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牛の苦悩

紀野島丑治は現在中学二年生。ちょっと服装規定やら髪型規定やらを破ってはいるが(勿論大抵の生徒はやっているぐらいの可愛いもの)、それ以外は至って真面目な男子中学生である。
それなのに何故、こんなめに逢わなくてはならないのか―――彼は真剣に考えていた。
子供の頃駄菓子屋でこっそり十円ガムを盗んだぐらいしか悪事には心当たりがない。それ以上の事など生まれながらの小心が邪魔してとても出来ない。
それなのに、何故。
(………やっぱり…アレ、かな)
実は彼には、こんな理不尽な罰にあう心当たりが一つだけある。真面目な彼にとってはそれこそこの秘密がばれたら自分は二度と日の当たる道を歩けないだろう、と思うほどの罪悪感。
あぁ、しかし。しかし奴は知らないはずだ、知っているはずがない。
神様仏様、本当に慈悲とやらがあるのなら助けて下さい。
ついでと言っては何ですが、俺の中のこの恐ろしい想いも消して下さい―――。



「チューウジく〜ん? 何黄昏てんのかなぁ??」
うべろん。
「っぎゃわ――――っっ!!!!!」
耳に不気味な蛭が張り付いた。
「ひっ…ひっ…裟神いいい!!」
「キッヒッヒッヒッヒッヒ」
振り向いた瞬間、そんなに太くない腕で首をがっちりとホールドされる。目の前に、黙っていれば見目麗しいのに、口元に浮かんだいやらしげな笑みがそれを台無しにしている―――彼の名は裟神猿耶。にぃーっと白い歯を剥き出しにして、丑治の背中にべったり張りついている。
「ば、ば、馬鹿やろお――――!! 今何したー!!」
「耳舐めた♪」
きぱっと笑って言いきった猿耶の言葉に、丑治の魂がふーっと抜けかける。それを堪えて指で耳をごしごし擦り、怒鳴りつけた。
「何考えてんだ馬鹿野郎―――!」
「え〜、だってチュウジの耳って美味しそうなんだよね〜。柔らかそうで」
口の割にかなり大きな舌で唇をべろりと舐める。その仕種がどうにも気色悪くて、尚且つ彼の言葉に鳥肌が立った。本気で、そのままの意味で聞こえるのだ。知らず知らずのうちに、恐怖から目元に滴が溜まる。それを素早く見つけ、猿耶は本当に嬉しそうに笑う。
「チュウジ…」
「何だよ…」
「かーわーいーいーぃい!!」
もう我慢できないと言った風に目尻にぶちゅっとキスすると、眼球まで舐めそうな勢いでそこに舌を当てまくる。
「っぎゃあああああああああああああっ!!」
一応今は休み時間なのだが、周りの生徒は皆目を逸らし耳をふさぐだけで何も出来ない。今彼らは、丑治が一人生け贄である事に感謝しながら、彼に心の中で詫びているのであった。
キーンコーンカーンコーン…
「っと、残念」
チャイムに気付き、漸く丑治を拘束していた腕を外す。全身さぶイボ状態の丑治は震えながら机に突っ伏した。
「んじゃ、また後でなー♪」
二度とこないで下さい。
そう心の中で呟くしか、丑治には反撃方法がないわけで。





裟神猿耶の周りの評価は所謂次のようなものである。
曰く、純然たるサディスト。
好きなものを苛める事にこよなく快感を覚える変態である。
中学に入学してから、彼に目を付けられて再起不能に陥らされた者は数知れず。ある女子生徒は転校を余儀なくされ、ある男子生徒は今でも病院通いらしい。
ターゲットしたら男女問わず、年齢問わずで補足し、捕まえ、苛め抜く。それが裟神猿耶と言う男だと、彼を小学校の頃から知る男は涙乍らに語った。
その話を人づてに聞いた丑治は、しかしまさかそんな災難が自分に降りかかってくるとは思っても見なかったのだ。
或日突然、奴は丑治のクラスまでやって来て、友人達と話していた彼を引っ張り出し。
「オレ、君のこと気に入っちゃったんだよねぇ。取り敢えず今日はマーキングってことで」
そう言いきって。
思いっきり。

っちううううううううぅぅ。

「!!!!!!!!!!!!!!」

…ディープキスをかましやがったのだ。自分より5、6センチは背の高い男に向かって。
そして。周りの視線が針の筵となり、丑治は現実から逃げた。
いや、正直な話、本気で気を失った。
それから、まっこと不本意ながら、「裟神のテクで気を失った」→「篭絡された」という恐ろしい噂が飛び交い、丑治と話した人間がその日のうちに猿耶によって血祭に上げられると、一同はこぞって丑治から離れていった。
あまりの唐突な人生の奈落に呆然とし、思わず目頭が熱くなった丑治は。
「やっぱ思った通りだ〜。かっわいいい〜!」
その涙を思い切り舐められて自殺したくなった。
「言っとくけど、逃げようとしても無駄だからね〜。どこへ逃げようと捕まえて、両手両足の腱切って俺の部屋に閉じ込めておくから♪」
「いぃやぁだぁああ―――――っっ!!」
(…俺が一体何をしたー!!)
そう自問自答しつつ、彼は今日も生きているのである。
普通の人間なら、とっくにノイローゼになってもおかしくない状況なのに、意外にも丑治の神経は太かった。事実、猿耶に関わって数ヶ月、未だ苛められ続けているのは彼だけらしい。却って不幸この上ないとも言えるのだが、彼にとって正直これはそれほど大変な事ではなかったのだ。
そう、彼が今抱えているもう一つの悩みに比べれば。




ふらふらと校門を出て、丑治は家には真っ直ぐ帰らずに、近くの保育園に向かって行った。
何の変哲も無い、幼児不足に悩んでいる保育園だ。まだ時間が早いので、結構な量の子供が庭で遊んでいる。
「すみませーん」
「あら、紀野島くん、こんにちは。ちょっと待っててね。…子乃ちゃん、お兄ちゃんが迎えに来たわよー?」
「おにぃちゃ〜ん!」
丑治と挨拶を交わした先生の呼び声に答え、砂場で遊んでいた小さな女の子が立ち上がる。サイドに結ばれたポニーテールをぴょんぴょんと動かしながら、女の子がぽてぽてと走ってくる。
「あ、子乃、走っちゃ駄目だよ!」
ぽてぽてぽてぽてぽてぽてぽどてっ。
慌てて丑治が静止するが、聞かず。一心不乱な幼児の走りは、バランスの悪い事この上ない。足元も見ずに走る為、あっさり転んだ。
「ぅぇ…びええええええんん!!」
「わぁ、子乃ー!!」
真っ青になって丑治が他の先生達の誰よりも早く妹に駆け寄る。素早く抱き上げて体中を摩る。
「大丈夫!? どこ痛くした!?」
「うえっ、えうう、わあああああああんんん!!」
「ここ? そうか、ここか。痛かった痛かった、もう大丈夫! ほら、痛いの痛いの〜飛んでけ〜!」
「えぐっ、ひっく、えっく…おにっ、ちゃあ〜ん…」
僅かに擦った膝小僧に手を当てて、真剣に「オマジナイ」をする丑治。功を奏したのか、魂切るような泣き声はだんだん小さくなり、涙を一杯溜めた少女は兄の首にしがみ付いた。
「よーしよーし。もう大丈夫、大丈夫〜。痛くない、痛くな〜い」
「いちゃくな〜い」
変な節を付けて歌われる慰めを一緒に歌い出し、漸く笑顔を見せてくれた妹に安堵の溜息を吐く。
「ごめんなさいね、紀野島くん」
先程の先生の一人が歩み寄ってくる。
「いいえ、転んだのは子乃ですから」
「本当、紀野島くんは妹さん思いなのねぇ」
「あ、ははは…」
感心したように他の先生から呟かれる言葉に、丑治は困ったような笑いしか浮かべる事が出来なかった。





「子乃、もうひとりで走っちゃ駄目だぞ?」
「うん」
そんなに小さくない妹を両手でしっかり抱えながら、夕焼け道を歩いていく。
「約束する?」
「うん! やくそく」
ぷにぷにとした紅葉の手から伸ばされた小指に自分の指を絡める時、丑治は目を細め、この上なく幸せそうだった。
「ゆーびきーぃげーんまーん、うーそつーいたらはーぃせんぼん、のーます!」
「ゆーびきった!」
切った、と歌い終わっても小指を絡めたまま、仲の良すぎる兄妹は歩いて行く。
「えへへぇ。おにぃちゃん、だいすきー」
にぱぁ、と笑ってぎゅっと自分の首にしがみつかれた時、ぎしっと丑治の身体は緊張した。汗をかく手の平を悟られないように、その手をそうっと妹の背中に回す。
「そっかぁ…」
「うん! …おにぃちゃんは?」
「えっ!?」
「おにぃちゃん…ねののこと、きらい?」
じわり、と妹の目尻に涙が浮かんだのを見て、丑治は慌てた。
「そんなことないっ! 子乃がこの世で一番好きだよ、大好きだよ」
だから。
「本音」を、言ってしまった。
「ほんとぉ?」
「本当!」
「よかったぁ!」
またぎゅうーっと手加減無しにしがみついてくる妹に湧いてくる感情は―――
どうしようもない愛しさと、罪悪感。
子供特有の僅かに甘い体臭が鼻孔をくすぐると、どうしようもない気持ちになる。
これが、彼が心を悩ませている一番の問題。
そう、実の妹、こんな小さな妹に、決して抱いてはいけない感情を抱いてしまっていること―――
勘違いだと思った。何度も自分を詰った。それでも、この気持ちは決して消えることは無く、それどころか日に日に大きくなる。
それを必死に抑えて、「優しい兄」の仮面を被る。この場所を、失いたくないから。
「おにぃちゃんすきー…」
「うん、俺もだよ…」
時たま、この乱暴な衝動が堰を切って溢れ出ることもあるけれど。自分の腕の中で無防備になってくれる天使を手放すことの方が恐い。
いつまで保つかは解らないけれど。
妹の自分よりも早い鼓動が自分の心臓と重なっていることに心の中で喜びながら帰路についた丑治は、当然自分の後をつけていた影にも全く気付いていなかった。
その影は完全に気配を消し、紀野島兄妹が家に帰るまでしっかり見送り、電柱の影から「キヒヒヒヒヒ…」という危険な笑みを零していた。






「チューウジくーん。あっそびっましょっ♪」
「断る!」
次の日、ニマニマと笑いながら耳に息を吹きかけてきた猿耶にずざざざっと後退り防御体制を取る。
「ふうううん。そんなこと言うんだぁ」
「い、言ったら悪いのか?」
負けるものかと視線を逸らさない。いつまでも流されてたまるか、まずは奴のペースに乗っては駄目だ、と震えそうな足を叱咤している。
それを見てどう思ったのか、猿耶は不気味な笑みを深くして。
「……チュウジの妹って可愛いねぇ?」
「!!!!!」
そう呟かれた一言に、ざーっと丑治の血の気が引く。
がっ!
「お?」
考えるより先に猿耶の手を掴み、全力で走った。猿耶にしては珍しくされるがままに連れ去られていった。
その光景を見遣った丑治のクラスメート達は、ついに紀野島の方から!? とか憎しみが愛に変わったのか!? と様々な憶測が飛び交っていた。余計なお世話という奴である。





「ご苦労さーん」
「ぜぇっ、はぁっ、ぜぇっ…」
全力疾走で、屋上に続く人気の無い階段の踊り場まで走ってきた。
「んもう、強引だなぁチュウジくん♪」
きゃ★ と乙女ぶって両手を口元に当ててからかう猿耶と対称的に、丑治は本気の瞳で猿耶を睨んでいる。それを見て、猿耶も一度笑うのを止めた。
「何で…」
「うん?」
「何で子乃のこと知ってるんだ!?」
「ネノちゃんって言うんだー。名前も可愛いね、カオカタチは昨日見たよん♪」
まただらしのない笑みに戻った猿耶の顔を見て、丑治にしては本当に珍しく彼の頭にかっと血が昇った。
ダンッ!!
「ぐッ…かはっ、」
「子乃に手を出すな! あの子は関係ないだろっ!!」
「…っ、おちつけって、バカ…まだ、何にも言ってないダロ…」
襟首を掴まれて、薄汚れた壁に叩き付けられた。苦しい息の下から呟くように言うと、憑物が落ちたかのようにふっと丑治の眉間の皺が消えた。
「あ…」
ずるっ、と手が外され、猿耶は息を吐く。
「ゲホ…まったく、可愛いなぁチュウジは。大丈夫だよ、オレが興味あるのはお前だけだからサ♪」
「ご、ごめん…」
気の弱いいつもの顔に戻ってしまった丑治は、猿耶と反対側の壁に背を預けて、ずるずると座り込んだ。
「…そんなに大切なんだ。ネノちゃんが」
「………あぁ、そうだよ。この世で一番大切だ…」
一度言ったら、もう止められなかった。
誰かに、聞いて欲しかったのだ。この重くてどろどろした嫌な感情を、話せば少しは軽くなるかもと思って。
「見てたなら、わかるだろ…おかしいだろ…? 実の妹なのに…あんなに小さい子なのに…馬鹿だろ? 気持ち悪いだろ…最低、だよなぁ…ッ」
膝を抱えて、泣きそうな声で言う。否、実際涙が出そうだった。自分がなんて浅ましい獣なのだろうと再確認して、情けなくて、恐ろしかった。
と。ちゅ、と目尻を軽く吸われた。
吃驚して顔を上げると、すぐ側に猿耶の顔があった。
「チュウジ…可愛い♪」
至近距離でニヤリと笑って。
「そーだよなぁ、ロリコンの上にシスコンって救いようないよね〜!」
「うあああああああああっっ!!」
傷口を拭うのかと思いきや、おもいっきり開いて塩まですり込んでくれた。床に突っ伏して滂沱の涙を流す丑治の頭を、笑いながらぽすぽすと叩く。
「チュウジ、これからオレんちおいで」
「は?」
いきなり話が飛んで、起き上がって目を白黒させる。
「ま、いーからいーから。カムヒヤー」
「え、おい、ちょっと待てって…!!」
止める間もあればこそ。
先程とは逆に、問答無用で丑治は引き摺られていった。



「おい、ちょっと待てってば! どこまで行くんだよ!」
「うるさいなー、言っただろオレんちだって」
「…ここにあるのか!?」
毒々しいネオンや怪しげな客引きが蔓延る繁華街を制服のまま、堂々と闊歩する猿耶。それに引っ張られていく丑治ははっきり言って周りを見ることも出来ない。昼間だからまだましな方かもしれないが、それでも周りにはゲイバーやキャバクラの呼び込みがうろうろしている。
「お帰り猿耶、サボリかぁ?」
「学中のころからそんなだと、俺らみてーな大人になっちまうぞー」
煙草を吹かしながら所在無げに佇む黒スーツの面々が、猿耶に気軽に声をかける。「まーねー♪」と返事を返すと何事も無かったように猿耶は歩き出す。
「し、知り合いか?」
「この辺は殆ど。ガキの頃からのダチ多いし」
くらくらしてきた頭を抑えながらも、猿耶の腕を放すことが出来ない。真面目一辺倒に生きてきた丑治にとって、ここは刺激がありすぎた。
やがて、黒い物々しいオブジェがごちゃごちゃとついた看板が掲げられている店の前で、漸く猿耶は立ち止まった。読みにくいその看板を何とか読み取って、丑治は顔を赤くしながら青褪めるという器用なことをやってみせた。
SMクラブ・POIZONMONKEY。
「…………ここ、お前の家?」
「うん♪」
泣きそうな声で訪ねると、その反応は分かり切っていたのか、にんまりと猿耶が笑う。慌てて手を離そうとしたががっちり握られていた。
「だいじょぶだって、いきなり取って食いやしないし。……今はネ♪」
「いィやぁだあああああ――――――ッ!!!」
ずるずるずると断末魔を残して丑治はその店の従業員出口に引き摺り込まれた。合掌。





店の中は意外に明るかった。ぱっと見奥に台所があったり、普通の飲み屋等の勝手口にしか見えない。
「ただいまー」
しかし猿耶が声をかけると、近くの部屋のドアが開いて美人のお姉様方が顔を出し、丑治は慌てた。
彼女らが殆どレザー系のきわどい服装で決めていて、中には下着姿同然の人もいたからだ。
「猿耶ちゃん、お帰りなさい」
「お帰りなさーい」
どうやらここは、「女王様」達の控え室だったらしい。
「早かったわねぇ。サボリ?」
「まーねん。母さんは?」
「まだ戻ってないわよー」
「そっか。あ、そうだこの前オレのシャツに口紅つけたのリサさん?」
「え〜、ワタシじゃないわよぉ。ヒトミじゃないの?」
「違うわよ」
「んー、誰でもいいんだけどさ、取るの大変だったんだからもう止めてよね」
『はぁーい』
目の前であまりにも普通に交わされる会話に、ますます丑治の顔が赤くなる。
「あらぁ?」
と、リサと呼ばれた女性が今気付いた、というように丑治に目を向けると、他の女性達も何々? という風にそちらを見遣り、お姉様方の視線の集中砲火に晒されてしまった。
「やだー、猿耶ちゃんのお友達ぃ?」
「中学生よねぇ、可愛い〜!」
「名前なんていうの?」
「え、う、や、ああああのっ!」
『やぁ〜ん、可愛い〜〜!!!』
顔を真っ赤にして後退りどもる丑治は、確かに嗜虐心をそそる逸材である。ハモったお姉様方はますます調子に乗って、そのグラマラスなボディを丑治に擦り付けてくる。
と、その色気の渦からぐいっと腕を引っ張られて助けられた。と思いきや、あまり嬉しくない男の固い胸板に引き寄せられた。取り敢えずは安堵してしまったのだけれど。
「だーめ、コイツ俺のだから。気安くさわんないでよね♪」
勿論それを助けたのは猿耶。にやにやと口元は笑ってはいるが、きらりと光る目は、本気で牽制をしている。恐い。幸い丑治は抱き込まれていた為見ることは無かったが。
「えぇ〜」
「いーなぁ、アタシも男の子欲しい〜」
「今度遊ばせてね?」
「ダメーッ」
口々に不平不満を言いながらも、大輪の薔薇達はぞろぞろと控え室に帰っていった。
「だいじょぶ?」
いつにない、少しだけ優しい声音にびっくりして上を見上げると……ニタ〜ッと笑った笑顔があって身体が引き攣った。
「大丈夫大丈夫だからはぁなぁせえぇ―――っ!!」
絶叫は聞き届けられることもなく、二階に連れ込まれた。学習能力が足りません。





「お茶出してくるから待ってろよー」
「いえ本当にお構いなく……」
半泣きになりながら座らされている部屋は、しかし一見普通の男子中学生のもののようだった。正直鬼が出るか蛇が出るか戦々恐々としていた丑治は部屋主がドアの向こうに消えると、ほっと息を吐いた。
無理矢理拉致られてしまったが、これは正直チャンスかもしれない。度肝を抜かれることは山ほどあったが、ここはこっそり家捜しして相手の弱みを握るべきでは? 卑怯だと言われるかもしれないが、既に自分の最大の弱みはがっちり相手に握られているのだし。
「…よし」
自分の心の平穏を護る為、丑治はすっくと立ちあがった。
まず、机の上。何の変哲も無い、教科書と筆記用具がいくつか置いてある普通の学習机だ。誰も自分の秘密を堂々と置いておく奴もいないだろう。問題は引き出しだ。この奥に何か―――
がちん。
何気なく引っ張ろうとした引き出しの取っ手は、しかしぴくとも動かなかった。それもそのはず、一つずつが巨大な錠前付きの鎖でしっかり封印されていた。
(…何でここまで厳重にしてるんだ―――!!)
この時点でかなり退いていたが、勇気を奮い起こして、次。
ベッドの下。男子中学生にとってここは最早不可欠と言える隠し場所だろう。そうっと手を入れてごそごそやると、かつんと何かプラスチックのようなものに手がぶつかった。箱らしいそれを?と思って引きずり出してみる。
……………前に一度、背中に大量のナメクジを入れられたことがあった。毛虫もあった。一体どこからそんな大量に採って来たんだろうと不思議だったのだが、漸く謎が解けた。
養殖してあったのだ。しかも大量に。
無言でプラスチックの虫籠をそっとベッドの下に戻す。
(……駄目だ。嫌だ。これ以上ここに居たら俺が死ぬ!!)
半泣きになりながらも、せめて何かないかと未練がましく立ち上がり辺りを見回す。
と、廊下とは別の部屋に通じるらしいドアがあるのに気付いた。ここまで来ると肝試しと言うか怖いもの見たさと言うか、兎に角ある種の義務感にかられて丑治はそのドアノブを握った。
予想に反して、鍵はかかっていなかった。
がちゃり。
ばたむ。
音速で扉を閉め、丑治はドアに身体を預けてずるずると座り込んだ。
薄暗かったし、ちらりとしか見えなかったが。
やけに棘の多い服とか、所せましと壁にかけられた鞭とか、もしかして部屋の隅に鎮座ましましていたのはかの有名な三角木馬ではなかっただろうか。
ばたん。
「お待たせー♪」
「お願いしますお茶いりません何もいりませんから今すぐお家に帰して下さい」
ドアに額を打ちつけしゃがみ込んだまま呟く丑治。最早目が常軌を逸し、髪がやや白くなっている。
「そんな遠慮しないで♪」
「遠慮とちゃうわ――――!!!」
いかんと思いつつ、号泣しながら叫ぶ。抱えていたお盆を床に置き、ニタニタと猿耶は笑っている。
「色々探したみたいだね〜♪ んもー可愛いなぁ!」
(もう嫌だ…)
最早声も出せずぐたりとその場に座る丑治。気分は俎板の上の鯉、磔にされた生け贄。
「びっくりしたっしょ? ここに来て」
えぇそりゃあもう。やっぱり声は出せない。
「…この通り、オレ真性サドだから。環境とかに責任転嫁するつもりもない、気がついたらこうだったから。…ただ、オレはそれを気持ち悪いとか嫌だとか思ったことは一度も無いよ」
「…………?」
いきなり真面目に語り出した相手を見て、丑治の虚ろな目に少しだけ光が戻る。
「これがオレの人の愛し方だし。誰に咎められたり、蔑まれたりする謂れも無い。同意が無い限りは道具とか使わないし監禁もしないし」
「待てやおい」
俺は何だ。という意味を込めて薮睨んでやったら、またニタリと笑われた。
「だぁって、チュウジの泣き顔可愛いんだもん♪ 逆さ吊りにしないだけマシだと思ってよー」
「勘弁して下さい」
土下座する。これでか。この仕打ちでまだましな方なのか。
「まぁ、環境のおかげで偏見は持たなかった事は認めるけど。だからね」
ようやっと上げた丑治の頭をぽふぽふと叩き。
「おかしいとか馬鹿とか気持ち悪いとか最低だとかは、思ってナイ」
「……………!!」
許されるわけがないと思っていた。
救われるわけがないと思っていた。
認められるわけがないと、思っていた。
「別にイイじゃん。その感情は、ニセモノなんかじゃないよ」
「…………っ」
涙が、出た。
自分のこのどろどろした感情を、認められたのは始めてだったから。
昇華されたような気がした。行き場の無いこの思いが。
「よしよし。可愛いなぁもう」
抱き締められて頭を撫でられて、目尻に何度もキスされて。
「お、お前。これ言う為だけに、家に連れてきたのか…?」
「さぁてねん」
不覚にも。
不覚にも、凄く凄く嬉しかった。
眼を閉じてボロ泣きしている丑治は、彼を慰めるように抱き締めている猿耶の「してやったり」という笑顔を、勿論見る事は出来なかった。
真のサディストとは、飴と鞭の使い分けを心得ているのである。





「まぁオレよりしんどいのは確かだろうな〜。本懐遂げるわけにいかないし」
猿耶は泊まっていけと言ったが勿論丑治は丁重にお断りし、日が沈みかけている帰り道を二人で歩く。流石に夜の繁華街を制服で1人で歩く勇気は丑治には無くて。…猿耶に送られる事とどちらが危険か、は微妙だが、それに気付いていない辺りやはり少しはほだされているらしい。
「…さらっと恐ろしいこと言うな」
「何で。シたくないの?」
「ばっ」
「キヒヒヒッヒヒ。まぁ、今から惚れさせる努力でもしてみれば? 光源氏計画」
「だから、そういう問題じゃないだろが」
「子供作んなきゃ大丈夫だって!」
「んなわけあるかー!!」
「ま、ばれるか遂げるかどっちにしろ、人生ドロップアウトする覚悟ぐらいつけとけよ」
「うぅ…」
痛んできた胃を抑えて涙を堪える丑治を、にまにまと笑ったまま見て。
「それと、同意が無い限り無理強いすんなよ」
「当たり前だー!」
「あ、じゃあ同意があったらやる気なんだ♪」
「うぐっ!!」
お父さんお母さんごめんなさい、とまた落ち込みモードに入る丑治の耳にキヒヒヒヒヒとまた不気味な笑い声が届く。
「まぁオレも、一歩間違えれば犯罪者まっしぐらだし〜」
「もうそうだろ」
「万が一の時はサ」
素早い丑治のツッコミを無視し足を止めて、隣を向き。
「一緒に逮捕されよっか」
浮かべられる笑みは、共犯者のモノで。
ほんの少し、ほんの少しだけ、丑治の心の中の濁った澱が軽くなった。…本当に不覚にも。
「…冗談。俺は品行方正に生きるんだっ」
「そしたら一緒に脱獄計画練ろうよ〜」
「もう出る気まんまんかい!」
漫才のような言い合いをしながら、道を歩いていく。
いつになく、楽になった自分を丑治は感じていた。
自分が一人じゃないと解っただけで、こんなに楽になるとは思ってなかった。





あれから、もう二年近くになる。
(…よくもまぁ二年ももったもんだ)
溜息を吐きつつ、丑治は歩く。
自分の中の凶悪な衝動はまだ消えていない。今年やっと小学生になった妹に、どんな視線を向けているのかと思うとやっぱり落ち込む。
それでも。
「里っ馬ちゃあああああん! あっそびっましょ♪」
「いやああああんんっ!!」
「おいこらテメッ、いい加減にしろお!!」
目の前で今日も元気に本能の赴くままに生きている悪友(不覚にも)を見ていると、悩むのが馬鹿馬鹿しくなってくる自分がちょっと嫌だ。
「ちぇー、逃げられた。チュージィ、暇になったから遊んでー」
「断る」
「逃げんなコラァッ!!」
只今猿耶が夢中なターゲットの妹が、拳を振り上げてこちらに走ってくる。
「おっと、やべ。逃げるぞチュウジ!」
「ってなんで俺もぉっ!?」
「あ、冷たーい。オレ達一蓮托生だろぉ?」
「勘弁して下さい」
「あ、ほら来た。ダッシュダッシュ!」
「わわわわっ!! ひっぱんな!」
憤怒の形相でこちらに迫ってくる虎を振り切らんがため、全力疾走を始める猿と牛。
(…やっぱり人生間違えたよなぁ……)
ほろりとしながらしみじみ考える丑治。
嗚呼、彼の前途に幸あれ。無理か。



fin.