時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

インターミッション:虎

「やってられるか――!!!」
どぼしっ!! ばうんばうんばうん…
恐ろしい音を立ててサンドバッグが揺れる。一番高い位置では天井と並行になっていた。
「はぁー…調子出ねぇな…」
(それでかっ!!?)
落ちてきた砂の袋の揺れを危なげなく片手で止め、溜息を吐く虎乎に周りの部員から声にならないツッコミが入る。
土生東高校ボクシング部。本来勿論男子のみのこの部活に、特例と言う形で虎乎は籍を置いている。勿論公式試合等には出られないが本人身体を鍛える為だけの目的なので関係ないし、実際の身体能力で彼女に勝てる部員はこの中にいない。
「神宮寺、瀬川どーしてあんなに荒れてんだ?」
「汲んでやれ。奴は今人生の岐路に立たされていると言っても過言ではない」
声をかけてくる同級生を軽くあしらいながら、尋巳は今日の宿題であった数学の問題集を最後まで解き終わり、部室の机から腰を上げた。鷹也はもうグランドに行ってしまったので、少しはゆっくりできるかと尋巳もここに寄っていたのだ。
「虎乎、では私は図書室に寄ってから帰るぞ。貴様も物に当たるのは程々にしておけ」
「おー…」
鞄を背負って部室のドアを開けて振り返ると、サンドバッグと仲良くなったまま虎乎はひらひら手を振った。
そのまま暫くぐりぐりと額を袋に押し付けて何やら唸っていたが、
「あー駄目だ。センセー、俺今日帰ります」
「あ、ああ、いいよ」
顧問の先生も専門的なボクシング知識を持っているわけでもなく、虎乎に教えられる人間が先輩にもいないので、こういう我侭もまかり通る。決して彼女が怖がられているだけではないと付け加えておこう(それも理由の一つになっていることが可哀相だが)。






「やっばいなぁ…やべぇよ。何でまだ伸びてんだよ…」
そう、彼女を責め苛んでいるのは本日の身体測定に他ならない。
いい加減育ち過ぎだと思われる自分の体が未だ発展途上だったことがわかり激しく落ち込んでいるのである。
「やっぱ朝一で牛乳飲むのがだめなのか…? くっそー!」
ともすれば落ち込む自分を奮い立たせる為、軽くシャドーを行う。端から見ると怖い事この上ない光景だが、幸い部活中ゆえ辺りに人はいなかった。
校門から出る為、第二グランドからプールの側を抜けようとしたその時。
ぱしゃん…
「?」
水音がした。
確かにプール開きはすでに行われていたが、放課後は当然立ち入り禁止。一応水泳部はあるにはあるが、幽霊部員しかおらずこんな初夏から練習を始める物好きはいないはずだ。
好奇心も手伝って、虎乎はちょっと駆け足でトタンの壁側から金網のフェンスを張ってある壁の方に移動した。





果たして、そこには誰かが泳いでいた。
水の中で、体がぴいんと伸びて一本の線になっている。
はっきりと見えないが、水泳帽を被っていないから水泳部ではない。
凄く早いのに、水飛沫は僅かしか立っていない。泳げない虎乎にも、目の前の人間が凄く上手い事は分かった。
(すげー…)
虎乎が見蕩れているうちに、その人は25m泳ぎ切り、ざっと体を水から上げた。その二の腕に、見覚えのある刺青を虎乎の目は捉えた。
「えっ……あ―――――!!?」
それを指差して虎乎は絶叫してしまった。叫ばれた相手も、驚いて横を見る。
「何だ? 瀬川か?」
ずぶ濡れの黒髪の間から見える目は、少し笑っていた。
「たっ…た…龍樹いいいい!?」
均整の取れた身体が水に濡れたままプールから上がり、こちらに近寄ってくる光景に思わず虎乎は顔を赤らめた。
軽く前髪をかきあげて、日野龍樹はばつが悪そうに苦笑いした。
「入ってこいよ。そこの金網の鍵、壊れてんだ」
そう言って、虎乎の側にある金網の戸を指差す。
龍樹の言葉の通り、軽く引っ張ると取れてしまう使い物にならない錠前のお陰で、虎乎はすんなりプールサイドまで入ることができた。
「えっと…それじゃ、オジャマシマス」
体をかがめて潜る時思わずそう言うと、龍樹は面白そうに笑って、置いてあったタオルで頭を乱暴に拭いた。
「龍樹って水泳部だったのか?」
「違ぇよ。この頭で入れるわけないだろ?」
「あ、そっか」
頬にかかるほどに伸びたサイドの髪を軽く引っ張って龍樹が言う。水の抵抗を無くす為、男女問わず出来る限りの短髪が義務づけられている水泳部はそのおかげで更に人気が薄いのだ。確かに、と肯いて浅はかな自分をちょっと反省した。
「それにコレもあるしな」
そう言って、二の腕に鮮やかに痕を残す刺青を軽く叩く。髑髏と蛇の図案は結構有りがちだが、水に濡れたせいか凄くリアルに見えた。
「周りがビビっだろ、これのせいで」
「ん…あ、や、でもかっこいいぜそれ!!」
こくんと肯いてから慌ててフォローする虎乎。また面白そうに龍樹が笑う。どうも普段よりテンションが高い。
「龍樹…」
「ん?」
「なんか良い事あった?」
どちらからともなく、昼間の熱の冷め始めたコンクリートの上に座り、両膝を抱えて少しでも体を縮める虎乎―――兎に角龍樹より小さく見せようとしているのだ―――は、素直な疑問を口に出した。
「別に。泳ぐの好きなんだよ」
実際、それこそ水を得た竜のように泳ぎ続ける龍樹は、確かに凄く楽しそうだった。泳ぎの魅力を知らない虎乎にとっては何とも言えないことだったが。
「んでこっそり入り込んで?」
「ああ。お前もこれで共犯な」
「おぅ」
人差し指を一本軽く唇に当てて悪戯っぽく笑う龍樹には、普段の近寄りがたい雰囲気は微塵もない。その仕種にめろめろになりながら、ぐっと拳を握って肯く。
「龍樹って部活やってねーの?」
「ああ、無所属」
「へー。てっきり空手部とかはいってんのかと思った」
「あ? あぁ…そっちはちょっと、な。今はやってない」
何気なく言った虎乎の一言で、一瞬龍樹の表情が無くなった。しまった、と内心舌打ちする。
初めて会った時より、大分緊張せずに話せるようになった。少なくとも、「親しい友人」のポジションは既に手に入れていると思う。それと同時に、解ってくることもある。
ある一定以上のプライベートな部分に入ろうとすると、龍樹はすとんとシャッターを下ろしてしまう。あくまで軽く、しかし絶対に踏み込ませないように。そうされると、もう虎乎は絶対入り込めない。好奇心は悶えるほど疼くが、彼を苦しめるのは本意ではない。
何とか話題を変えよう、と考えあぐねているうちに、龍樹の方から別の話題を振ってきた。
「そういや、今日身体測定だったな」
「ぐふっ」
思い切りウィークポイントを抉られたが。
(これは天罰か!? 龍樹のセクシーショットを思い切り拝みつつうっかりでしゃばって突っ込もうとした俺への天罰なのかー!!)
「何だよ断末魔みたいな声上げて」
断末魔である。
「あー…うー…あったな…うん」
「? 驚いたぜー高校生でも背って伸びてるもんなんだな」
「ん? …龍樹、伸びてた?」
膝頭に埋まっていた頭がぴょこんと飛び上がる。その吊り目を期待に輝かせながら。
「あぁ。2センチちょっとだけどな」
(セェエエエ――――フ!!!)
思わずガッツポーズを取ってしまった。神は俺を見捨てなかったッ!!←大袈裟。
龍樹が側にいなかったら飛び上がって喜びの舞いでも踊れそうなぐらい嬉しかった。




そのまま暫く取り止めのない話をして。
気がつくと太陽が西日に変わっていた。
「あ、龍樹寒くねぇ?」
「や、平気だ。俺もう一泳ぎしてくから、お前もう帰れよ。遅くなるぜ?」
「んー…わかった」
本当なら何時間でも待てるところなのだが、今日は日が沈むまでに帰らないと姉が飢えてしまう。(いつものように両親は外出中)
「んじゃ、な」
「ああ、また明日な」
それだけ交わすと、龍樹は何の躊躇いもなく水に飛び込んだ。
ザパン!!
ゆっくりと水底から浮上し、手と足で水を掻き出す。無駄のない動きに、つい目を惹かれて足を止めてしまう。
結局、プールを一往復するまでその光景を堪能してしまった虎乎だった。





次の日の昼休み。
虎乎はある決意を持って体操着入れを抱え、プールまでやってきた。昨日知った入口から中へ入る。
袋の中には学校指定の水着。
そう。
自主的に泳ぎに来たのである。
ここで明記しておくが、虎乎は筋金入りの金槌だ。
まだ幼少のみぎり、母親と姉と一緒に風呂に入っていた虎乎は何も考えずにはしゃいでいる所、足を滑らして湯船に落ちた。勿論頭から。運の悪い事に母親がその時頭を洗っていて、気付くのが遅れた。
盛大に水を飲み湯船の底に沈み。何も出来ない姉が泣きじゃくっているのにやっと気付いた母親が慌てて抱き上げた時にはもう、彼女の心に絶大な水への恐怖心が植え付けられた後であった。
それ以後暫く、水を顔にかけられるのも嫌、シャンプーハットから僅かに垂れ落ちてくる水滴ですら嫌、という筋金入りの水嫌いになってしまったのだ。
これでも昔よりは平気になった(一人で頭を洗えるようになった)が、それでも体全体が浸かる水の中に入ると言うのはやはり怖いらしく、青い水面を見詰める顔はいつになく青褪めていて怖い。
(やっぱ止めよっかな…いや! 泳ぎの一つも出来ないようじゃ龍樹の嫁になんてなれな…って別になりたいわけじゃなくていやなれればなりたいけどって何考えてんだ俺ッ!! と、兎に角いい加減この万年金鎚から脱却してぇ!!)
何やら色々葛藤があるらしいが、忙しく赤青に点滅する顔をどうにか抑え、着替えてくるかと踵を返しかけた瞬間。
彼女にとって不幸だったのは、昼前の授業が三年生のプール授業で、縁が非常に濡れていたということだろう。普段無敵を誇る運動神経も、緊張の為固まっていたのか普段の瞬発力を見せられず。
つるり。
「え」
早い話が、足を盛大に滑らした。
(嘘だろおおおおおおっ!!?)
間髪入れずに、ダイブトゥーブルー。


ざばべしゃぼ――ん!!!


鼻と口から一気にカルキ臭い水が浸入して来て、苦しさにもがいた。
水の音しか聞こえない冷たい無重力状態の中で、只でさえ水慣れしていない虎乎はパニックに陥った。
(ヤバッ…苦し……!!!)
助けを求めようにも、暴れるほど体が沈んでいく。足の先から体が冷えていくような感覚に、虎乎の心臓が竦んだ。
(助け…タカッ……ヒロ……)
意識が段々と遠くなって来て、
(龍樹――――――!!!)
心の中で最後の絶叫をした瞬間、
ざばっ!!
と外の音が耳に戻ってきた。
「瀬川!! 無事かっ!!」
求めていた相手の声がすぐ側で聞こえて、虎乎は矢も盾も堪らずそちらにしがみついた。
「げほっ! ぇっ、ゃだ…たすけっ!!」
「馬鹿、しっかり立て、目ェ開けろ!!」
「こわっ…ひ、沈むっ……!!」
「落ち着けって! ここ足付くぞ!!」
「……………………はぅ?」
思い切り咳き込み、水を吐き、がっちり相手の首に噛り付いたところで、龍樹の声に始めて目を開けた。
自然と体が真っ直ぐになり、とん、と水の中に足が付いた。
要するに。
単に落ちた後もがいて暴れていたから、底がどこなのか分からずパニクったというだけで。考えて見れば虎乎ほどの身長の持ち主が全身沈むプールなんて公立高校に無いだろう。
ぴちょん。
呆然とした二人の髪から零れ落ちた水滴がプールの水面を叩いた。





「や、だから、いきなり落ちてパニクったんだってば! すっげ苦しかったんだぜ! だからぁ……笑うなっつーのー!!」
サイドに上がり、シャツの端を絞って水を落している虎乎の横で、同じく服のままびしょぬれになった龍樹は、しゃがみ込んで肩を震わせている。
「…お前…他の運動なんでも出来んのに…金鎚…金鎚っ…くく…!」
「し、仕方ねぇだろ! だめなもんはだめなんだよっ! 何だよ悪いかよそれが!!」
「や、悪かった、笑っちゃ悪いよな…っ」
顔を真っ赤にして食って掛かる虎乎に、龍樹は頭を軽く振ると漸く立ち上がった。
「あー…それよかお前、それ絞っても無駄だぞ。ジャージあるか?」
「あ…教室になら」
「よし、ちょっと行って取ってくるから待ってろ」
「え、だってお前だってずぶ濡れじゃん!」
「俺更衣室にジャージあるから」
それだけ言って、自分が昼休み中泳いだ時使うつもりだったのだろうタオルをばさっと虎乎の濡れて光る頭に被せた。握り締められていた暖かさと僅かな他人の匂いに、虎乎の体温が急上昇する。
「ちょっ…これ、お前のっ!」
「そこで乾かしとけよ」
踵を返して脱衣所まで駆け出す龍樹を呆然と見送り。
服も何も全部乾くんじゃないかと思うぐらい、火照った顔をぺちぺちと叩いた。
「ばか、龍樹が帰って来るまでに元どおりになれよーっ」
そう思っていても、タオルの感触とか、更に先刻のプールでの役得(思い切り抱き着いたり)まで思い出し、その望みが叶うのは遠そうだった。





一方、素早くジャージに着替えた龍樹の方も、何故か顔を赤らめていた。
「…そーだよな、忘れてた…」
最初は、周りから女扱いされない彼女が不思議だった。自分が見る限り、女子だと理解していたから。
それでも、友達付き合いという奴をするようになって、そんなのを関係なく親しくなっていたので。
彼女が女だということを、うっかり失念していた。
濡れたシャツの下から僅かに下着が透けて見えていたのを思い出し、慌てて首を振った。
「…参ったな」
ちょっと顔を合わせる事が難しくなるかもしれない。
それでも取り敢えず約束を果たす為、今にも予鈴が鳴り出しそうな校舎に駆け込んだ。



fin.