帰るよ」
「それがようございます。お目覚めになられた時に直哉さんがおられねば、旦那様も奥様もお気を落としになりましょう」
「そうかな」
「そうですとも」
絶対の自信を込めて断言する父の執事にうんと頷き、直哉は立ち上がる。
「それじゃあ、行ってきます。お休み、グリゴラシュ」
「いってらっしゃいませ、直哉さん。僭越ながら、お先に休ませて頂きます」
玄関先まで付き添ったグリゴラシュが鞄を直哉に渡し、深々と礼をする。一晩中家の中を整える仕事をこなし、これから眠りに就く有能なハウスキーパーの見送りを受け、直哉は容赦なき太陽が支配する外へ出た。朝にも関わらず強く照りつける太陽を遮るべく、手早く手袋を嵌めて日傘を取り出す。
直哉は決して、太陽の光が嫌いなわけではない。寧ろ好きだ。朝日は綺麗だし、昼間は暖かいし、夕日は郷愁を感じてしまう。ただ、その光を浴びるのがどうにも苦しい。これは体質で、改善は不可能なのでもう諦めている。
浴びたら即、灰になってしまうわけでもないが、日焼けをすると皮膚が真っ赤になって痛い。夏場でも長袖は欠かせないし、一年中手袋と日傘が手放せない。
夏に向かう大気は蒸し暑く、空の上とアスファルトから容赦ない熱が向かってくる。もう既に夏服に着替えている同じ学校の生徒が、惜しげもなくその腕を日中に晒して涼しそうにしているのを羨ましく見るたびに、直哉は思うのだ―――全く、吸血貴(ストリゴイイ)は大変だ、と。



この国で、「人間の血を飲む知的生命体」は俗に吸血鬼と呼ばれている。直哉がその事を知り父に告げたところ、「鬼」はよろしくない、寧ろ「貴」であるべきだ、と主張された為、それ以降ストリゴイイ、女性を差す時はストリゴアイカとも言う、彼等が彼等自身を差す言葉を、心の中で直哉は「吸血貴」と訳している。
殆どの人間は勿論、彼等の存在を知ることは無い。皆フィクションの中だけの怪物であると認識しているだろう。しかし、直哉はその存在を信じるに足るだけの理由を持っている。
彼は、吸血貴の父と人間の母の間に生まれた子供だった。一般的にはダンピールと呼ばれているその存在は、人間離れした力と人間としての意思を持ち合わせる、ヒーローとして描かれることがフィクションでは多いらしいが、直哉に言わせてもらえばそんなのはごくごく一部だ、と断言できてしまう。
確かに、吸血貴というのは人間よりもかなり優秀な身体能力を持つが、同時に弱点も多々ある。そして、いかなる能力に目覚めるか、どのような弱点を持ってしまうかは個人ごとに全く異なってしまうのだ。彼等の能力はあくまで生まれ持った才能のみであり、努力で得られる技術ではない。
直哉の場合、致死性の弱点を持つことは無かったが、目立った能力も無かった。日本の男子高校生の平均よりは、ちょっと腕力と握力が強くてちょっと足が速い、クラスで体力測定をやっても絶対に下位にはならないが一位にもならない、それぐらいのものだ。あとはせいぜい五感が人間の普通よりは鋭い、という程度。
無宗教故に十字架や賛美歌、祝福された銀も平気で、川でも海でも泳げるが、ガーリック入りの料理を食べると脂汗と蕁麻疹が出るし、前述のように太陽の光は苦手だ。肉体も、夜になればかなり丈夫にはなるけれど、斬られたり刺されたり轢かれたりした時、当たり所が悪ければ多分死ぬ。
何より、血が飲めない。牙も僅かにしか尖っていないし、吸えない。舐めるぐらいならまだしも、ちょっとでも飲んだら気持ち悪くて吐いてしまう。
つまり、全体的に見て、人間の世界で生きる方が楽で、面倒も少なかった。吸血貴(ストリゴイイ)の世界は、プライドだの柵だの血筋だの土地柄だのが煩くて、地位の低いもの、力の弱いものは徹底的に蔑まれ下に置かれる。子供の頃、直哉は父に何度か、吸血貴の社交界というものに連れて行かれたが、侮蔑や嘲笑の視線に囲まれてろくなことが無かった。
あの時の事を思えば、こうやって朝日に身を晒すのを我慢して日々学校に通う方がずっとましである、と彼自身も解っているのだが、それでも暑いものは暑い。
「はよー。相変わらず暗いな坂井、こんないい朝なのに」
と、後ろからばん、と直哉の背が叩かれた。叩いた相手はすぐに彼の隣に並んで歩き出し、にこにことにやにやの中間ぐらいの顔で笑っている。
「おはよう、門間。仕方ないだろう、暑いんだ」
表情を全く動かさないまま、直哉はほぼ同じ高さにあるその顔を、首を回して視界に収める。相手の名は門間淳一と言い、直哉にとって学校で唯一の友人であった。大概、他の男子には「愛想が無い」、女子には「ちょっと変で怖い」、という評を受け続けている、表情筋が仕事をさぼりがちな直哉にとっては、有り難い存在だった。何せ学校というものは、そういう相手が一人もいないと非常に生き辛い世界だったので。
「じゃあ半袖―――って、無理だったな。皮膚が弱いってのも大変だな」
「まぁな」
言いかけた言葉を自分で首を振って否定し、門間は直哉の体を労ってくる。笑顔を絶やしてはいなかったので、あまり誠意は感じ取れなかったが、それでも直哉は嬉しかった。
直哉は自分の体質を、紫外線に弱く、防護服を着るほどではないがすぐに火傷してしまう、と学校に説明している。あながち嘘ではないので言う方も気楽だ。
黒い蝙蝠傘越しに、表情自体はやはり変わらないものの、恨めしそうに太陽を見上げる直哉をどう思ったのか、門間がぴんと閃いた、という風に人差し指を立てる。大袈裟な身振りは大概誰がやっても寒く見られがちだが、何故か嵌って見える雰囲気を彼は持っている。
「日焼け止めクリームとかじゃ駄目なわけ?」
「日焼け止め?」
「今色々あんじゃん、女どもが血眼になって塗ってるぞ。皮膚弱いとそれも駄目なのか?」
「いや……」
今まで考えたことも無かったが、確かに太陽による日焼けの被害には間違いないのだから、もしかしたら防げるかもしれない。せめて手袋だけでも外したいと常々望んでいた直哉にとっては、魅力的な提案だった。
「一回試してみる。ああいうのって化粧品売り場にあるのか?」
「バッカお前、今時ドラッグストアにでもコンビニでも売ってるよ」
呆れたように肩を竦める―――やはり不思議と似合っていた―――門間に気を悪くした風もなく、今年の夏は少し涼しく過ごせるかもしれないという希望に、直哉は夢中になっていた。


太陽に支配された時間は諾々と過ぎていき、放課後になった。
さて、日焼け止めクリームとやらを買いに行こうかと内心息巻いていた直哉は、ホームルームが終わった瞬間「坂井、ちょっと職員室来い」と担任教師からの無情な呼び出しを食らった。「お気の毒〜」と笑いながら去っていく唯一の友人を恨みがましい目で見送り、大人しく従って普段なら出来るだけ入りたくない部屋へ向かった。
「呼ばれた理由は解ってるな?」
「はい、なんとなく」
ぎしぎし軋む職員室の丸椅子に腰かけた途端、話しかけてくる担任に対し、声は暢気に、顔は無表情のまま、という直哉にとっての自然体を保って応えると、評は「ちょっと怖い」か「不遜に見える」が多い。残念なことに、直哉の担任は、今年の初春から既に後者の感情を持ってしまっていた。今回も、気に食わない生徒の朴訥な言葉に、露骨に眉間に皺を寄せている。教師としては失格かもしれないが、隠せぬ苛立ちを滲ませつつ、担任は辛抱強く尋ねた。
「進路希望だ、進路希望。お前、まだ出してないだろう」
「あー」
そういえばそんなものがあった、と今まさに直哉は思い出した。まだ高校二年になって間もないというのに、もう数年先の未来について選択しなければならない時期に来ているらしい。
しかし直哉にとっては、今夜行われる予定である家族の一大イベントの方が、ここ暫くとても気になっていたので、学校生活に気を割く事を避けていた為、必然的に記憶の片隅に追いやっていたのだろう。
「親御さんはどう思ってるんだ。外国暮らしだと言っても、話を聞くぐらい出来るだろう」
「最近電話も繋がらなくて」
嘘である。直哉の両親は、家にずっと居る。ただ、話を聞くことが、普段全く出来ないだけだ。その理由は、彼の体質よりももっと説明し難い代物なので、大抵「両親は海外出張中」ということにしている。
「でももうすぐ帰ってくる予定なので、週末には話は聞けると思います」
「なんだ、そうなのか。じゃあ月曜日、提出するように。進学か就職かだけでいいから」
事実と嘘を織り交ぜて解り易い説明を直哉がすると、担任はあからさまに面倒が一つ減った、という安堵を見せて、もう帰っていいと告げた。色々と言ってやりたいことはあれども、それ以上に面倒が嫌いな彼は、はい解りましたと良い子のお返事をして、これ幸いと職員室から逃げ出した。
廊下はもう西日に支配されていて、窓から刺さる斜めの光を出来る限り避けつつ、直哉はぽつりと呟く。
「……流石に執事になりたいって書いたら、怒られるだろうなぁ」
幼い頃、猫に躾という名のスパルタ教育を受けて落ち込んだり泣いたりした時、慰めてくれた老執事がいたおかげで、直哉は将来の夢を「グリゴラシュみたいな執事になる」と宣言したことがある。両親は笑って頷いてくれたものの、当のグリゴラシュ本人が「どうかそれだけは」と必死に諫めてきたので、渋々と撤回せざるを得なかったが。
しかし、静かに、そつなく、万事をこなす、というグリゴラシュの姿は未だに直哉にとって、人生の目標である。今のところ真似出来ているのは、無愛想から来る「静かさ」だけだが。
懐かしい事を思い出しつつ、直哉はちょっと寄り道をして、近所のドラッグストアに入った。同じ学校の制服に身を包んだ女生徒達の間を掻い潜り、目当ての棚に辿り着く。
「……高い」
思わずそう漏らすほど、値段が良心的では無かった。想像していた以上に、山のような種類の日焼け止めが置いてあり、安いものでも千円以上、高いものは三千円を超える。普段から豪遊する性質ではないが、月決めの小遣いをやり繰りして、バイトもしていない直哉には少々辛い金額だ。かなり悩んで、結局下から二番目に安い、千円ちょっとのものを購入することに決めた。安い方がいいが、一番安いと効かないかもしれない、という不安からの選出である。
かなり日が傾いてきたけれどまだまだ辛い光の中を歩き、近所の公園の木陰にしゃがみこんで、直哉は実験をしてみることにする。
己の体が全て影に覆われていることを確認してから、手袋を外す。買ってきたばかりの瓶の蓋を開け、ほんの少量掌に取り、逆側の手にこれでもかというぐらい擦り込む。深呼吸を二回して、いざ、クリームを塗った左手を影の外に―――。
「何をやっているの直哉」
出そうとした瞬間、無造作に声をかけられてたたらを踏んだ。片膝を地面につけて転ぶことを回避して、なんとか振り返る。
「……マリチカ、脅かさないでくれ」
西日の作る影に紛れて翠色の単眼がきらりと輝く。他人に見咎められたら事だが、辺りに人影は全く無い。彼女は太陽と同じぐらい人間が嫌いな上、非常に「眼」が良い。その辺りはきちんと見極めてから直哉を迎えに来たのだろう。心底不機嫌だ、という感情を視線に乗せたまま、直哉の膝の傍まで来て腰を下ろす。
「この大事な日に、ふざけた寄り道は許さなくてよ。遊んでいる暇があるのなら、すぐ家に戻りなさいな」
「遊びじゃない、実験だ」
「実験?」
訝しげなマリチカを、説得するより実践してみせた方が早いと思った直哉は、腹を決めて、えいや、と日の中に手を突き出した。僅かにマリチカが息を呑んだようだったが、彼女も動かないし何も言わない。
夕日が柔らかく手の甲に降ってくる暖かさを享受し、1、2、3、と心の中で30まで数え、直哉は手を引き戻した。何度も手の甲と掌をくるくる回して確認するが、火傷は無いし、痛みも感じない。
「……UVカット凄ぇ」
「下品な口調はお止めなさいな」
思わず呟いた直哉の言葉づかいが汚くて不愉快だったらしく咎めるマリチカも、その大きな目はまじまじと彼の手を見つめている。
吸血貴は、太陽の光に弱い。これは遥か昔から変わらぬ不文律である。個人差は勿論あるし、全く影響を受けない者もごく稀に存在するらしいが、浴びることによって起こる被害を防いだ事例は、未だ嘗て無かった。繰り返すが、吸血貴が重んじるものはあくまで生まれ持った才能で、後天的な努力で作り上げたもの、特に人間が作ったものなどは嘲笑し唾棄するのが常である。つまり、今まで一度も日焼け止めクリームを試したものがいなかったのだろう。
「……おおー」
今度は両手にクリームを塗って試し、直哉は感嘆の声を上げる。これからは日傘と手袋のお世話にならなくても良いかもしれないと思えば、彼の心も弾む。勿論、表情には全く喜色が浮かんでいるように見えないが。
「いつまで遊んでいるの! ディミトリエ達が起きてしまうわ!」
「あ、ごめん」
痺れを切らしたマリチカが叫び、直哉は素直に詫びてその柔らかい毛並を抱き上げた。普段こうするとまた「猫扱いしないで」と怒られるところだが、まだ太陽は力を誇っているので、大人しく傘の下に収まるつもりのようだ。それでもふんと小さな鼻を鳴らし、不満を述べるのは怠らなかったが。
「全く、人間の小賢しさには呆れてしまうわ」
「生活の知恵って言ってくれ」
「同じことよ」
直哉に小言を言うのをライフワークにしている猫だが、今日は夜に大事を控えているせいか、追及がいつもより甘い。両親よりも一緒に過ごした時間が長い、保護者代わりの猫を宥める為に、彼はその狭い額を指で擽ってやる。勿論、すぐに怒りを込めて、血が出ない程度にがりっと齧りつかれたけれど。
「マリチカ、痛い」
「いい加減私を猫扱いするのはお止めなさいなっ」
「猫じゃないか」
いつも通りのやり取りも、何となく言葉を弾ませながら、一人と一匹は家路についた。



直哉の家、坂井家のマンションは3LDKである。一番狭い六畳間が直哉、次に広い八畳間がマリチカの部屋になっており、一番広い十二畳間が直哉の両親の部屋だ。グリゴラシュの部屋は無い。彼はあくまで主に仕える従者であり、眠る時はリビングの隅で立ったままだ。
まだ直哉が幼い頃、幼稚園から帰ってきた時、グリゴラシュがうっかり寝坊してしまった為、部屋の隅にぼうっと立っていたその姿を見てしまい、驚きのあまり腰を抜かした事がある。カ―テンの締め切られたリビングに直立不動で立つその姿に、本気で驚いたのだ。勿論すぐ目を覚ましたグリゴラシュが、直哉が申し訳なくなるぐらい平身低頭で謝って来て、それ以降寝坊は全く無くなったので、一応この件は解決ということになっている。
そして今、厳重に金と鉄と錫、三つの錠前が封じている一番大きな部屋の扉を、グリゴラシュがひとつひとつ鍵を差し込んで開けていく。
扉がゆっくりと開く。グリゴラシュが頭を下げて促すのを受け、マリチカと直哉が並んで部屋に入る。マリチカの機嫌はもう完全に上向いたらしく、尻尾がぴんと立っているのを確認して直哉はこっそりほっとする。機嫌を損ねたままだったら、眼を覚ました父親に、あることないこと吹き込まれる危険があるからだ。
部屋の窓は勿論分厚いカーテンで閉め切られており、一切の光を遮断している。毎日グリゴラシュが掃除をしているお陰で、埃一つないその部屋に並ぶ燭台に、有能な執事は次々と火を灯していく。やがて火の明りの中に、巨大な黒塗りの棺が浮かび上がった。
「直哉さん、お願い致します」
グリゴラシュの声に頷いて、直哉が棺の蓋に手を伸ばすと、僅かな軋みすら立てず、その蓋が外れる。その重厚な形と大きさにも関わらず、直哉は殆ど重さを感じない。棺の持ち主とその妻子に対してだけ、身を軽くさせる秘術がかかっているそうだが、直哉も詳しくは知らない。なるべく音を立てないように慎重に、そっと棺の脇に蓋を下ろす。
「ディミトリエ、早く起きなさいな」
棺の縁に飛び乗ったマリチカが平然とした声で呟き、直哉も棺の中を覗きこむ。絹で裏打ちされたその中に悠々と横たわる、豪奢な夜会服を身につけた赤髪の男。そしてその男にそっと寄り添う、ごく普通のセーターとワンピースを着た黒髪の女。
やがて―――男の方の目が、かっと見開かれた。鮮やかな青の瞳はまず、自分の胸元へ向かう。そこで僅かに寝息を立てる女に対し、安堵の息をほんの僅か吐いたことに、直哉だけが気づいた。そうしているうちに視線は更に動き、直哉を捉える。
「―――おお!」
感嘆の声を上げる、大きく開かれた口には鋭い犬歯が覗いて見える。男は片手に抱えた女の眠りを妨げないようにあくまで優雅に起き上がり、もう片方の手を直哉に向かって伸ばした。
「愛しき我が息子よ、今宵もまた我が眠りを退けてくれたか! ナオヤ、ナオ、ナーヤ、直哉・イグナチオ!」
寝起きにも関わらず、朗々と響く喜びの声をあげる男に、マリチカは、なん、と呆れたような声を漏らし、グリゴラシュは深々と胸に手を添えて礼をし、直哉はやはり表情を変えずに、伸ばされた手を、まるで握手をするように軽く握る。直哉よりも体温の低いその大きな手はひやりとして、しかし彼の掌を力強く握り返して来る。その強さにほんの少しだけほっとして、直哉は応えた。
「おはよう、父さん」
「うむうむ、元気そうで何よりだ、我が愛息よ! さぁ目覚めたまえ、我が愛しの妻、フミコ、フーミ、フゥ、史子。我等は君の麗しき瞳が開くのを何よりも待ち望んでいるのだ」
男は次に、僅かに声を抑えて腕の中の女の耳元で囁き、そっと唇に口づける。やがて化粧っ気のない瞼がゆるゆると開き、日本人として何の変哲もない茶色の瞳が現われる。その目はすぐに自分の良人を像として捉えたらしく、柔らかく微笑む。
「……おはようございます、あなた」
「史子……! 愛しき我が宝石よ!」
寝起きで僅かに掠れた声だったが、男の心を震わせるには充分な言葉だったらしく、感極まった様子でもう一度、今度は深く口づけた。普通なら例え親同士だとしても、否だからこそ居合わせたら居心地が悪くなってしまう光景かもしれないが、直哉にとってこんな光景は正しく日常茶飯事だ。今更両親の濃厚なラブシーンの一つや二つ、見たところで何の動揺もしない。
「……あらっ? あら、いやだ、私ったら。直哉、おはよう。ごめんね、こんな恰好で。久しぶりなのに」
やがて両親の感動の再会はひと段落ついたらしく、夫ほど寝起きが良くない妻もやっと目を覚ましたようだった。ちょっと顔を赤くして詫びてくる母に、直哉は無表情のまま首を横に振る。
「おはよう、母さん。別に気にしてないよ」
「ありがとう、直哉。マリチカさん、グリゴラシュさんも、直哉の力になってくれて、本当にありがとうございます」
紅潮した頬を何度かぺちぺちと叩き、漸く人心地ついたらしい史子は、ちゃんと体を起こし、猫と執事にぺこりと頭を下げた。猫は不遜に、執事は恭しく、主の妻の労いに応える。
「ふん、主に頼まれたことですもの、完璧にこなすのは当然だわ」
「勿体無きお言葉にございます、奥様。さぁ、晩餐の支度が整っておりますので、皆様こちらへ」
「うむ! では参ろうか、史子、直哉! ディミトリエ・オイゲン・シルヴェストリ・坂井の名において、今宵も美しき天の瞳の元、宴を開こうではないか!」
燭台の光は妖しく輝き、重厚な棺が鎮座する不気味な筈の部屋の中、その棺の上に妻を抱き寄せたまますっくと立ち上がった赤髪の美丈夫が、堂々としたバリトンを響かせる。
こうして、一年ぶりのシルヴェストリ・坂井家親子の再会はいつも通り、騒がしく行われたのだった。



グリゴラシュが全力を注いで設えた、父の故郷で出される晩餐のメニューを家族全員で平らげ、現在直哉は珍しく台所の水場に立っていた。隣には母である史子が、手際良く皿を洗い片付けている。次々と洗われていく皿を、拭くのが直哉の役目だ。
執事は恐縮しつつ、せめてもと拭き終わった皿を仕舞う作業をしている。勿論、最初は片付けも全て私の仕事です、と彼自身は主の妻の手伝いを固辞していたのだが、「主婦としてせめてこれぐらいはやらせて下さい」という史子のお願いと、それを後押しするディミトリエに押し切られた。
その主は、家事を手伝うという意識は端から想像の埒外らしく、悠々と一人掛けのソファに腰を落ち着けてワインを傾けている。ちなみに、その膝の上にはマリチカが満足げな顔で丸まっている。台所からなんとなくその様子を見ていると、母から声をかけられた。
「直哉、学校は大丈夫? 誰かにいじめられてたりしない?」
「平気。昔ならともかく今はスルーできるし」
並んで家事をしながら話し合う二人の姿にぎごちないところは無い。この光景が一年ぶりだとは、知らない人が見たら全く想像がつかないほどに。それでも息子の言葉に、母は僅かに顔を曇らせてしまう。
「私がもうちょっと、傍にいてあげられればいいことなのに。本当に、ごめんなさいね」
「謝るのは無し。それが父さんと母さんの選んだ方法なら、俺は何も言わない。俺は、父さんと母さんが幸せなら、それでいいよ」
「直哉……すっかり男前になって。母さん嬉しいわ」
今度はわざとらしく、手を拭いた後のエプロンの端でそっと目の縁を拭ってみせる母に直哉もほんの少しだけ笑う。学校では無愛想と折り紙付の鉄面皮も、母親の前では若干緩むのだ。勿論それを読み取れるのも、余程親しい相手だけなのだが。
「直哉ー! 父とも久々の再会によりて親子の絆を育まないか! こちらに来たまえ!」
水音が消えたのに気づいたのか、リビングから父の声が響く。どうしようかな、と無言のまま迷う息子に気付いて、史子はくすくすと笑った。
「行ってあげて、ここはもういいから。あの人も寂しいのよ」
「うん」
手の中の皿を拭き終えた布巾を母に手渡し、直哉はリビングに入る。足音に気付いたマリチカが、目を僅かに開けてきろりと彼を睨んできたが、気づかない振りをした。
「マリチカに聞いたぞ、人間の作る薬はついに、あの忌まわしき陽光を退ける術を得たと言うではないか。この父に貸してみるがよい」
ひらひらと片手を伸ばしてくる父を見ながら、息子はその前の三人掛けソファに座る。今度は直哉の方から、何を吹き込んだ、という目でマリチカを見詰めてみるが、相手は知った事かとばかりに悠々と丸まり直哉の方を向こうとしない。ほんの少しだけ眉間に皺を寄せつつ、直哉は慎重に言葉を探す。
「俺ならまあ、何とかなりそうだけど大丈夫? 父さん、太陽浴びたら一瞬で灰じゃないか」
「ふっはは、父を甘く見るでないぞ息子よ。吾輩は忌まわしき陽光なぞ恐れはせんぞ」
父は息子の忠告を軽視ととったらしく、余計に胸を張ってしまった。しかし、父の方が息子よりも陽光に弱いのを、直哉はよく知っている。
まだシルヴェストリ・坂井家が、ルニィ・ノァプテ―――その所在を知っているものにしか辿り着けない、海を越えた向こうの、吸血貴が支配する国―――に住んでいた頃の事だ。何がきっかけだったかは直哉も忘れてしまったが、不意にディミトリエが「吾輩は陽光なぞ恐れん!」と堂々と宣言し、日向に手を差し出した次の瞬間、二の腕ぎりぎりまで灰化してしまったのは、良く覚えている。あの時は母子共々、散々父を怒って泣いた。
このままでは明日の朝、全身にあの日焼け止めを塗って、全裸で窓から飛び出すかもしれない。かなり長い年月を生きているのに、考えるより先に行動をしてしまう思い切りの良さがあるのを知っている直哉は内心頭を抱えるが、幸いなことに、この父を止める絶対の呪文も会得していた。
「怖くなくても痛いかもしれないことは止めとけってこと。……少しでも怪我したら、母さん泣くよ」
「うむ、止めておこう」
伝家の宝刀を抜き放った瞬間、父はあっさりと自説を取り下げた。母の名前さえ出せば、父は絶対に無茶や無謀をすることは無い。内心ちょっぴり怖かったのかもしれないが、直哉は指摘しないでおく。息子の優しさだ。
「何のお話?」
「おお、我が麗しき小鳥よ、さあ吾輩の腕の中へ降りておいで!」
そこで、一仕事を終えて満足げな史子が、リビングに戻ってきた。すぐさま両手を広げて妻を促すディミトリエに対し、今まで全く動く気配の無かったマリチカがすいと立ち上がり、床に飛び降りると、今度は主の足の甲を枕にして寝転んだ。史子はにこにこ笑いながら夫の隣に座り、すぐさま抱き寄せられている。
マリチカがここまで素直に相手の意図を汲んで動くのは、間違いなくディミトリエに対してだけだ。主も従もいない直哉にはいまいちぴんと来ないのだが、吸血貴が定める従属関係というのは、それほどまでに絶対的なものらしい。
しかし直哉が見る限りでは、マリチカもグリゴラシュも、強制ではなく己の意思で、父を敬い従っているように見える。結局のところ、彼等が面倒を見てくれているのは偏に父の命令による、それ一点だけで、自分自身にそこまで賭ける価値は無いのではないか―――と何とも捻くれた感情が浮かんできて、いけないいけないと、直哉は意識の針を真っ直ぐ、中立に戻す。勝手な想像による感傷に他者を巻き込むなどもっての外だ。万が一口に出してしまえば、母は嘆き、父は怒り、猫は呆れるだろうし、執事は己が無力の責任を取って割腹するかもしれない。その光景が容易に想像つくぐらいには、直哉にも愛されている自覚はある。
無表情のまま何某かを葛藤している直哉に気付いたのか、丁度良いタイミングでグリゴラシュがジュースを差し出したので、小さく礼を言ってそれを一口飲んだ。
「まぁ、日焼け止めクリームを?」
「うむ、そのような名であったか、マリチカ」
「直哉はそう言っていたわね」
両親と猫は、息子の葛藤に気付かず長閑に話していたが、途中で一つ目の視線が直哉に向いたので、とりあえず頷いた。母はにこにこ笑いながら、しかし首を傾げて言う。
「良かったわね、直哉。いつも夏は暑くて大変だったものね。でも……ああいうクリームって、汗ですぐに落ちちゃうから、小まめに塗らないといけないんじゃなかったかしら」
「え」
「なんと!」
母の助言に直哉は驚き、ディミトリエも大げさに両目を見開く。これからもっと暑くなる日々、手と顔だけならまだしも腕や足となると、頻繁に塗り直すのは中々大変だ。じゃあやっぱり一夏長袖なのは変えられないのか、と内心がっかりする直哉に対し、ディミトリエは不満のみを顔に浮かべ、顎に手を当てて唸る。
「ふむむむ……やはり忌まわしき陽光は吾輩を退けるか。全く持って腹立たしい!」
「どうか無理はしないでください、あなた。夜の内だけでも、私は一緒にいますから」
「史子……! 何と優しく気高い吾輩の宝石よ! 永遠に君を離してはなるものか!」
愛する妻の言葉に感極まったディミトリエが、その体を抱き締める。勿論息子は慣れたもので、ああ始まったなぁ、と思いながらジュースを飲もうとグラスに口をつける。
「時に息子よ」
「うん?」
「アンドレーア嬢はお元気かね」
しかしその瞬間、不意に我に返った父に、一番聞かれたくなかったことを聞かれて僅かに噎せた。何とか噴き出すのを堪えてから改めて父親の方を見ると、ディミトリエとその足元の猫が同じような顔でにやりと笑っている。その視線に困りながら、直哉はぼそぼそと答える。
「……知らないよ。この前父さん達が眠ってからは会ってない」
「なんと嘆かわしい! 麗しき令嬢に誘いの言葉ひとつもかけられぬとは、男の名折れであるぞ我が息子よ!」
「この子にそんな甲斐性を求めるだけ無駄だわ、本当貴方とは大違い」
散々勝手ながらも耳が痛いことを言ってくれる父と猫を必死に直哉は無視していたが、まさにその時、左手の薬指に、きりりと痛みが走った。まるで、指の根元にかぷり、と噛みつかれたような。
はっと己の手を見ると、薬指の付け根に、ぐるりと輪のような赤い傷が浮かんでいる。今まで全くの無傷だったところに、だ。
「おやおや、流石はアンドレーア嬢! 既にもうこちらへ向かっているのではないかね?」
「あの子も義理堅いわね。全くもって、直哉には勿体ないわ」
「そうなの? それじゃあおやつの用意をしないといけないわね。いついらっしゃるかしら、直哉解る?」
当然それに気づいた父と猫の騒がしさと、暢気な母の言葉の中、まさしく図っていたとしか思えないタイミングで、お盆に手紙を一通乗せたグリゴラシュが静かに歩み寄り、手にしたものを直哉に向かって捧げた。
「直哉さん、アンドレーア・イオネラ・バラウール様より、訪問のお知らせでございます」
その瞬間父は弾けるように笑って体を仰け反らせ、猫は付き合っていられないとばかりに体を丸め、母は「良かったわねぇ」と優しく笑っている。
今度は実際に頭を抱えつつ、それでも直哉は―――まだぴりぴりと痛む左手で、待ち望んでいたその手紙を受け取った。