時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

蛇の撹乱、羊の主張

何だ、私のことが知りたいのか?
姓は神宮寺、名は尋巳。今年で齢十六になる。
勘違いしている輩が多いようなので言っておくが、私の性別は生まれた時から染色体XYだ。
良く覚えておくがいい。
母親はいない。私が赤子の時に死んだ。
顔も声も覚えていない。親父殿が写真も捨ててしまったのでな。全く不届き者だとは思わないか?
神宮寺はそれなりに名家と名のつく家らしいが、私には何の関係もない。
他の家より広くて、金が有る。只それだけだ。
周りの人間は、顔の造作が良いだの勉強が出来るだのと騒いでいるが、
子供の頃から言われすぎて好い加減飽きた。
友人は、この世に2人だけ。別に少ないとは思わない。大量の人間に愛想を振り撒く趣味はない。
…何だ、まだ何かあるのか?


×××



「尋巳」
「何だ、親父殿」
我が家の夕食風景に、家族全員…と言っても2人だけだが…が集まるのは極めて珍しいことだった。そしてその時会話が行われるのも極めて希である。希である事がいい事象であることは更に滅多に有り得る事ではない。嫌な予感がして、親父殿に答えを返した後目の前にある料理に視線を落した。
親父殿の機嫌が下がったのは気配で分かったが、無視する。諦めたのか一つ息を吐くと、親父殿は言葉を続けた。
「近々、お前に逢わせたい人がいる。新しい家族になる女性だ」
がしゃん。
不覚にも。肉の刺さったままのフォークを取り落としてしまった。






「早いな、2人とも」
「よぅ、ヒロ…」
「ヒロ、おはよ…」
振り向いた2人は、私の姿を見て絶句した。
2人揃って大口を開けて固まった。何故こんなに驚いているのか。そんな激烈な変化があったわけではないだろうに。只、昨日まで二つしか穴の開いていなかった左耳にもう一つ穴が増えていただけだ。
「ヒロぉ――!! どうしたんだよそれ!!」
「どれだ?」
「耳! 耳の穴!」
「ふん、これか? 昨日開けた」
まぁ。この2人が騒ぐのも無理はないか。私が耳に穴を開ける時は、大抵親父殿がらみで私が心傷を負った時だ。
1つ目を開けたのは、小学校でクラスの殆どの生徒の父親が参加したキャンプ合宿に、仕事で親父殿が来られなくなった時だった。名札を止めていた安全ピンを、何のためらいもなく自分の耳朶に突き刺した。真っ青になった担任が理由を聞いて来たが、言う気もしなかった。
2つ目を開けたのは、中学1年の頃。親父殿が1年間が外国へ行くことになった。それを言ってきたのは親父殿の部下で、奴は既に異国の空の下にいた。その受話器を下ろした後、残された数少ない母の形見の中の裁縫箱から針を取り出してすぐやった。
「ヒロ…何があった?」
きゅっと眉根を寄せて、虎乎が目線を合わせてくる。鷹也は泣きそうな顔で痛くない? 痛くない? と聞いてくる。
純粋な、心配の感情。何の偽りも無い。心地良い。顔の筋肉が自然に緩むのを感じて、口元を取り出した扇子で隠した。
「あの親父殿、今度は人生の伴侶とやらを再び見つけたらしいぞ。ご苦労なことだな」
淡々と呟いて、自分の席に腰掛けた。虎乎と鷹也は顔を見合わせて、机の両脇に立つ。
「それって…お父さん再婚するの?」
「然り」
「…で、お前、どうすんだ?」
「何をだ?」
「それ、認めるの?」
「おかしなことを言うな。あの男が決めたことを何故私が認めなければならない? 認めようが認めまいが、あの男は必ず実行する。そういう奴だ」
「だってよ…お前は嫌なんだろ?」
「何故そう思う?」
「え、だから…その、穴、開けたんじゃないの?」
「何の事だ。私は別に、奴の決定が気に入らなくて自傷趣味を繰り返しているわけでは無いぞ。奴が私の知らないところで既に決定してしまったことに腹を立てているのだ」
交互に出される質問に一々答えながらふんと鼻を鳴らす。眉間に皺が寄っているのがはっきりと分かり、尚更苛ついた。
「まぁ、あの親父殿に言うだけ無駄だが」
表情を動かすのは、苦手だ。面倒臭い。自然に動かなければ動かす必要もないだろう。あの親父殿のように、嫌な相手に無理矢理笑顔を作る趣味も無い。
…どうしても、思考が奴に直結してしまう。おのれ。
「一週間後か…よりにもよって厄介な時に話を持ちこんでくるものだ、流石親父殿と言ったところか」
神宮寺グループ御用達のイタリア料理店で、引き合わせるらしい。こういう事をいきなり言うから、私は奴を信用できないのだ。どうせいつもの通り仕事が忙しくて言うのを忘れていただけだろう。
そのせいで私は、中間試験を挟んで母親となりうるらしい女性に会う羽目になるのだ。あの人否人め。息子の都合など考えた事もないのだろうな。
「あ、テストか…確かに厄介だな」
「でも、ヒロなら楽勝だよ! だいじょぶだいじょぶ」
「馬鹿を言え。いくら私が冷静だと言え、流石に我関せずでいられるものかよ。貴様達私が神経の通っていない木偶だとでも思っているのか」
「ん、まぁな」
「ちょっと♪」
「…貴様達」
私は無言で扇子を刀に見立て、自分より背の高い二つの頭に振り下ろした。





生まれた頃から、賛辞が当たり前だった。
『利発そうなお子様ですわね』
『一度読んだ本の内容は全て覚えているらしいぞ』
『神童と言うべきでしょうなぁ』
どれもこれも、上滑りしていく言葉。
容姿を決めたのは遺伝子であり、そう生んだのは両親だ。
ただ単に記憶力が有るだけで、何故誉められなければならない?知識を覚えるのは好きだが、ただ覚えて吐き出すだけでは出力機関ではないか。
そんなことも解っていない馬鹿な者どもに頭を下げる父親が、これまた腹が立つ。
だから、父親とは逆に、常に慇懃無礼に振舞った。
反面教師、と言う奴だ。
違うかもしれない。
自分は父とは相容れない。仲が悪いのではない、価値観が違い過ぎるのだ。奴にとって、数少ない友人と蔵書の為だけに一生を終えるなど、考えつかない世界なのだから。
自分にとって、どんな人間に頭を下げてでも地位を確立し、金を儲ける世界がとてつもなく下らなく映る様に。
ただ、それだけだ。





キーンコーンカーンコーン。
「よーしそこまで。答案集めっぞー」
我に返ったのはチャイムが鳴り、担任水基戌殿が声をかけた時だった。
「…………しまった」
目の前にある紙はほぼ白紙であった。
「おのれ…」
親父殿に対する怨嗟の声が漏れた。八つ当たりだが。



「っげえぇ―――! マジかよぉ!!」
「ウソォ…本当に?」
「…まぁ、当然だろうな」
数日後、テスト結果の順位が廊下に貼り出された。
入学してからこのかた、トップから落ちたことがなかった私の順位は、16位。予期していたので何の感慨も沸かなかったが、両隣の2人は至極自分の事のように慌てている。
「一教科は殆ど埋められなかったからな。これぐらいで済めばしめたものか」
「え、そんなに難しいのあった?」
「否。私が10分考え事をしている間、周りで50分の時が経っていただけだ」
「そりゃ単にぼけっとしてただけじゃねぇか…」
妙な問答を繰り返していると、ふと苛烈な視線を感じて振り返った。
周りから見られるのはこの容姿等のせいで珍しくない。が、その時の視線とは明らかに違う強烈な感情を伴った視線だ。
その気配の発生源は、つかつかつかっという足音がよく似合う歩き方で近づいて来る人影だった。
背の高さは私より少し小さいくらいの女子生徒だった。僅かに赤茶がかった癖のある髪は短く切ってあり、さぞかし櫛が通りにくいだろうと予想できた。
その女子は真っ直ぐ歩いて来て私の目の前で止まると、勝ち誇った笑みを浮かべこちらを指差した。
「残念だったわね、神宮寺尋巳!」
やはり目標は私だったか。しかし何が残念なのだ。目の前の女子はそんなに豊かではない胸を張って言葉を続ける。
「でもこれで、アンタの天下は終わりよ。これからはあたしがずっと一番を取り続けるから、覚悟しておきなさい!」
それだけ言って、足音高らかに歩き去っていった。………可笑しな女子だ。
「………誰だ、アイツ?」
女子が廊下の角に消える所まで見届けると、虎乎が口火を切った。
「私に振るな。知らん」
本当に覚えが無い。それよりも…
「あ、もしかして…」
廊下の張り紙と彼女が過ぎ去った後を見比べて、鷹也が頷く。
「やっぱり。あの子、いっつも成績順位2番だった梨本さんだよ。今回一位になったんだ」
「んだよ、ヒロが落ちたから上がっただけじゃねぇか。何威張ってやがんだ、なぁヒロ」
そうなのか…。
「…あぁ、そうだな…」
その時私は、生まれて始めて生返事と云うものを返した。
「…ヒロ? どうした?」
ひょい、と虎乎に顔を覗き込まれた。視線が遮られる。見えないではないか、あの女子の道筋が。
「おい、ヒロ?」
「ん? あぁ、何だ?」
端と気付く。そうだ、道筋を見ようとあの女子はもういないではないか。何の意味も無い。私は一体何をしていたのだ?
「どしたの、ヒロ? ぼんやりして」
「ぼんやり? 私がか?」
声に動揺が滲んでいる。何故だ? ぼんやりだと? 私が?
両側から同時に頷かれた。何と言う事だ。私は先刻、「上の空」だったと言う事か?
嗚呼、違う、そうではない。
問題は先程の女子なのだ、彼奴は自分に初めて罵声と言うものを浴びせた人間だ。そして私はそれを拝聴して―――そうか。
「………知らなかったな」
「何を?」
「私に被虐趣味が有ったということだ」
「はぁっ!?」
「え、ひぎゃ? ひじゃ、く?」
「噛むな。仕方ない、もっと端的に言ってやろう。自分がマゾヒストだと解ったのだ」
『はあああっ!?』
虎乎と鷹也が、声を揃えて絶叫する。ようやっと納得できた。やれやれ。
「オイコラ! 何でいきなりそーゆー結論に達するんだよっ!」
「それ以外に説明の方法がない。どうする? 今確かに、私は喜んでいるぞ。あの女子に罵声を浴びせかけられてな」
「え、え、だって、えええええ!?」
錯乱体質の二人はとりあえず捨て置く。いつもならこの2人の暴走を止めるのは自分の役目だが、今はそれどころではない。
自分の中に生まれた新しい感情を吟味するのが先だ。
「あぁ―――、そうだな、確かに私は先刻ぼんやりしていた。面白い。これは面白いぞ、虎乎、鷹也。始めて、無意識という行動を経験した。思考が反映しない行動をしたのは、生まれて始めてだ」





その日は、案外あっさりと訪れた。
「尋巳、今日ぐらいはちゃんと大人しくしておけよ?」
「努力はする」
ぶっきらぼうに返事を返す。鼻白む親父殿が、こちらのテーブルに歩いてきた女性を目に止めて慌てて居住まいを正す。
「あの女性か?」
その質問に軽く頷くだけで答えられた。視線は女性から外していない。
その滑稽さに珍しく、自然と笑みが浮かんだ。…緊張しているのか、この男が!
正直、暇つぶしにはなるかとこのレストランに足を運んだのだが、親父殿をこき下ろすにはこれほど良い場所はなかったらしい。これだけでかなり満足だ。
椅子の背にゆっくりと凭れた。
「神宮寺さん、お久しぶりです」
にっこりと品の良い笑みを浮かべて、女性が会釈する。見る限り、親父殿より10歳は若い。まだ40にはなっていないだろう。
「いや、良く来て下さいました、梨本さん」
立ちあがり、着席を促す奴に、お前も立ちなさいと目で言われる。その視線をすんなり無視し、目だけで梨本と呼ばれた女性に挨拶する。
「親父殿、上手くやったな」
「尋巳ッ! いや、すみません、愚息で…」
激昂が尻つぼみになる。赤くなったり青くなったりと忙しい父親に対し、女性は面白そうに笑いを噛み殺している。ふむ、なかなかの性格らしい。
「まぁ、それぐらいでなくては親父殿と所帯を持とうとは思わないか……」
口の中で小さく呟く。流石にこれが聞こえたら親父殿の堪忍袋の緒が切れそうだ。
私自身、別段今更の再婚に目くじらを立てたいわけではない。自分ももう16だ。顔も忘れてしまった母親に、それ程の未練はない。薄情だと言われても仕方がないが…。しかし、父親にとっては愛して結婚して先立たれた女性のはずだ。それなのに、10年以上経てばその呪縛から解放されるのだろうか? 理解不能だ。
個人個人で違う感情など、筋道立てて考えることが出来ない。分かりづらくて、苛々する。
「すみません、本当は娘と一緒に来る予定だったんですけど、急に遅くなるって…」
娘?
思考の海に潜ろうとしたら、いきなり女性の声に引き上げられた。
「親父殿」
「…何だ」
「相手も子持ちか」
「だからどうしてお前はそう……」
「初耳だ」
「…言っていなかったか?」
「然り」
また少しだけ私の機嫌の波が下がる。二言前の貴様の言葉、そっくりそのまま返してやる。だからどうしてお前はそう、だ。
「この様に、家の親父殿は説明が下手で唯一にして絶対の息子の意見も聞かず重要な決定をしてしまう自己中心的この上ない男だが貴方はそれを理解しているのか?」
「尋巳―!!」
懇切丁寧に、目の前に座っている女性に説いた。これを知っていて尚且つ結婚するというのなら、剛毅としか言いようが無い。
余裕が無くなった親父殿の悲鳴のような言葉に周りの客がなんだなんだと視線を向けてくる。それと対称的に、女性はくすくすと笑っていた。やはり、並の女性よりずっと肝が据わっている。
「えぇ、存じていますわ」
「な、梨本さん……」
情けない声を出すこの男性を、日本有数のグループのトップだとは誰も思わないだろう。親父殿には腹が立つが、この女性と話すのは面白い。悪くないと思った。
「母さーん!」
と、レストランの入り口から甲高い声が飛びこんできた。正確には、声と共に女子が飛びこんできた。大きな足音と声は、このレストランには非常に不似合いだった。
「未亜希? こら、走っちゃ駄目よ!」
「ごめーん、委員会長引いちゃって……」
周りの非難的な目をものともせず、その女子は我々の座っていたテーブルの前まで走ってきて――――。
がたん、と立ち上がった。私がだ。またしても、無意識で行動してしまった。
「其の方は………」
「え? ……………ええええええ―――――!!?」
私の無意識の引き金は、やはりこの女子らしい。
驚いた。本当に驚いた。そう言えば梨本という名字だったか。
そう、梨本未亜希―――。
「何で!? 何でアンタがここにいるのよおおおおっ!!」
「その台詞、全て貴様に返す」
「はっ!? 神宮寺って…まさか!」
「奇遇と言うか何というか…驚いたな」
「全然驚いてない顔で言わないでっ!! 冗談じゃないわよー! 母さん帰ろっ!」
「ど、どうしたの未亜希、急に?」
「駄目! イヤよ! 他のどんな金持ちでもいいけどこの話だけは駄目!」
「昨日まで全然オッケーって言ってたじゃない! どうしたのよ」
「な、梨本さん、一体何が…」
「いやああああっ! ひとつ屋根の下なんかで暮らしたくないいいいっ!」
「ご、ごめんなさい神宮寺さん、ちょっと失礼を…」
「そんなに怒鳴ると喉が壊れないか?」
「誰のせいだと思ってんのよ―――!!!!」
その後。
騒ぎすぎた事を詫び、神宮寺グループの名で揉み消すまで、この騒ぎは終わらなかったのだった。



「はぁ………」
次の日は日曜日。
癖のついた髪を揺らしながら、あたしは深く溜息を吐いた。
昨日は不覚だったわ。人前であそこまで取り乱してしまうなんて。でも仕方ないのよ! あの神宮寺尋巳がそこにいたんだから!
「そりゃあね、相手の名前聞いた時あれっとは思ったわよ。でも、神宮寺グループの一人息子が何であんな公立高校にいるのよ! 金持ちは金さえ積めばすぐ入れる私立にでも行ってればいいじゃないの!」
「それは偏見と言わないか?」
「っきぃやああああああああああっ!!?」
いつのまにか口からこぼしていた言葉に耳元で答えを返されて、あたしはまた絶叫した。昨日からあたしってば、本当に叫んでばっかり…。
「いきなり超音波のような声を上げるな。鼓膜が疲れる」
「だったらいきなり耳に嫌な息吹きかけないでよ―――!!!」
振り向いて怒鳴り、目の前に天敵がいることに気付いた。
「神宮寺尋巳ぃいいっ!?」
声をかけた相手―――そう、あたしの天敵・神宮寺尋巳も流石に驚いたらしくて、動きを止めている。顔は相変わらず氷みたいに動かなくて、ムカツいたけど。
「久しいな。昨日会ったが」
「嫌味!? それは嫌味なの!? てゆーか何でアンタがここにいるのよー!!」
「買物帰りに貴様の姿が見えたから声をかけたまでだ。それより」
そこで言葉を切って、色素の薄い瞳でじっとこっちを見てくる。
「な…何よ」
忘れてたけど、コイツは黙って立っていれば本当に美少年だ。真面目な顔で見つめられて、心臓が高鳴る。…ってどうしてよッ! こんな奴に、こんな奴にときめくなんて!
「溜息を吐かない方がいいぞ。幸せとやらが逃げるらしいからな。友人の受け売りだが」
「アンタに会ったから逃げなくてもいい幸せまで逃げちゃったのよおおっ!!」
絶叫すると、神宮寺尋巳は無表情のままどこからともなく扇子を広げ、あたしの目の前でひらりと舞わせた。
「今の言い回しは面白かった。座布団一枚くれてやるぞ」
「いらないわ――――っ!!!」
もう嫌! 無視よあんなヤツ、無視無視! どうしてあたしだけがコイツに振り回されなきゃいけないのよッ!
ぷいっと身体を翻し、逆方向に向かって歩き出した。
「おい、しばし待て」
「待たない!」
「聞きたいことがある」
「言いたくない!」
「何故貴様は私にそう喧嘩を売りたがるのだ? 理由があるのか」
ぴたり。あたしの足が止まった。
「理由ですって……?」
ゆらり、と周りから陽炎を立ち昇らせつつ振り向く。お腹が熱い。自分の嫌な所がじわっと沸いて来て、止められない。
「全部よ! 全部! アンタのその何もかも面白くなさそーな顔も、金持ちのお坊ちゃんなところも、ろくに勉強してる風もないのに毎回トップとるその成績も!」
びしっとアイツを指差して言葉をぶつける。ほんの少しだけ語尾が震えてる。情けないわねっ、しっかりしなさいあたしの声帯!
「あたしが努力して、努力して、やっと手にいれようとしてたモノを、アンタはどんどん簡単に貰ってく! 解ってるわよやつあたりだって! でもどうしようもないじゃない止まんないのよっ!!」
感情が高ぶると涙が出てくる。ぐっと唇をかみ締めると、身体をまた前に向けた。
「アンタには下らないモノかもしれないけど…あたしにとっては、凄く重要なモノなのよ!!」
悔しい。悔しい。どうしてアンタはいつもそうやって、何事もないように飄々と出来るの? 俯いたまま、あたしは早足で歩き出した。もうかかわり合いたくない。これ以上一緒にいると、あたしはどんどん嫌な奴になるから。
どん!
「きゃ!」
その時不覚にも、俯いたままだったあたしは道端にたむろしていたヤンキーに気がつかなかった。
「んだよテメェ!」
「どこ見て歩いてんだよ」
柄の悪そうな連中が数人、あたしを睨みつけてくる。臆した腰を我慢して堪えて、ぐっと踏みとどまる。
「ごめんなさい、よそ見してたわ」
「ごめんですめばぁ、警察いらねんだよ!」
「生意気―。慰謝料くれよ慰謝料!」
肩を乱暴に掴まれて、一瞬息を詰める。叫んでやろうと息を思いきり吸った、その時―――


ごりっ!!


「ぐへぇっ!?」
物凄く痛そうな音を立てて、重そうな鞄が狼藉者の顔面にめり込んだ。………え? その持ち主は―――
「神宮寺、尋巳…!?」
あたしが置いてきたはずのその男が、鞄の紐を握り締めて倒れ込んだ男を見下していた。見下ろしてるんじゃない、ミクダシてるわ完全に。
「汗と雑菌が同居しているような手で、私の妹に触らないで貰おうか?」
「なっ………」
妹!?
あたしが絶句してるのを無視して、神宮寺尋巳はあたしの目の前に立ち塞がり、絶対零度の視線を男達に注いだ。奴等は一瞬後ずさって、それからそんな自分達に苛立って身を乗り出してくる。
「んだよテメェ! 女みてえなツラしやがって…」
「それ以上近づくな。……泣きを見るぞ」
「はぁん? テメェが泣くのかァ?」
にやにや笑いを顔に貼り付けたまま、一人近づいてきて…


ずみっ。


「ほぎゃああああっ!!?」
神宮寺尋巳は何の躊躇いもなく、男のサンダルを履いたつま先にさっきの凶器を自然落下させた。凄い痛そうな音で、あたしも爪先が痛くなったような気がした。
「だから泣けると言っただろう」
冷たく言い放って、あたしの腕を掴む。…ってえぇ!?
「退却するぞ」
「え?」
返事を待たずにあたしを引っ張って走り出す。
「ま、待ちやがれ!」
「ちょ、ちょっとおおお!?」





小さな公園まで走ってきて、神宮寺尋巳は漸くあたしの腕を離した。
「はぁ…はぁ……」
「どう、した? もう、ばてた、か…」
「い、息切らしてる、アンタに、言われたくないわよ……」
お互い憎まれ口を叩きつつ、ベンチに凭れてぐたりとしている。あたしは文化系なのよ…
暫く無言のまま、体力回復を図る。でも、心臓が落ちついてくると、疑問がむくむくと沸いて来る。
「何で…何で、助けたのよ! あたしのこと…」
あたしがあれだけ罵倒したのに、神宮寺尋巳は助け舟を出した。それがどうしても納得いかない。それに…
「あ、あたしのこと、妹、とか言うし!」
「何だ…姉の方が、良かったか?」
「ば、馬鹿! そう言う問題じゃないわよ!」
どうして、どうして。
「何で…そんなこと言えるのよ! アンタ本当に、あたしと家族になってもいいの!?」
「あぁ。…悪くない」
あまりにもあっさり返されて、絶句してしまう。
「…………どうして……?」
目を閉じて息を整えていた神宮寺尋巳が、漸く身体を起こした。
「貴様は、私の事を嫌いなのだろうが…私は貴様の事が結構気に入っている。家族になるのも悪くない、と思っただけだ」
「だ…だから、何でよ! あたしあれだけヒドイこと言ったのに…アンタマゾ!?」
「その可能性は否定できないが…それだけではないと言う事にも、気がついた」
ヤツの言葉に一瞬身体を引きそうになるけど、続きそうだったので黙って次の言葉を待つ。
「貴様が私に言った言葉の中に、嘘が無かった。どれも貴様の心の奥底から出ていた言葉なのだろう? 私の周りにそういう人間は少ない。そしてそういう人間を、私は気に入っている。貴様も例外ではない」
「えっ………」
どくん。
心臓が一つ大きく鳴った。
「私の周りにいる人間は皆嘘で塗り固められた痴れ者共だ。建前の壁を作って、人に読まれぬ笑みを浮かべて―――子供の頃からずっと、そんな中にいた。―――いい加減、飽きた」
本当に、飽きた、という風に、神宮寺尋巳がベンチの背に凭れる。
「―――人の剥き出しの感情に触れるのは好きだ。理解出来なくて、割り切れなくて、苛々するが―――心地良い。…0と1で割りきれるコンピューターの世界に居れば、随分楽なのだろうと思う。だが私が生きているうちで望むのは、楽ではない。……それと、罵倒に対する言い訳ぐらいはさせて欲しいのだが?」
「え……」
はたと気がついて、慌てて首を振った。―――マズイ。あたし今、見蕩れてた?
「家が金持ちなのは私の力でも何でもないし、表情が動かないのは作るのが面倒くさいだけだ。勉強が出来るというよりは、学校のテストの答えを埋められるということだろう? 私は自分が頭が良いと思ったことは一度も無いぞ」
「…それが嫌味だって言ってんじゃないの! じゃあなんで、あんないい点取れるのよ!」
前言撤回だわっ! コイツが良いのは顔だけよ顔だけ! 惑わされちゃ駄目!
「私は一度読んだ本の内容は一言一句忘れない。教科書の内容は全て覚えているから出来て当たり前ではないか」


…………………


「ちょっと待ちなさいよ」
「何だ?」
「………じゃ、英語の教科書91ページに、なんて書いてあった?」
それを聞いて、少し視線を空にやっていたかと思うと、おもむろに口を開いた。
「EXERCISES 19、1.次の各文を日本語に直しなさい。(1)A I bought some magazines at the bookstore. B I once read about it in some magazines.(2)A I don't have any books on Cinema history. B You may read any book you like.(3)……」
「もういい…………」
ベンチの背凭れにぐたりと腕と頭を預けたまま、あたしは溜息と共に言葉を吐き出した。
「あたしが間違ってたのよ…そうよ。こんな人間外生物にケンカ売ったあたしが悪かったんだわ……」
「酷い言われようだな。言っておくが私自身、こんな記憶力が嬉しいと思ったことは無いぞ。新しい知識を得る事は楽しいが、他の人間が良くやる『一度読んだ本を読み返す』と言うことが出来ない。読む意味がないからだ。面白くないことこの上ない。…きっとこれも読んだら塵箱行だ」
そう言ってさっき活躍した鞄を開ける。重いはずだ、分厚いハードカバーの書物が4、5冊詰まっている。立派な凶器だ。
「ってちょっと! これ『カラマーゾフの兄弟』のハードカバーじゃない! 勿体無い! アンタ金の無駄だから本買うのやめなさいよ!! だから金持ちは嫌いなのよー! あたしなんか絶対手の届かない本なんだからね!?」
「読みたいのか? 読んだ後なら貸してやる」
「いいの!? …って、餌で釣らないでよ!!」
「人聞きの悪い。捨てるより余程本が有意義だろうが」
「…うう、貧乏人を懐柔しようったって、そうは行かないんだから…」
そう言いつつ、目線が泳ぐのを止められない。うぅ…情けなし。
「別に懐柔などする気はない。家族になれば本の貸し借りなど当たり前だろう?」
「ま、まだ決まってないわよ…」
「……………」
理性と欲望の狭間でのたうっているあたしをじっと見て、尋巳が呟く。
「…貴様は、不快ではなかったか? 親が再婚すると知って」
「え? ……別に。アンタん家じゃなかったら、二つ返事で了承してたわよ。金持ちなんだから」
「金さえ持っていれば良いのか?」
「良いわよ」
言い切った。
「アンタね、金持ちのボンボンにはわかんないかもしれないけど、この世はお金なの! お金さえあれば、何だって出来る! 大抵の夢は叶う! この世の99%のものはお金で買えるのよ! …ない人間は、指咥えて見てることしか出来ないんだから」
俯いて、膝の上でぎゅっと両手を組み合わせる。
「貴様の家は貧乏なのか?」
「あっさり言いきらないでっ! …そうだけど。土生東だって、本当は行く気無かった。義務教育が終わったら、バイトで稼いで母さんに楽させたかった。母さんの方は、大学まで行けって言ってくれたけど」
「父親はどうしたのだ?」
「知らない。母さんのお店のお客だったらしいけど、認知しなかったんだって。あたしのこと」
ふん、と鼻を鳴らした。これは負け惜しみでもなんでも無く、あたしは父親を欲しがった事はない。憧れも無い。逆に疎んじてるわけでもない、ただいなくても平気だけどいれば楽だろうなと思った事はある。
「勉強するのは嫌いじゃない。でも、あたし一人のうのうと学生やるのは嫌なの。再婚…すれば、少なくとも母さん一人働くことないじゃない。だから…」
「だから、再婚を勧めたのか」
「ん」
こくん、と頷く。
「……私は、親父殿が再婚するのが嫌だったぞ」
いきなり、思わぬ言葉が奴の口をついて出た。え、と驚いて視線を隣に向ける。そこにあったのは、いつもと同じ、無表情な神宮寺尋巳の顔。
…それなのに、それがどことなく寂しそうに見えたのは、どうしてだろう?
「私はどんなに足掻いても、彼奴の息子なのだと思い知らされる。奴の決定に逆らうことは出来ない…それに、やはりもう母親のことは忘れてしまったのかと思うと…私は寂しいのか? 怒っているのか? …良く解らない。だから嫌だ。…あぁ、上手く言えないな、許せ」
煮え切らない返答。しかしそれを呟いているのが神宮寺尋巳だという事実が驚きだ。常に切り捨てる様に言葉を発するこの男が。
「…そんなの、当たり前じゃない」
何故か、口を開いていた。静かな瞳が、こっちを見遣る。
「人間の感情なんて、そう簡単に分析できるもんじゃないのよ。それが自分のモノでもね」
「…そうだな。あぁ、そうだ」
やりきれない様に、ソイツはもう一度空を仰いだ。
「それが、嫌だ。どうしようもなく。親父殿が絡むと…奴をこき下ろすのは楽しいが。幸せに…なって欲しいのか? 駄目だ。結論が出せなくて気分が悪い」
眉間に皺を少しだけ寄せて、神宮寺尋巳は腹が立つぐらい細い指で頭を掻き毟った。そしてそのあと、耳朶に貼ってあるばんそうこうを指でもどかしげに抓んだ。
「可笑しいな。何故私はこんな話をしている…?」
顔を両手で覆って、深くベンチの背に凭れた。
「あたしも。どうしてこんな話になったのかしら」
二人でベンチの上で空を仰いで。
暫く、二人とも口を開かなかった。
「………未亜希」
「な、何?」
初めて名前を呼ばれて、驚いた。
「夜にかかってくる電話が、怖かったことは無いか…?」
「え…?」
「親父殿は、いつも遅かった。私は一人で食事をして、一人で入浴して、一人で寝床に入った。ずっといた家政婦も帰ってしまう。その時、電話がかかってくる…受話器を取って、出たのが親父殿の部下の声だったりすると…心臓が止まる」
何かあったのではないかと―――――
「それ、わかる…あたしも、急に母さんが遅くなって、先に寝てなさいって電話が来るの。布団に入るんだけど、電気が消せないの。家の近くに警察があってね、よくパトカーのサイレンが聞こえるの。それが近づいて来る度に、家の前で止まらないでって必死に祈ったわ。それが遠ざかってホッとすると、電話がまたかかって来たりして…」
あの恐怖は忘れない。
「怖かった……」
「あぁ………」
一人になってしまうのではないかと。
「一人は、寂しいな…」
「うん……」
本当は寂しかった。
もっと家にいてって甘えたかった。
ここにいてって、しがみついて泣きたかった。
でも、生活のために忙しいのも解っていたから。
だから我慢した。我慢し続けた。
そうしたら、甘えることが出来なくなっていた―――。
「もう、我慢するべきではないのかもしれない」
「それに、母さん幸せそうなの。本当に、結婚したいみたいなの」
「私もだ。親父殿のあんな顔は始めて見た」
「母さん達、幸せになれるかしら」
「解らない。それは本人達次第だろう」
「それなら、大丈夫よ。母さん強いもの。仕方ないから、許してあげるわ」
「私は元々異論など無いぞ」
嘘つけ、と突っ込もうとして横を向いたら。
夕日の中で、神宮寺尋巳の口元が自然に綻んだのを、確かにあたしは見た。
また見蕩れてしまったんだけれど。
――――――まぁ、いいかと思った。



月曜の昼休み。『今日泊まりに来るが良い』と虎乎と鷹也に伝えた。
2人ともあっさりと快諾した。3人で遊んだ後私の家に泊まるのは子供の頃からの不文律だ。別に他の二人の家でも良いのだが、虎乎の家は狭く、鷹也の家は人が居過ぎるので必然的に私の家になる。
廊下を3人で並んで歩いている時、向こう側から見慣れた曲毛の少女が歩んできた。
「あ」
「げ」
鷹也が口をほけっと開け、虎乎が俄かに顔を顰める。私は……多分、いつもと変わらぬ顔だったと思う。断言できないのは、奴相手だと自分の感情の詳細を抑えるのに自信が無いからだ。
すれ違う。一瞬の沈黙。
「……お父さんにもう言った?」
「否。今日言う予定だが」
「そ」
「そちらは?」
「もう言った。喜んでたよ」
「それは重畳」
「じゃあね」
何事も無かった様に未亜希が歩き去る。しばし呆然とその背中を見送って、虎乎と鷹也は同時に振り返った。
「あれー? 何何、一体どうしたの??」
「オイ、何で何時の間にフレンドリーになってんだよ!」
その質問は予期していたとも。だから本日我が家に呼んだのだ。
「しばし待て。家できちんと説明して進ぜよう」





普通の家のリビングとダイニングがすっぽり収まるような部屋。
一目で高価と解る調度品に、クイーンサイズのベッド。
何も知らぬ者が入ったら臆するか、嫌味を言うかどちらかの部屋。それが私の部屋だ。しかし、子供の頃から何度と無く遊びに来ていた虎乎と鷹也にとっては、自分の遊び場所以外の何物でもない。
虎乎の作った夕食を三人で食べ、三人一緒に風呂に入り、ベッドの上に三人で転がった。平均以上の体格の高校生二人が一緒に乗っても難なく眠れる。私はいつもの通り真中に仰向けになって寝る態勢に入った。当然両サイドから宥めすかされ、ここ数日の出来事を逐一報告する事になったのだが。
しかし本当に、ほんの数日とは思えないほど沢山の事があった。これであと五六年は波風立って欲しくないものだ。喋り疲れたので、目を閉じた。
「なんか…色々あったんだねぇ…」
しみじみと言う鷹也の言葉が、まさしく全てを体現していた。
「んー…つまり、よかったって言やあいいのか?」
納得のいかないなりに説明を飲みこんだ虎乎の言葉に、私の口元が珍しく自然にほころんだ。
「うわ! ヒロの笑顔、久し振り〜」
「え、マジ!? 俺見逃した!」
「貴様等、私の笑顔は天然記念物か」
『うん』
奇麗に重なった返事に応えんがため、常に常備している扇子を黒い頭と金色の頭に打ち下ろした。
「てっ。…それで、言う言わないってのは親父さんに結婚しろって言うことか?」
「然り」
「じゃ、お父さん帰ってくるまで待たなきゃ駄目じゃない!」
がばっと身を起こす鷹也を無視して、私はまた目を閉じる。
「嫌だ。眠い」
「バカ、起きろー!」
髪を引っ張る痛みに眉を顰めて目を開ける。
「私が眠る前にあの男が帰ってこないのが悪い」
「親父さん遅いのはいつものことだろーが」
「も〜、変なとこ意地っ張りなんだから…」
「今更だろう。眠らせろ」
「駄目だ!」
「だーめ!」
布団を頭から被り追求から逃れる。
「こら、出てきやがれこのガキ!」
無理矢理布団を引き剥がそうとする虎乎。
「ヒロぉ〜。ねぇ、起きなってば」
布団の端を握って困った声をあげる鷹也。
そうだ。
こんな時のために私は二人を家に招いたのだ。自分の踏ん切りがつかない部分を、後押ししてくれるだろう事を見越して。
この世に、たった二人の親友。
今まで、自分の世界に必要なのはこの二人だけだった。
私の腕は、二人に比べて短い。力も無い。これ以上大切なものが増えたら、護る余裕が無くなってしまう。
それなのに。
もっと欲しいものが出来てしまった。どうしても、嫌いになれない父親と、…自分と良く似ていると思った少女。
「…欲深め」
布団の奥で小さく呟いた。


ガシャン……


外の門が開く重い音がした。
その後すぐに、車のエンジン音が近づいて来る。
「!」
がばり、と布団を跳ね上げて身を起こす。
吃驚した顔は一瞬で、にやりとと笑みを浮かべる虎乎。
ほっとした顔で、自分の肩を軽く叩く鷹也。
ふん…相変わらずタイミングの悪い親父殿め。
「………さて、親父殿をこき下ろしてくるか」
「だから、それをやめろってーの!」
「あははは。ヒロ、いってらっしゃーい」
ベッドから降りた自分に、激励のような発破をかける友人に。
感謝の意味を込めて、扉の方を向いたまま手に持った扇子を舞わせた。





ドアノブに手をかけて、ふと気付く。
体格も力も他の二人より劣っている自分だが、指の長さは何故か殆ど変わらなかった。
―――腕が長くなくても指が長ければ、掴めるか。
護るのはまだ無理でも、取り敢えず掴んでおこう。
誰かに渡すのは御免だ。
「欲の皮を張ってやる」
もう一度小さく呟いて、最愛なる親父殿が休んでいるであろう居間に向かった。



fin.