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猿の求愛、馬の試練

風にやや湿りけと熱が混じり、日差しが力を持ってくる。
季節が春から夏に移りつつある、土生東高校は今日も姦しい。
「あーぁ、来週から実技試験かよ〜」
その音源の一つとなっているのは、金髪長身一見男にしか見えない三白眼の女子高生―――瀬川虎乎。
「授業じゃないだけいいと思わない? おれは好きだけどなぁ」
更に頭一つ高い長身に、人懐っこい笑みを浮かべる青年―――鴻鷹也。
「縦笛か歌謡か…どちらを選ぶか、それが問題だ」
氷のように冴え冴えとした美貌、黙っていれば白皙の美少年―――神宮寺尋巳。
丁度教室移動から帰って来た三人は、いつものように話に花を咲かせながら廊下を歩いている。
が、今回の主役は自分に自信が持てない虎の子でも、叶わぬ片恋を続ける鷹の雛でも、つい最近愛する家族が増えた蛇の卵でもない。
今回の主役は――――――
「いやああああんっ! とらちゃあああん、助けてえええ!!」
金切り声、と言うにはどこか間延びしているが、彼女なりに切羽詰まった悲鳴なのである。そう、彼女。
ぱたぱたぱたっ。
という足音を立てて虎乎の方に駆けてきた少女。
顔立ちが整っていると言えば、尋巳に一歩劣ってしまうが、尋巳をして氷のような美貌と言うのなら、こちらはまるで日向のように暖かな可愛さがある。
残念ながら今その顔は、恐怖と涙で歪んでいるが。
「里馬っ、どうした!」
咄嗟に逃げてきた少女を背中に庇う虎乎。
そう、今回の主役は、とても見えないが虎乎の実の姉、瀬川里馬その人である。





「ひっく、ひっく…」
妹の大きな背中に庇われた姉は、安心したのか泣き出してしまった。
「里馬ちゃん、どうしたの? 誰かにいじめられたのっ?」
「泣いていては解らないぞ里馬殿」
鷹也と尋巳も、何事かと問うが、里馬は首を振るだけで何も喋れない。
「キキキ、ごめんごめんってばー。そぉんなに、逃げること無いじゃない♪」
けったいな笑い声が、近づいてきた。楽しくて仕方ないと全面に押し出している詫びに、里馬がびくりと身体を震わせる。
「何だテメェ! 里馬に何の用だ!」
姉の騎士モードに入った虎乎が、ぎりぎりとその相手を睨む。普通のチンピラなら裸足で逃げ出すほどの迫力なそれに、相手は臆した様子も無い。
「怒らない怒らない。ちょぉっと、里馬ちゃんとお話したかっただけサ♪」
にまぁ、という擬音が似合う仕種で唇を吊り上げた青年。
背丈は尋巳とあまり変わらず、体格もどちらかと言うと細身だ。それなのに、虎乎から見下ろされても余裕の表情を崩さない。綺麗に染めてある内巻きになった茶髪は、どちらかというと可愛い印象を周りに与えているのにも関わらず、どことなく不敵なオーラを醸し出している。
「…さ、さがみくん…」
「知り合いか、里馬?」
「里馬ちゃぁん?」
首を傾げ、にまぁと笑った青年に、里馬はびくりと肩を震わせ、
「…え、えんや…くん…」
じわっと涙を浮かべ、ぽそぽそと彼の名前を呼んだ。
「そうそうそうっ!」
エンヤ、と呼ばれた青年は本当に嬉しそうに身体をぶるんと震わせた。
「里馬ちゃんの妹…だよね? 見えないけど♪」
「ほっとけ!」
「オレ、裟神 猿耶。E組だよん。この学校入って、彼女にヒトメボレしちゃってねー。今、猛烈なるアタックかけてんの♪」
牙を剥いて怒る虎乎に比べ、青年は未だマイペースを崩さない。そして気楽な彼の声音に、3人だけでなく周りのギャラリーもどよめいた。
里馬がこの高校に入学して以来、沢山の男達が彼女とお近付きになりたいと願い、全て当時中学生である虎乎に潰されてきた。それ以来、彼女の周りには必要以上に彼女に近づかないという「不可侵条約」が出来てしまった。この新入生は、必然的にそれを破る宣言をしてしまったのだ。
「んっだとお? 里馬が嫌がってんじゃねーか! 今すぐ止めろッ!」
当然、虎乎の怒りの左が彼を襲ったが、ひらりと避けられた。
「おっと、恐い恐い♪ ま、気持ちは分かるけどー、あんまり甘やかさない方がいいんじゃない?」
「あぁ!?」
「里馬ちゃんも。いつまでも妹におんぶに抱っこじゃ、いけないと思ってるでショ?」
再び繰り出された腕を掻い潜り、囲みを突破し顔を里馬にくっつくほど寄せた。びくっとなった里馬だが、動けない。
「あっ、てめ…」
「オレだったら、里馬ちゃんのコト一生大事にするヨ? だってオレ、里馬ちゃんのこと愛しちゃってるから♪」
「……ほ、ほんとうに?」
「うんうん」
「だ、だって、えんやくん、いっぱいいじわるする…」
「だからぁ、これは俺の愛情表現!」
目に涙を一杯溜めて震えている里馬をじいっと見つめ。
「んもー、可愛いなぁ♪」
もう我慢できないッ、という風に、ちゅっ、と軽く里馬の桜貝のような唇にキスする。
「なっ…」
周りが絶句して動きを止めた瞬間。
べろん♪ と大きな舌で唇全体を舐めた。
「いやああああああんんっ!!」
限界が来たらしく、絶叫した後里馬はふー…っと意識を失った。
「わー!!」
慌てて鷹也がそれを受け止める。
「んっのっ……殺す―――ッ!!」
怒髪天を突いた虎乎が攻撃に移るより早く、すたこらさっと猿耶は逃げ出した。
「それじゃまた後でねー♪」
「二度とくんなバカヤロ―――!!!」
里馬を置いていくわけには行かず、歯噛みして逃げる背中に怒鳴りつける。
手をひらひらとさせ、キヒヒヒヒヒと言う不気味な笑い声を残して、狼藉者は走り去っていった。





「えんやくんはね…ついこの前、会ったばかりなの」
保健室に担ぎ込まれ、ようやく意識を取り戻した里馬は、妹とその親友二人と、自分の親友である鷹也の姉、燕が見守る中、先程の狼藉者について話し出した。
「あんな奴にくんなんてつける必要ねーよ」
まだ怒りが収まらない虎乎は、ぶすっと一言言う。
「抑えろ虎乎。お前が腹を立ててどうする」
「これが落ち着いていられるか!!」
ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえる程に噛み締められた歯の間から怨嗟が漏れる。虎乎にとって里馬は唯一無二の姉であり、自分が護る姫君なのだ。自分が側にいながらむざむざとあれだけのことをされて、怒りがそう簡単に静まるわけがない。
「トラちゃん、取り敢えずは里馬ちゃんの話聞こ、ね?」
「里馬、だいじょぶ? 無理しなくていいのよ」
「うん、平気…あのね」
ほんの数日前。彼は唐突に三年の里馬の教室までやって来て、こうのたまったのだ。
『瀬川里馬…ちゃんだっけ? 君…』
『はい…??』
見知らぬ男子にいきなり話し掛けられてびくっとなった里馬に、彼はあのいやらしげな笑みを浮かべて。
『…泣き顔すんっごい可愛いねええ♪』
その言葉と共に、いきなり目の前に、手掴みで毛虫を大量に突きつけられたらしい。勿論里馬は絶叫して泣き出した。それ
を見て、猿耶はうっとりとした目を向けると、
『ああもうっ、可愛い可愛い可愛い!!!』
と顔じゅうにキスをしてその涙を舐め取った。男に免疫のない里馬にとっては殆ど乱暴されたのに匹敵するほどのショックで、やはり気を失ったらしい。
それ以来、暇さえあれば彼は里馬のところに赴き、ある時は苦手なものをつきつけ、ある時はいきなり驚かし、ある時はセクハラまがいのことをして里馬を泣かせて喜び悶えているらしい。





「…そいつ、ヘンタイか?」
怒りとともに不気味さに背筋が寒くなりながら、虎乎は姉に問い掛けた。
「わかんない…」
「その男、嗜虐趣味と言うことか」
「しぎゃきゅ? あれっ」
「鷹、あんたまた噛んでる」
「里馬、何で俺に何も言わなかったんだよッ! 俺に一言言ってくれればあんな奴ッ」
「ごめんね、とらちゃん。…でもね、えんやくんの言ってることは本当だと、思うの。わたし、とらちゃんに甘えすぎてるでしょ? だから…」
「んなの! 気にすることねぇって! 俺が好きでやってんだから…」
「ごめんね、とらちゃん…」
また言葉を重ねようとして、虎乎は膝に乗せられた姉の手が細かく震えているのに気付いた。
「トラちゃん。悪いけど、今回のことは里馬に一人で頑張らせてくれない? 気持ちは嬉しいからさ」
何となく気まずくなってしまった姉妹に助け船を出したのは燕だった。
「燕サン…でもっ」
尚も言い募ろうとする虎乎の腕を、尋巳が抑えた。
「本当にどうしようもなくなったら、助けてもらうから。ねっ、里馬?」
ベッドの上で俯いたままの里馬の肩に手をかけて促すと、こくんと肯いた。
虎乎は何も言えなくなった。





昼休みは後少し。いつも通りに屋上に陣取って食事を始めた三人だったが、虎乎は胡座をかいた膝の上に乗せた弁当箱を気だるげにつつくだけで箸を進めない。
「トラちゃ〜ん。元気だしなよぉ」
「拗ねるな、子供め」
「別に拗ねてねぇよっ」
拗ねている、思いっきり。
正直、寂しいのだ。いつもいつでも自分の後ろに居た姉が、急に先に行ってしまったような気がして。
「……俺は、里馬のこと迷惑だって思ったことねぇのに」
「そうだろうな。だが、向こうも同じく思っているのかと言えばそれは筋違いであろう」
ぼそっと呟いた虎乎の声を尋巳が拾い上げる。
「もっと里馬ちゃんのこと、信頼してあげようよ。本当に大変になったら、きっと呼んでくれるよ」
「…そーか、な」
「無論だ」
にっこり笑って言う鷹也と、断定する尋巳の声に少しだけ安心して、卵焼きを口に運んだ。





「つばめちゃん、ごめんね」
「何が?」
こちらは、教室で昼食を摂っている里馬と燕。
「本当は、わたしが言わなきゃいけなかったのに」
「気にしなさんな。…里馬も、急にお姉さんになろうとして慌てること無いわよ? 本当の里馬は今いる里馬なんだから。焦らなくていいの、ゆっくり変えて行きなさいな」
「…うん」
こくん、とまた肯く。
自分を変えよう、としたきっかけは、虎乎に好きな人が出来てからだった。顔を赤らめて「恋」をする妹を可愛く思い、嬉しく思い、そして少しだけ羨ましかった。
まだ、男性が恐い。すぐに虎乎に甘えてしまう。でも、このままではいけない。だから少しずつでも、自分を変えていこうと思ったのだ。結局今日我慢できなくて助けを求めてしまったが。
「つばめちゃん、わたし、がんばるから」
「うん」
真っ直ぐ前を向いて宣言する親友に、嬉しくなって燕は微笑んで首肯した。



「キッヒッヒッヒッヒ、うんうん。あーもう幸せ。かーわいいなぁ里馬ちゃん♪」
午後の授業が始まっているはずなのに、空き教室に陣取って不気味な笑い声をあげている男が一人。なまじそれなりに顔形が整っているので不気味さが上がっている。
「エンヤ、お前なぁ…またそれか? 頼むから、犯罪だけは犯すなよ。そして俺を巻き込むなよ」
窓のさんに身体を預けて鼻歌混じりに機嫌のいい猿耶を、呆れたように隣に立って見下ろしているもう一人の人影。
彼は、この学校、否この世界でもたった一人かもしれない、猿耶の「友人」というポジションに立つ男―――本人非常に不本意なのだが―――紀野島丑治と言う。
「ん〜冷たいなぁチュウジくん♪ 共に地獄へ堕ちようと誓った仲じゃあないかぁ」
「してない。本当にしてない。いやいやマジで」
「へーぇ。オレに対してそんな口聞くんだぁ」
にまぁ、と笑った猿耶はポケットから携帯を取り出し、短縮に入れてある丑治の家の番号を―――
がしっ!!
押す前に止められた。
「お前今何する気だった誰に電話する気だったええ!? オイ!」
「いや〜、この時間ならもう子乃ちゃん帰ってるかなーって」
「ごめんなさい俺が悪かったです頼むからやめれ」
「ちっ」
「何故舌打ちか」
子乃、と言うのは丑治の実の妹である。今年小学校に入学したばかりなので、確かにもう帰宅しているだろう。彼女は色々な意味で、丑治の弱点なのである。そう、色々な意味で。
「……あのな、エンヤ」
「何ぞ」
「どーして、お前ってサドなわけ? 見た目とかの可愛さは嫌なのかよ」
「んー?」
「あ、ほら見ろよ、瀬川先輩だぜ」
グラウンドを指差してやる。体育の授業らしい里馬と燕が、歩きながら何か話している。
「あー、可愛いねー」
「だろ?」
にまっと笑って猿耶が見下ろす。丑治は正直この純正100%サディストの友人がスタンダードな好みも持ち合わせていることに安堵した。
猿耶と丑治は、中学の頃からのつきあいである。その頃からまごう事無きサディストだった猿耶に、丑治は事ある毎に脅かされ心身ともに痛めつけられた。つまり、気に入られていたのである。迷惑な話だ。そして彼に自分の秘密―――弱みとも言う―――を握られてしまった丑治は、いまだに彼と友人関係と言うものを続けている。猿耶自身は「共犯者」のつもりらしいが、丑治にとっては「魔がさした」としか言えない一生の不覚であった。
このままあの優しい先輩が奴の毒牙にかかっていくのを見るのは何とも忍びないが、それを止めればそのとばっちりは当然自分に向けられるわけで。正義感と我が身可愛さの板挟みになりつつ、どうにか悪友の性癖を矯正出来ないかと一人思案にくれているのだ。
「あっ、コケたっ!」
猿耶が叫ぶ。はっと気付いて外を見ると、小さな身体が地面とお友達になっていた。グラウンドのど真ん中でどうやって、というぐらい見事な転びっぷりだ。隣の長身の女生徒が手を引っ張って立ち上がらせるが、真っ赤になったその顔にじわりと涙が浮かぶ。
「……あああ〜もうか〜わいいいい〜!!」
「声が違う…」
その滴を視力2.0の両目で捉えた瞬間、背筋に走る快感にのたうって悶える隣の男を青ざめて見遣り、丑治は溜息を吐いた。
駄目だ。こいつはどう足掻いてもサディストだ。間違い無い。
「駄目なのか」
「駄目だね。笑顔も可愛いよ、怒った顔も驚いた顔も。でも」
其処で言葉を切って、友人の方を向く。
「泣き顔が一番可愛い。今すぐ飛んでいって抱きしめて、涙全部舐め取って、家に連れて帰って部屋に閉じ込めて逆さ吊りにして頭っから食い殺したいぐらい可愛い!」
「オイオイオイ!!」
「安心しろって、同意が無い限りやんないよ」
同意があったらやるのか!!
そう絶叫したかったが堪えた。やる、と即答されること間違いなかったので。
「泣いてる時って、悲しみしかないでしょ? 他の感情は何か別のが必ず混ざってるけど、涙には悲しみしか篭ってない。尚且つ、それを流させたのが自分だったらサイコー。その人の一番純粋な部分を、凝縮して貰ったんだから」
ぺろり、と大きな舌で唇を舐める。
「はぁ…俺にはわからん」
「うん、オレにもわかんないよ。仕方ないじゃん? 誰のせいでもなくて、オレはこうなんだから」
いっそきっぱりと言い切った猿耶の目には、後ろめたさなど微塵も無い。
こう言う所を見ているから、丑治は彼と友人を続けているのだ。確かに迷惑なことこの上ないが、彼は自分を恥じたり責めたりすることは絶対にしない。そんな所が、酷く…羨ましかったから。
「あぁんもう可愛いなコンチキショウ! ごめんやっぱ行くわオレ、あんな可愛い子野放しにしておけるかっつーの!!」
「わー!! 待て待て待てお前の方がよっぽど野放しに出来るかー!!」
前言撤回。勘弁してくれ、と丑治は口の中で呟いた。ほっておいたら本当に先程の犯罪行為をやりかねないと思えてしまうから恐ろしい。何とか止めなくては…と暴れる悪友を羽交い締めにしつつ丑治は思いを馳せた。





「あの、すいません!」
「はい?」
体育から帰って来た里馬は、後ろから声をかけられて振り向いた。黒髪を乱雑にムースで撫で付けた背の高い男子が、其処に立っていた。
「あ、はじめまして。俺、エンヤの…裟神のまぁ、知り合いの、紀野島って言います」
「え、えんやくんの?」
「はい」
びっくり、という形容が凄く似合う大きな瞳を向けられて、確かに彼女が可愛いことに納得する。…泣かせたい、とはとても思えないが。
「アイツに目つけられて、大変でしょう?」
「…はい…うん」
見る見るうちに、大きな黒曜石の瞳に涙が溜まる。慌てて両手を振り、静止の言葉をあげた。
「わぁわぁ、泣かないで下さいッ! 駄目です! 奴に気付かれます!」
「え…?」
「はい。もう既に気付いてると思いますけど、アイツは完全なサドです。好きになった子の涙を見るのが一番楽しいと明言してる奴なんです。そして奴は一旦ターゲットを決めると、その子の涙に対して凄く敏感になります。ちょっとでも流せばどんなに遠く離れていても嗅ぎ付けてきます。危険です」
「……どおしてですかぁ?」
「へ?」
「どおして、えんやくんは、いじわるばっかりするんですかぁ…?」
ふにゃっ、と顔が歪み、じんわりと涙が浮かぶ。
「わたしのこと、きらいなんですか…?」
「違います」
即答。
「解りづらいでしょうけど、アイツは本気で貴方のことが好きなんですよ。ただ、その愛情表現がいじめたり脅かしたりセクハラしたりして貴方を泣かせたい、と思う変態なんです」
「………??」
どうしても理解できない。里馬は、好きな人が出来たら優しくするべきだ、と固く信じている。泣かせたい、なんて思うわけが無い。そのことを言うと、丑治は困ったように眉を寄せ。
「えぇっと…さっき、奴に聞いたんですけど」
「はい…」
「泣かせたいのは、『涙』がその人の中で一番純粋なものだからだそうです。泣いてる時には、悲しみ以外のことなんて何も考えてないからって」
「…!」
驚いた。そんな風な考えを、彼女は始めて聞いた。
「すいません。わかんないっすよね」
「…いいえ。ちょっと、わかります」
苦笑して話題を逸らそうとした丑治は、いつになくはっきりした目の前の少女の言葉に目を剥いた。
「いやなこと、されるのはいやだけど…そういうふうに考えるのは、ちょっと、わかります」
(マズイ! この人エンヤに洗脳されかけてるー!!)
まともな恋愛経験など一度も無い里馬は、白紙のようなもので。そこにあれだけ刺激の強い愛情? 表現を受け続けたせいで、感覚が少々マヒしたらしい。
「待って下さいッ! そっちに行っちゃ駄目ですー!!」
「え??」
「奴は悪魔ですッ! 貴方を苦しめることしか考えてません! 『ちょっといい人なのかしら?』とかって思ったらアイツの思うつぼです! 奴は本当にサディストで三度の飯より嫌がらせ好きで地獄耳で自己中でロクデナシで人非人で」
「誰がー?」
「ひいいぃぃいいっっ!!」
「いやああああああんっ!」
にょき、と丑治の肩から突然猿耶の頭が生えて、二人は絶叫した。どうやら先程の里馬の涙を感じ取り(どうやって?)、気配を絶って丑治の背中にへばりついたらしい。悲鳴を聞いて、猿耶は満足げに肯き、丑治の首に腕を廻した。やはり彼にとって、この二人は酷く脅かしがいがある人間らしい。
「チューウジくーん? 『オレの』里馬ちゃんに一体何を吹き込んでたのかなぁああああ? つーか泣かせたの? 泣かせたの? お前が? オレのいない所で?」
しかし口調はいつも通りだが目が笑っていない。はっきり言って滅茶苦茶恐い。
「うああああごめんなさいごめんなさいごめんなさいすいません何も言ってないですううう!!」
「ちょっと二人っきりになろうかー♪ いっぱい聞きたいことあるしぃ」
「勘弁して下さい勘弁して下さい勘弁ギャ―――!!!」
ずりずりずりずり、と泣きそうな顔のまま丑治は猿耶の細腕に引き摺られてゆき、近くの空き教室に連れ込まれた。そして猿耶はくるっと振り向き呆然と立ち竦む里馬に向かって投げキッスを放ち、
がらっぴしゃん。
哀れな小牛の断末魔をフェードアウトさせ、教室のドアは閉じられたのだった…。





放課後。
てふてふと日が赤くなりはじめた裏庭に続く道を、ごみ箱を持って里馬が歩いていた。この先にある焼却炉に向かっているのだ。
「…きのしまくん、大丈夫だったかなぁ…」
大きなごみ箱に抱えられるように歩いている里馬が考えているのは、勿論あのけったいな一年コンビのことだった。
いつも自分がされていることを考えると、怒っているっぽかった猿耶が彼の「友人」にどんな無体をしたのか…そう思うと恐くて仕方が無い。
「わたしも、だめなのよね。すぐ、泣いちゃうから」
里馬の涙腺は緩い。ちょっとでも感情が高ぶるとすぐさまぽろっと出てしまう。それがあのサディストを喜ばせる要因になっていることは間違いない。
「がまんしなきゃ。がまん、がまん」
自分におまじないのように呟きながら、やっと着いた焼却炉の中にゴミを捨てる。
ふぅ、と気を抜いた瞬間。
―――がっ!
「――――んうっ!?」
いきなり、後ろから大きな手で口を抑えられた。何、と思う前に、里馬は校舎の陰に引き擦り込まれてしまった。




前述のように、里馬の周りには常に「虎乎ガード」と「不可侵条約」が存在していた。しかし、猿耶の登場によってその二つが意味を成さなくなった。尚且つ、猿耶は彼女に数々のセクハラまがいの無体を働いた為、それは彼女にあこがれ続けて手を出せなかった人間のリミッターを図らずも外してしまうことになってしまったのだ。
「……やっ! なに…!?」
驚愕と恐怖で硬直して動けなかった里馬が、無骨な手が自分の体を舐めたことでようやく我に返り、暴れる。周りにいる男は数人。どいつも、どこか暗い焔を揺らめかせた嫌な目をして、里馬の四肢を押さえつけた。
「いや…! 助けてっ!」
「おとなしくしててよ、先輩」
「俺達だって、あんま酷いコトしたくないんだからさ」
「いやああっ! んぐっ…」
上げようとした悲鳴はまた手で抑えられた。
(たすけて………!!)
恐怖と嫌悪が、喉を竦ませる。無意識のうちに助けを求めたのはしかし、頼りになる妹や姉御肌の親友ではなく―――
(うぅん、だめ……!)
彼は。自分が酷い目にあうのが嬉しいのだから。助けてくれるわけが無い。そう考えた時、知らず知らずのうちに自然と涙が零れた。
「大丈夫、そんな酷いことしないよ」
「あんな奴にヤらせるぐらいだったら、俺達にもいいだろう?」
彼女の零した涙の意味をどう思ったのか、下卑た笑いを浮かべたまま男達が手を近づけてくる。
(たすけて…とらちゃん、つばめちゃん……!)
「ずっと、ずっと好きだったんだよ…本当に」
「あんな奴に、汚されてたまるか!」
身勝手で一方的な愛憎が、少女を傷つけようとしたまさにその時―――!

ばさばさばさっ!!
どがっ!

「ぐへっ!!」
蟇蛙が潰されたような声とともに、里馬の口を封じていた男が地面と仲良くなった。他の男も突然の襲撃に、慌てて距離を取る。その上に、本当に上に着地しているのは。
「………王子様、参上♪」
「え…えんや、くん……?」
そう、上から降ってきたのはまさしく猿耶だったのだ。
「…………どぉして…」
「あー気付いてなかったぁ? ここ、オレ御用達空き教室のすぐ下だよ?」
「あ…」
かたかたと震えている里馬の手を見遣り、一瞬だけ眉間に皺を寄せる。その後すぐいつもの笑顔に戻り、その手をぽんぽんと両側から叩いた。
「もう大丈夫」
ぺたんとしゃがみこんでいる里馬の前に、まるで彼女を護るように立ち塞がった。狼藉者達も、彼を絶対の敵と認識しているので鼻息が荒くなる。
「くッ…この卑怯者!」
「大勢で女の子襲おうとするお前らに言われたくないんだケド?」
「五月蝿い! 初めにそうしたのはお前だろうがッ!」
「はぁん…」
呆れたように一つ、天を仰いで息を継ぎ。
「責任転嫁は結構だけど。はっきり言ってぇ、オレ、怒ってるんだよね」
ぴゅいん、と空気が鳴る。どこから取り出したのか、猿耶の左手には鞭が握られていた。短めの、軍司令官が持っているような…リーチは短いが、かなり痛い武器だ。
「誰の許可得てオレの里馬ちゃん泣かせてんの?」
ごっ!
言葉とともに、ばっと飛び掛かってきた男に右手で裏拳を食らわせた。細い腕なのに、その威力はすさまじく、哀れな男はそのまま昏倒した。
「冗談じゃないよ? 雑魚の分際で里馬ちゃんに手ェ出すなんてさぁ。―――覚えとけ。里馬ちゃんを泣かせていいのはこの世でオレだけなんだよッ」
バシンッ!
「ぎゃあ!」
間髪入れず振るわれた鞭は男達の顔面に確実にヒットしている。はっきり言って、滅茶苦茶痛い。
「て、テメェ、何様のつもりだよっ!」
ばらばらと何人かは逃げ出したが、昏倒した男が一人顔を上げて猿耶を詰る。しかし。その声に、待ってましたと言う感じの笑みを浮かべられて、男は恐怖におののいた。
「ん〜? そりゃもう」
ゴギッ!
「ギャアアアアアッ!」
手加減無しで倒れている相手の手首を踏みつけた。嫌な音がして、関節が逆に曲がっていることに気付き、里馬は顔を青褪めさせた。
「王様?」
ちょっと首を傾げて、見下し目線でこうのたまった。もう一度同じ部分を踏みつけようとして―――
「やめてぇっ!!」
泣き声のような悲鳴が、猿耶の背にぶつかった。
「おねがいっ…もうやめてぇ…っ。っく…ひっ…」
両手で顔を覆って泣き出してしまった里馬に、猿耶はにまっと笑って。
「失・せ・ろ♪」
ガッ! と身体を蹴って反転させた。よろよろと男が立ちあがって逃げていく。
「大丈夫?」
泣きじゃくる里馬の側にしゃがみこんで、頭を撫でる。
「…ごめんなさい……ごめんな、さい……っ」
「どうして謝るの?」
ん? と言う風に小首を傾げる。
「わたしが…だめだから、こんなふうになっちゃって…えんや、くんの、いうとおりなのぉっ…。もっと、ちゃんとしなきゃ、いけないのにぃっ……」
情けない。里馬の自責はそれに終始した。誰かに助けてもらうしかなかった自分。年上なのに、何も出来ない自分。
「いやなのっ…こんなわたしっ……かえたいのぉ、かえたいのに、もぉいやなのにいっ……!」
涙が止まらない。
と。べろっ、とした感触が肌に触れた。
「きゃっ…」
「誰が変えて欲しいって言ったの?」
「えっ…」
びっくりして、涙が止まった。潤んだ視界の中で、何故かいつもより彼の笑みが優しく見えた。
「そのまんまでいいよ。焦らなくてイイ。オレが守ってあげる。オレが全部、涙飲んであげる」
うっとり、という形容が似合う声で、呟くように猿耶は言った。まだ僅かに震えている肩をいつになく優しく抱きしめて。
「そんなキレイなもの、勿体無くて他の誰にも見せらんない。キミを泣かせていいのはオレだけなんだから♪」
目尻にされたキスの感触は、何故か前ほど嫌ではなかった。単に慣れただけかもしれないけれど。
「わ、わたし…ねっ」
「うん」
「えんやくんの、いじわるはきらいだけど、…えんやくんは、きらい、じゃない、の…」
素直な言葉を、ちゃんと言えた。真っ赤になって、俯いてしまう。彼女の感情はまだ、友達としての好意と差異はないだろうけれど。
「う〜ん。キヒッ、嬉しいなぁ♪」
それを聞いた猿耶はにまぁ〜っと満面の笑みを浮かべ。
っちううううう。
「!!!??」
「ぷは。ごちそうさま♪」
思いっきり、ディープキスをかました。
硬直した里馬は、勿論そのあと気を失ってしまい。
階段を降りてやっと現場にたどり着いた丑治が慌てて引き離すまで、ずっと御満悦な猿耶の腕の中に収まっていた。
「お前一体何したんだこのバカタレー!」
「失礼な。反応ない子をいじめたってつまんないじゃん」
さいですか。





「里っ馬ちゃああああん♪ おっはー!」
がっし!
「っきゃああああん!!」
後ろから問答無用で抱きしめられて、里馬は絶叫した。
「うーん、可愛い可愛い可愛いいい♪」
そのまま後ろから頬擦りをして、目尻に浮かんだ水滴にちゅっとキスをする。
「えんやくううん! お願いだから、いきなりはやめてぇぇ」
「えっ、いきなりでなかったらもっとヒドイことしてもいいの?」
「ふええん、ちがうのぉぉ!」
朝の通学ラッシュの中で毎日こんな事をされると、いい加減周りも慣れてしまう。未だ懸想する男は後を立たないが、無謀にも猿耶に喧嘩を売った男は全て半殺しにされているらしい。
「おらぁ、そこのサルッ! いい加減にしやがれー!!」
「あっははーん、恐い恐い♪」
当然、虎乎も納得していない者の一人で。この後二人の追いかけっこが始まるのもいつものこと。
「あっ、とらちゃん!」
「ん!?」
素早く逃げ出した猿に拳を振り上げようとした虎乎を止めた姉の声は、
「あ、あのね。あんまり、ひどいこと…しないでね?」
恥ずかしそうにこう続けられた。
「里馬ぁ! なんでだよッ!」
「そりゃあもう、オレと里馬ちゃんラヴラヴだからぁ〜♪」
何時の間にか戻って来ていた猿耶が、キヒヒヒヒと笑う。
「ち、ち、ちがうのよ? ちがうもん、うん」
真っ赤になった里馬の顔を見てこちらは血の気が引き。
「…………殺すッ!!」
純粋なる殺意を持った追いかけっこが始まった。



fin.