時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

インターミッション:蛇

かつかつと規則正しい足音を立てて、尋巳は校舎3階の図書室に辿り着き静かにそのドアを開けた。
それなりに残っていた生徒達がざわり、と色めき立つが、その気配を全て遮断して中に入り、適当な本を見繕ってから、自分の席と勝手に決めている窓際に腰を落ち着けた。僅かに傾きかけた西日が尋巳の端正な横顔を照らし、辺りの人間から感嘆の溜息が漏れる。
実は、こうやって図書室に遅くまで陣取っている生徒の殆どが、尋巳の熱狂的なファンだったりする。眉目秀麗・成績優秀、日本でも有数の資産家・神宮寺グループの跡取――本人は断固拒否しているが――とモテる要素を揃い踏んでいる尋巳は、沢山の女生徒と一部の男生徒から熱烈な支持を受けていたりする。本人は友人以外に裂く時間が勿体無いとばかりに他人に関わらない様すら、「クールで素敵」との品評を受けてしまうのだ。
勿論そのような批評は尋巳にとって何の感慨も齎さず、衆人環視の状況に構わずいつもゆっくりと読書に耽る―――筈だったのだが。
「………む。迂闊」
らしくなく、露骨に眉を顰めて尋巳は呟いた。その視線は手元に置いた本に注がれている。重厚なカバーの分厚いそれは、自分がここに入学してからすぐに読んだ本だった。何枚かページをめくってみるものの、一度読んだ本の内容を絶対に忘れない尋巳にとって、面白いわけが無い。やむなくぱたんと本を閉じ、しかし新しく本を探す気も起きず、ただ背を伸ばしてグラウンドを見た。
「…乱れているな」
こんな失敗を今までした事はない。自分の記憶力が桁違いなのは良く解っているし、注意しておけばこんな手間をかけてしまうわけがない。理由は一つ―――何か別の事に心を奪われていたからだ。
「全く。埒も無い」
またしてもらしくなく、尋巳は溜息を吐いた。憂いを含めた表情にファン達は更にテンションを上げているが、勿論意に返さず尋巳はただ物思いに耽る。
理由は既に解っている。今日の身体測定時、自分の結果もさることながら―――身長の事を必死に気に病んでいた友人の顔が浮かんだ。
今まで、彼女が自分の体格について嘆いたことなど無かった。寧ろ、外国生まれの祖父譲りの身長の高さを受け継いだ事を無邪気に喜んでいた。きっとそれは、彼女が姉を守る為に必要なものであったし、役に立つものだったからだろう。
それが今になって、あそこまで落ち込む理由。
「――――ちっ」
小さい舌打ちは、幸いな事に誰にも聞かれる事が無かった。尋巳はいよいよ眉間に皺を寄せ、その理由である男の顔を頭に浮かべた。
日野龍樹。校内では所謂「不良」という名のレッテルを貼られている生徒である。まあそんなに悪評を聞く事は無く、精精自分達のようにいまいち型に填まらないアウトローだと思えば良いのだろう。それ以上の人となりは余り知らない。―――只、自分の大切な友人が、好きな相手だというだけ。
「餓鬼だな」
独り言に自嘲が混じった。勿論虎乎にも鷹也にも白状していないが、どうにも自分は、日野龍樹という男が嫌いらしい。後、鷹也が中学時代からずっと懸想している、天城兎子という少女も。
自分の世界は酷く狭い。必要なのは家族と二人の友人だけだ。その二人の友人が、自分以外の人間を自分よりも高い位置に奉じているところが、どうにも気に食わないらしい。―――これでは本当に子供だ。
しかし、と言い訳をしてみる。恋愛というものはそれを構築する両人が同じだけ幸せでなければ成り立たない、と自分は解釈している。だが自分が観察する限り、友人達は幸せなのだろうか?
虎乎と日野龍樹が話している場面を見る限り、内面を晒す回数が虎乎に比べ日野龍樹の方は格段に少ない、と思わざるを得ない。拒絶ではないが、深い干渉を許すことが出来ていない。そうすると虎乎の方は遠慮をしてそこで足を止めてしまう。
「不公平ではないか」
腕を組み、背凭れに背中を預けてまた一人尋巳は呟く。
鷹也と天城兎子の方も同様だ。否、これはもっと性質が悪い。鷹也の全身全霊を込めた告白ですら、あの女は受け止めようとしなかった。鷹也に甘えて、逃げてしまっただけではないか。それなのに鷹也は未だ、姿すら消してしまった彼女の事を思い続けているのだ。
「やはり不公平だ。けしからん、一体何が不満だと言うのだ」
うむ、と頷き、尋巳は結論を出した。即ち、自分にとって大切な友人達が、恋愛によって非を背負っているのが納得いかな
いのだ。
―――あの二人は、私よりも幸せにならなければいけないのだ。





出会ったのは、幼稚園に行く前頃の事だったと記憶している。
最早顔も忘れた家政婦に連れられて、公園に散歩に行った時の事。自分は遊具に興味が持てず、只ベンチに腰掛けて本を読んでいた。
すると、辺りを走り回っていた少年が、水飲み場から戻ってきた少女に追突した。少女は吹っ飛ばされ、服を泥だらけにされて泣き出してしまった。
少年の方が動揺しておろおろしているうちに、少女の友人らしき子供が現れ、理由も聞かずに少年を殴り飛ばした。泣き声が更に広がり阿鼻叫喚の様相を呈してきたので、本が読めなくなった事を不快に感じた自分は、仲裁の為にベンチから降りた。
言うまでも無いが、この時の少年が鷹也、泣き出した少女が里馬、鷹也を殴った子供が虎乎、である。
仲裁は中々上手くいかず、自分も今ほど弁が立たなかったので、所謂「仲直りの印」として全員を自宅へ招待した。自分にとっては当たり前の家の中を、無邪気に驚いて喜んでくれるのは気分が良かった。
――――あれからだ。自分にとってこの友人達が、無くてはならない存在になったのは。
僅か5、6歳で老成して、積極性を失った自分にとって、半ば無理矢理色々なところへ自分を引きずり出していってくれた二人の友人は、自分よりもとても尊い存在であると理解している。
だから、かの二人は自分よりも幸せにならなければいけない。自分より素晴らしいものが自分より幸せになるのは自明の理なのだ。
「…無駄な事とは解っているが」
それなのに、と尋巳はまた不機嫌になる。自分がいくら止めても、あの二人は歩く道を違えようとは思うまい。そんな者達だからこそ、自分は友人になろうと思ったのだから。
不毛な結論を出してしまった。こんな考察は行いたくないのに、最近一人になると大抵こうやっている。どうにか打ち止めたくて、尋巳は腕を組んだまま眼を閉じた。






忙しい合間を縫って勤め上げている保険委員の仕事がやっと終わり、未亜希は解放された。
時計を見ると、いつもの帰宅時間よりはやや早い、中途半端な時間だった。どうしようか、と首を傾げてから、久しぶりに図書室に寄ろうと決めて階段を昇りだす。
いつも通り静かであろう図書室のドアを開け―――そこが妙に騒がしい事に気付いた。
勿論普通の教室と比べたら格段に静かなのに違いないのだが、あちこちにいる生徒達が皆、顔を寄せ合ってひそひそと何やら呟いている。それが沢山行われているせいで、いつになくこの部屋が騒がしく感じるのだ。
何事か、とやや不機嫌になって部屋の中を覗きこむと。
「……なっ」
絶句した。
西日がややきつくなってきた部屋の中、両腕を組んで僅かに俯いたまま、椅子に座って眠っている自分の「義兄」―――神宮寺尋巳の姿があった。何か見てはいけないものを見た気がして、未亜希は慌てて辺りを見回し―――覚悟を決めて、衆人環視の中彼に向かって歩き出した。
辺りのざわめきが更に大きくなるが、尋巳は目を覚まさない。本当に熟睡しているようだった。
「…嘘みたい」
思わず呟く。彼の友人から偶然聞いた事があるのだが、尋巳はとんでもなく眠りが浅い人種らしいのだ。しかもかなり特殊な。
『修学旅行の時にね、おれと部屋離れちゃったんだ。そしたら、消灯時間過ぎてからヒロがおれ達の部屋の方にやってきちゃって、「眠いが、眠れぬ。寝かせろ」っておれの隣の布団に勝手に入って寝ちゃったの。それでも誰か他の人が隣通る度に目、覚ましちゃって。ずーっと寝不足だったんだよ』
『あーそれ、俺も聞いた。俺かタカだけの時は平気なんだけどな? 他人が近づくと緊張して眠れねぇんだってさ』
話半分に聞いたとしても、かなり難儀な指向なのは理解出来る。そんな彼がこんな公共の場で居眠りしている事も信じられないが、尚且つ自分が近づいても目を覚まさないというところが、更に信じられない。
それは、つまり。この朴念仁この上ない義兄が、傍目に見てもとても大切にしている友人達と同じぐらいに、自分を信用していることに繋がりはしないか。
「…ちょ、ちょっと。起きなさいよ早く!」
思わず声を上げた瞬間、ぱちりと色素の薄い瞳が開いた。何度か瞬き、焦点を合わすと、漸く相手が誰であるかを理解したらしい。
「未亜希か」
「…そうよ。何こんなところで暢気に寝てんのよ。他の利用者の邪魔でしょ」
「む。済まない、逃避を行っていた」
「は?」
意味の解らない理由を言われて、みあきが目をぱちくりとさせる。その仕草を見て、尋巳は―――とても自然に、口の端を綻ばせた。息を詰めて様子を見守っていたギャラリーがどよめく。彼等も見た事は無かったのだ、尋巳の―――笑顔など。
「納得はまだいかないが、自分に与えられる幸福は素直に享受しよう。―――帰るぞ、未亜希」
「な、なんなのよ! 全然わかんないわよ、説明しなさいよ!」
「図書室で声を荒げるのはどうかと思うが」
「うぐ」
正論を吐かれ、悔しそうに口を結ぶ義妹を見て、尋巳は満足げに立ち上がると歩き出す。人垣が自然に分かれる中、義兄妹は家路についた。





帰り道。何気なく、尋巳は口にした。
「世界とは不公平なものだな、未亜希」
「…だから、なんなのよ一体。当たり前でしょそんなの、この世が公平だったら別個体の他人なんてどこにもいなくなっちゃうわ」
「然り。別固体の存在として生まれた時点で、公平では無くなっているか」
訝しげながらちゃんと答えを返す未亜希に、何度も頷く。
「では、他よりほんの少し早く、私が幸せになっても構うまいか」
「あんたって本当、頭良いけど馬鹿ね。人間はね、自分の幸せだけを邁進して過ごしてれば良いのよ。そうすれば嫌でも全世界の人間全部、幸せになれるわ。多分だけど」
「極論だな」
「そう考えないとやってけないってこと」
「然り」
呆れたように、或いは遣り切れないように溜息を吐くこの義妹が、友人達とは別の意味で酷くいとおしいと思いながら。
尋巳は全ての思考を払拭して、どこか颯爽と歩き出した。



fin.