時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

鷹の純情、兎の哀訴

おれ、鴻 鷹也。オオトリ タカヤって読むんだ。ちょっと難しいけど、覚えて欲しいな。
家は、鴻鮮魚店っていう魚屋。
父ちゃんと母ちゃんとじいちゃんとばあちゃん、鷲雄兄ちゃん隼兄ちゃん燕姉ちゃん、弟の鴉と双子の妹雀と雲雀。これで家族は全部。多いでしょ?
子供の頃、ひいばあちゃんに良く話されたせいで、おれ、クリスチャンだったりする。別にそんなに熱心でもないんだけどね。
上から数えても下から数えても四番目。背の高さは父ちゃんと兄ちゃん二人に敵わないし、力は隼兄ちゃん、頭は鷲雄兄ちゃんに敵わない。燕姉ちゃんみたく料理も掃除も出来ない。
でも。そんなおれでも絶対に自慢できるものがある。それは、足の速さ。
このことだけは、家族にも誰にも負けない自信がある。それと、走ること自体が大好き。
大切なのは、家族と友達。
幼馴染のトラちゃんは、見た目は強そうな男の子だけど本当はすごく可愛い女の子なんだ。ボクシングもやってて、かっこいい。
もう一人の幼馴染、ヒロは、滅茶苦茶頭がいい。いっつもおれ達に難しい話をしてくれるけど、さっぱりわかんない。でも、すっごくイイ奴。
中学2年まで、おれの生活は、店の手伝いと3人で遊ぶのと、それと走ることしかなかった。
それが変わったのが、中学2年の春から。
この世で一番大切な人を、見つけたあの時から。


×××



真っ直ぐ伸びる白線の上に、きゅ、って手を下ろす。
合図と同時に、腰を上げる。ぐぅっと体重が前にかかる。
早く飛び出したい気持ちを必死に抑えて、抑えて……
パァン!
音が鳴ると同時に、弾丸の様に身体を飛び出させる。背中がぴいんと伸びて、一本の線になる。
一歩足を踏み出すごとに、スピードが上がる。
ただ、前へ。前へ。前へ!
それだけを考えて、足をがむしゃらに動かす。風が髪を、顔を、身体を舐めるように滑り飛んでいく。
―――もっと速く! もっと速く!
身体がスピードを欲しがってる。風が切れる、足が空を切る、まるで身体が浮かんだみたいにに錯覚する。
まるで、背中に羽根が生えたみたいで。
その瞬間が、たまらなく好きだ。
その勢いのまま、ゴールへ走りこむ。
一瞬おいてふき出してくる汗を、風が舐めていく。その冷たさが凄く気持ちイイ。
「すっげーな、鴻! また縮まったぜ!」
「え、本当?」
目の前に突き出されたストップウォッチの数字を確認して、「いやったぁ!」とガッツポーズ。
嬉しい! 嬉しい! 自分が速くなることは、凄く嬉しい。
陸上部の朝は、早い。まだ他の部活も朝錬を初めてないから、おれ達以外の人はグランドにも校舎にもいないだろう。
汗をそのままにしておくわけにいかないから、ベンチに置いてあるカバンからタオルを取り出して――――
タオルを―――
「あれ? あれ? あ――――! おれ超ボケてる! タオル教室に忘れてきた!」
「あぁ? 何やってんだよ」
「馬っ鹿でー」
あぅー。教室にいた時、スポーツドリンク机に零しちゃって…慌てて拭いて、そのまま置いてきちゃったんだ。
「ちょっと行って取ってくる! ゴメン!」
「早く帰って来いよ、顧問に知れたら大目玉だぜ」
「分かってるよ―――!」
返事しながら駆け出した。
二年生の教室はニ階だけど、階段を2段飛ばしで駈けあがればすぐだ。





静かな学校は、朝でも少し怖い。
グランドの声も遠くて、まるでこの世界に、自分だけしかいないように感じられて。それが何となくイヤで、ふにふにと歌いながら廊下を走ってく。先生も全然居ないから、怒られないもんね。
「ターオル、タオル…ついたー!」
がらがらん!
思いっきり、扉を引き開けた。音が教室に響く。
そうしたら、教室の中の人影が振り向いた。
「あ、あれ? ごめん、誰かいたんだ!」
慌てて頭を下げる。吃驚した。まさか誰か居るなんて思わなかった。
そこにいたのは、女の子だった。
小さい女の子。背なんか多分、おれの胸までない。
綺麗な黒い髪を肩のあたりで切り揃えてる。その子は、おれの方に大きな眼を向けてきた。
不思議な眼。静かで、こっちの姿を全部写してるみたいな、綺麗な瞳。
ほんのちょっとだけ、ヒロの眼に似てると思った。ヒロの眼も、こんな風に静かで綺麗だから。
でも…ヒロの眼はじっと見てれば何を考えてるか何となく解るんだけど、この子の眼には何も浮かんでこない。
どうしてかな、とじーっと見ていたら、その子の方が口を開いた。ヘンだったかな、ゴメン。
「…別に、気にしなくていいわよ」
静かで、綺麗な声。瞳と同じくらいの。声を聞いて、やっと思い出した。
「えっと…天城とーこちゃんだよね? うちのクラスの」
どうしてこんなに早く来てるんだろう。他に朝早くやってた部活ってあったっけ??
「…兎子」
「え?」
「トウコじゃなくてトコ」
「トコちゃん? うーん、ちょっと言いにくいなぁ。とーこちゃんじゃだめ?」
首を傾げて言うと、ほんの少しだけ、彼女…とーこちゃんが目を見開いた。
「…貴方、変わってるわね」
「んー、結構よく言われる」
「何で私にそんな馴れ馴れしく話しかけるの?」
「あ、嫌だった? ごめん、おれ人見知りとかしないから、けっこうずけずけ物言っちゃうんだよね」
失敗したなぁ。「貴様は馴れ馴れしすぎる」ってヒロにも良く言われてたのに。嫌われちゃったかな。
「うぅん、そうじゃなくて…」
両手を前に合わせて頭を下げるおれに彼女は何か言おうとして…けど、何も言わずに口を閉じちゃった。あ、忘れるとこだった。タオルタオル。机の中と勉強用のカバンをごそごそ探りながら、さっきの疑問をとーこちゃんに言った。
「とーこちゃんて、いつもこんなに早く学校来てるの? 部活とか?」
「うぅん。………写真を、取っていたの」
「写真?」
良く見ると、とーこちゃんの手にカメラがあった。使い捨てじゃないけど、本格的な写真を撮る大きいのでもない。あんまり詳しくないけどね。
「貴方、走っている時何を見ているの?」
唐突に聞かれた。
「え? 別に……何も」
本当に。何か見たり、考えたりしてる余裕なんてないし。走るだけで精一杯だもん。
「そう…」
その返事が、ほんのちょっぴり残念そうに聞こえたから。
「…どうして、そんなこと聞くの?」
だから、聞いてみた。
「…………」
ずぅっと彼女は黙ってた。でも、答えないんじゃなくて、答えを考えているんだと思ったから、待ってた。
「ここから見えたの。走っている時の貴方の顔。すごく…綺麗だったから。何を見てあんな顔が出来るのかと思っただけ」
彼女の目が、こっちを向いた。大きくて、綺麗で、黒い、瞳。
とくん、と心臓が音を立てた。


あれ?


「き、綺麗って…」
そんなこと言われたのは始めてだから。なんだろう。心臓がどんどん早くなる。頬っぺたが熱い。
「不快に思ったのならごめんなさい。でも、本当にそう思ったの。少しだけ羨ましかった」
そう言う彼女の顔のほうが、凄く凄く綺麗だと、思った。

…どうしよう。

あぁ、神様。

思わず、子供の頃ひい婆ちゃんに教わった祈りを奉げてた。



これが一目惚れってヤツなんでしょうか?






昼休みになっても、そのキモチは収まらなかった。
頭と身体がふわふわする。
身体が軽い。今なら、走って飛べそう!
だだだだだだだ!
「トラちゃ―ん、ヒロ――!」
どすーん!
「どわっ!」
「……」
全力疾走のタックルで、廊下を歩いてた二人に後からラリアットを食らわせちゃった。
どうしよう。
どうしよう。
身体中が暴れ出したい感じ。エネルギーが有り余って。
「タ…カァ〜、いきなしタックルかますんじゃねーよ! どこ行ってやがった!」
ぎぎぎ、とおれの腕の下からトラちゃんがこっちを向いた。
「あはは、ごめーん」
「…その前に私の状況に早く気づけ」
『あ』
忘れてた。手加減無しで突っ込んじゃったから、ヒロが廊下にへばりついてる。
「全く……何故そんなに浮かれている? 余程良い事か嫌な事でもあったか」
「んふふー。イイこと!」
打った顔を擦りながらヒロが尋ねてきたから、満面の笑みを浮かべて答える。生まれてから一番イイコトだよ!
「なんだよ、気持ち悪ぃな」
教えろよ、とトラちゃんが絡んできたので、ごはん食べたらねー、と言って、二人の肩に掴まったまま屋上に昇った。





今日はお弁当の他に、卵サンドとクリームパンとかぼちゃパイ。んー幸せ〜。ごはん食べてるときって無条件で幸せだよね〜。ごちそうさまでした。
ごみを全部片付けてから、目の前に座ってるトラちゃんとヒロの間に顔を乗り出す。
「おれのクラスに、天城とーこちゃんって言う子がいるの、知ってる?」
「あー…天城? あの、セミロングの背の低い…」
「そうそう、その子」
「その女子がどうかしたのか?」
「今朝、朝練の途中で教室で会ったんだよね。一人で、そこにいたんだ」
「へぇ、あいつ何か部活やってんのか?」
「うぅん。それで、同じクラスだったんだけど、今日はじめて話したんだよね」
「あいつ大人しい…つーかあんま人と喋ってるとこ見たことねーなぁ」
「然り。いつも一人で座っているな」
「お前みたいにな」
「失敬な。あんな女子と一緒にするな」
「うん、それでね」
トラちゃんとヒロが漫才に発展しそうになったから、ぐぐっと頭を近づける。二人もどれどれと顔を近づけてくれる。
「おれ、あの子のコト好きになっちゃったんだ」
「………は!?」
ぱかっ、と八重歯の覗く口を開けてトラちゃんが絶句する。
「…………?」
ヒロは無言で、眉間に皺を寄せた。
やっぱり、びっくりするよねぇ。今日突然だもん。でもね、本当なんだよ。
「ちょ…ちょっと待て。いいか? 鷹也」
「うん」
「天城とは今まで一度も話したことなかったんだよな?」
「うん」
「でもって、今日初めて話したんだよな?」
「うん」
「それでなんで急に、す、好きだとかそう言う話になるんだよ! ワケわかんねーよ!」
トラちゃんの顔、少し赤いよ。
「おれもわかんないよ。ただね、今とーこちゃんのこと考えると、ここ」
とん、と人差し指で自分の胸の真中を突く。
「ここが凄く、熱くなるのが分かるんだ。どきどきする。あの子のことがもっと知りたくてたまんなくなるんだ」
これは、本当。今だけで、心臓がぐるぐる回ってひっくり返るくらい、どきどきしてるよ。
「これ、恋愛感情ってヤツなのかなぁ。ねぇ、どう思う?」
多分そうだと思うんだけど、始めてのことだから自信がない。
「し、知るかよんなこと。俺そんな経験ねーもん」
「………理解不能だ。したいとも思わんが」
トラちゃんは真っ赤になって顔を逸らした。ヒロは処置無し、って言う感じで扇子をひらひらさせてる。
「うーん、自分でも実は良くわかんないんだ。でもね」
また熱くなってきた頬っぺたを少し掻いて、
「ちょっと苦しくて、どきどきして、それなのにね」
両手を重ねて胸の上に置く。服の下のロザリオの感触に少しだけ勇気が沸いた。
「すごく、すごく楽しいんだ」



授業中はずぅっと、彼女の方だけ見てる。
おれより一列離れた1つ前。
斜め後ろから、顔が見える。
キレイ。
本当にキレイ。
さらさらしてる黒い髪とか、丸くておっきな瞳とか、きゅって閉じられてる唇とか。
ぼんやり、何をするでもなく、外を眺めてるのを見る。
何を見てるんだろう。
何を考えてるんだろう………
ばしん。
「いたっ!」
「鴻。なによそ見している」
先生に教科書で殴られた。痛い。
周りの皆もくすくす笑ってる。とーこちゃんもこっちを見た。うわー。真正面の顔も、やっぱりキレイ。
「…ほう、そんなに天城のことが好きか?」
「はいっ!」
先生が苛々した感じで聞いてきたから、大声で答えた。
周りに笑い声が弾ける中、とーこちゃんは目を逸らしちゃった。





「とーこちゃあぁん!」
授業が終わった後、すぐに側に行った。
「とーこちゃん、ご飯一緒に食べない?」
「いいえ」
「とーこちゃん、今度の日曜日ヒマ?」
「用事があるの」
「とーこちゃん、今日一緒に帰らない?」
「一人で帰りたいの」
すっ…て立ちあがったとーこちゃんは、黙って教室を出ていってしまった。
昨日は、ちゃんと話してくれたのにな…やっぱり鬱陶しいって思われたのかな。周りの皆はくすくすとかにやにやとかして笑ってる。うー。
「なんつーか…めげないよな―お前…」
「あ、トラちゃん、ヒロ」
いつのまにか、二人がおれの教室まで来てた。
「な、タカ。マジな話、どのへんが良いワケ? あの無愛想が」
「とーこちゃんはブアイソじゃないよう」
トラちゃんに反論。そんなことないよ、凄く凄く優しい顔だって出来るんだ。
おれのこと、綺麗っていってくれた時みたいな。
「…そ、なのか?」
「しかし…あの天城兎子と言う娘……」
おれの言葉に気圧されたみたいに、トラちゃんが下がる。それと同時に、ヒロが口を開く。
「何だよ。なんか知ってんのか?」
「何、何、ヒロ?」
「………否。あくまで噂の域を出ない。私が言うべき事では無いな」
そう言ってるけど、凄くキツイ眼でとーこちゃんが去った後をじっと見てる。
「神宮寺ー、知ってんなら教えてやれよう」
ギャハハ、っていう嫌な笑い声と一緒に、教室の角で固まってたグループの人が声をかけてくる。
おれはあんまり話したことないし、トラちゃんなんかは露骨にイヤな顔をしてる。ヒロは黙って扇子で口元を覆った。
「なぁ鴻ー。止めといた方がいいぜぇ天城は」
「どーして?」
きょとんとして、尋ねた。ヒロが止せ、と言う風におれの腕を掴んだけど、とーこちゃんのことは何でも知りたかったから。
「知らねぇのぉ? アイツ、10歳年上のオッサンとエンコーしてるんだぜぇ」
「あれ、オレ15歳って聞いたけどなぁ」
「どっちにしろ、頼んだらすぐヤらせてくれそーだよなぁ!」


頭の中が真っ赤になった。
「なッ…てめぇら!」
トラちゃんの怒った声が、聞えた。
「ふん、低俗が」
ヒロが軽蔑した様に鼻を鳴らす。
そこまで分ったのが不思議なくらい、何も考えられなくなった。
ガタンッ…!!
机が倒れた音が、やけに大きく響いた。女子の悲鳴が聞える。
「バカ、よせタカ!」
握られた方の拳を、トラちゃんに止められた。
「とーこちゃんの悪口言うなぁっ!!」
「止めろって! 俺に殴らせろ!!」
「虎乎、お前が勇んでどうする。二人とも、退け」
ぴしんっ! と音を立てて、目の前の男の襟首を掴んでた手を叩かれた。ぴりっと痺れて、ふと我に返る。
「な、何だよ。本当のことじゃねーか!」
「そーだぜ、誰でも知ってるだろ、なぁ!」
男の一人が、周りに向かって声をかける。何人かが、眼を逸らした。
ぴしんっ!
もう一発。ヒロの扇子が、こんどは目の前のそいつのほっぺたに入った。
「痛ぇッ! て、てめぇ!」
「痴れ者が。そのような噂が広まっている、と言うだけだろうが。事実かどうかも解らないことを、現実味を持たせて私の友人に伝えるな。真相などその娘本人にしか解らん。大方噂を流すだけ流して、それが再び自分の耳に入ったから事実だと誤認したのだろう。愚者が」
床にへばりついてる男にふんと鼻を鳴らして、ヒロがこっちを向いた。
「そう言うことだ。鷹也。お前なら、どうする?」
ヒロの静かな眼がこっちを向いてくる。すぐに連想して、とーこちゃんの瞳を思い出した。
「…確かめてくるっ!」
それだけ言って、教室を飛び出した。





「とーこちゃん!」
学校中を、駈けまわって、見つけた。
非常階段の近くのドアに凭れかかって、カメラを膝において座ってた。
キレイ。
やっぱり、キレイ。
凄く凄く、キレイ。
どきどきする。変わらない。
「とーこちゃん、さっきね。クラスの人から、とーこちゃんのこと聞いたんだ」
ぴくん、と少しだけ、とーこちゃんの肩が動く。
「とーこちゃんが、年上の男の人と、援助交際してるって。…本当なの?」
「……本当。って、言ったら?」
そうなんだ。
「うん。良かった、って思う」
正直に言ったのに、とーこちゃんは凄くびっくりしたみたいだった。キレイな眼を大きく見開いて、こっちを向いてくれた。
彼女の目に、おれが映ってる。
すごく、嬉しかった。
「……………どうして…?」
心底不思議、っていう顔で、おれのほうに問いかけてくる。
「え、だって。それが本当だったら、根も葉もない噂じゃなかったら、とーこちゃんは傷つかないでしょ? 勿論、イヤイヤやってたりすることだったら違うだろうけど、とーこちゃんさっき答えてくれた時、イヤだとは思ってなかったと思うもん。全然覚えのない噂なんて、ただの悪口だけど。それが事実なら、何も心配することないじゃない」
「……援助交際なのに?」
「だって、何か理由があるんでしょ? お金がいるとか。好きだからしてるとか。それなら、何も問題ないよ」
「……どうして…?」
もう一度、問いかけられた。
「私のこと…汚いって、思わないの…?」
何でそんな風に思ったんだろう。だって、
「とーこちゃんは、汚くなんてないもん。俺がこの世で見た中で、一番キレイな女の子だよ」
正直に言ったら。
呆れたのかもしれないけど、おれの方をもう一度見て。




笑って、くれたんだ。

ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ、唇の端を動かしただけだったけど。

笑ってくれたんだ。


―――――どくんっ…!


心臓が、飛び跳ねた。
あぁ、神様。
こんなことってアリなんでしょうか。


おれは同じ人にもう一度、一目惚れしてしまいました。






心臓が、煩い。
「?」
どうしたの? って言う風に見られたから、また、素直に答えた。
「今の顔、すっごく可愛い」
きっぱりと言い切った。
「あ、えーと、うん、だからね」
どうしようどうしよう、言葉が喉でぐるぐる回る。
「好きになっちゃったんだ。君のこと…」
言えた。案外すんなり言えた。とーこちゃんは、目を伏せた。
「…それで?」
いつも以上に、感情の篭らない声で言われた。
「え? それでって?」
でも、意味が解らなかったから問い返した。
「……だから、それで私に何をして欲しいの?」
「何をって…別に何も? ただ、おれの気持ち、知って欲しかったから」
何か欲しいわけじゃない。
「…援助交際じゃ、ないわ」
「え?」
「………私、好きな人がいるの。大人の、ひと。そのせいで、噂になってたの」
「あ、……そっか…そうだよね、とーこちゃん可愛いし……」
当然だよなぁ。きっと、凄くかっこいい人なんだろう。とーこちゃんが好きになるくらいだから。
…ってゆーか、やっぱり根も葉もない噂だったんだ! 酷いよ! 今度あいつらとっちめてやる!!
おっと、そうじゃなくて。
「その人に逢ってみたいなぁ」
「……どうして!?」
悲鳴みたいな声だった。
「だってさ。とーこちゃんがとーこちゃんの好きな人の側にいれば、おれと一緒にいるより凄くたくさん、笑顔とか見れるよね? だから見てみたいなぁって」
これは、本当。絶対に本当の台詞。
考えただけで、どきどきする。いっぱいいっぱい笑ってくれるとーこちゃんが見られれば、幸せ過ぎて脳が溶けるかもしれない。
「…私は、何をすればいいの?」
本当に困った様に、言われたから。
「君はなにをしたいの? 君がしたいことすればいいよ。おれは、君がしたいこと手伝うから」
笑って、答えた。



不思議な人。
そう思った。
周りの人間は、私の噂を聞いて誰も寄って来ない。
私は、いつも一人。
それが、当たり前だったのに。
彼は簡単に、私の中に入ってきた。
こんなに私に近づく人が、あの人以外に居たなんて。
でも。
私は嬉しいのかしら、
それとも哀しいのかしら。



誰も居ない教室は心地良くて、過ごし易い。
あの人の絵のモチーフになるものを探して、カメラで校庭を何気なく見たとき。
レンズの中に、彼が飛び込んできた。
速い。あっという間に飛び出してしまう。慌てて、後を追いかけた。
速い。速い。速い。
ゴールであろう白線に足が飛び込んだ瞬間。
彼は笑っていた。
本当に自然に、心の底から涌き出て来たような笑みを、その人の良さそうな口元に浮かべていたのだ。
夢中で、シャッターを切った。
すごく、すごく、綺麗だと、思ったから。


「いい写真だね」
「そう?」
この人に誉められるのは嬉しい。この人の役に立つのは嬉しい。
私の声を始めて聞いてくれた人。
「特に、これ。ありがとう、兎子」
「うぅん」
この人がそう言って出したのは、彼の笑顔だった。
やっぱり、彼の笑顔は綺麗なんだ。
「今度こそ、最高傑作が描けるよ。待っててくれ」
「うん。待ってる」
嬉々としてキャンバスに向かうこの人を見るのは、凄く楽しい。
この油絵の臭いで充満したアトリエに、二人きりで居る時だけ、私は幸せだった。
幸せ、だったのに。
この人と居る時と別口の心地良さが、彼にはあった。
よく、解らない。今まで感じたことのない、暖かさが。
「兎子? 何を考えているんだい?」
この人の声に、我に返る。
「僕と居る時は、僕の事だけ考えておくれ」
「うん…ごめんなさい」
ゆっくりと、油臭い腕の中に抱かれる。
その時だけ、幸せで良い。
他の幸せなんて、私には必要ない。






「とーこちゃん!」
あれから一週間ばかり経った、放課後。彼に、校門で掴まった。
「とーこちゃん、一緒に帰ろう?」
「……………」
黙って身体を翻した。
この人に顔を向けては駄目だ。
掴まってしまう。
動きたくなくなってしまう。
「とーこちゃ…」
「来ないで」
拒絶の言葉は、簡単に出た。
「近寄らないで」
鷹也の笑顔が凍りつく。
傷つけた、と思ったが止められなかった。
この人は綺麗だ。
私と違って、ココロもカラダも凄く綺麗。
私がそばにいては、彼も汚れてしまう。早く離れないと、いけない。足が速くなった。
と、私が通り抜けようとした校門前に、不似合いな高級車が滑りこんできた。
「兎子!」
罵声に近い中年男の声が、私の名を呼ぶ。
車から降りてきた男。天城伸也。私の、父親。
認めたくないけど。
荒荒しい足取りのまま、私の前に立ち、躊躇いもなく腕を振るった。避ける気はしなかった。余計怒らせるだけだし。
ぱぁん!
衝撃に、身を竦めた。よろめくほどに、頬が熱い。
「この親不孝者が!」
罵声を叩きつけられながら、私はいつものように冷静だった。この後に来る言葉も、知ってる。
まだ子供なのに。あんな男と。学も定職もない男と関係を持つなんて。汚い。汚らわしい。不良娘。淫らな。けしからん。
煩くない。またいつものように、心を閉じてしまえばいい。何も聞こえない。
何の反応もないと、男は激昂してまた手を振り上げる。単純。
ばしん!
そのはずなのに、次の衝撃は来なかった。
目を開けた。
目の前に壁があった。
私は目を見開いた。
その壁は、振り向いてすまなそうに笑ったのだ。
「ごめん、とーこちゃん…近づいちゃった」





「な、何だね君は!」
自分より10cm以上背の高い相手に見下ろされて、声音が動揺気味だ。
「あんたこそ誰だよ!」
きっと前を見据えて、彼が問う。いつになくその瞳は、強烈な感情を湛えていた。―――怒り。
彼は怒ってる。
どうして?
何に?
「私はその子の父親だ!」
自分が親であることを免罪符にして、勝ち誇る男。
見ているだけで吐き気がする。確かにその符は、強力だから。
それなのに。
「だからどうした!!」
さっきよりも大声で、叫んだ。そこに動揺や臆した感はない。
「親だろうがなんだろうが、女の子の顔殴るなんてサイテーだぞっ!」
あぁ、どうして。
どうして貴方は、そんなに強いの―――?
「な、な……」
怒りのため、真っ赤になって絶句していた男は、ふと嫌らしい笑みを浮かべた。
「き、君もその娘に誑かされた口か?」
「何だとっ!?」
やめて。
「まがりなりにも家の娘には違いないのだが、援助交際だの何だのと。全く、近頃の中学生は…」
「そんなの、どうでもいいだろ! とーこちゃんに謝れ!」
やめて。
「いい加減にしろ! お前も家の娘を買ったんだろう!」
「やめてぇ―――――!!」
絶叫した。
やめてやめてやめて。
お願い、お願いだから、
その人だけは汚さないで!
「とーこちゃん!?」
いたい。くるしい。
貴方は私の名前を呼ばないで。
貴方も汚れてしまう。よごれてしまう!
私は、いいの。
年の離れた人と付き合っている、私が悪いんでしょう?
親の顔に泥を塗ったのがいけなかったんでしょう?
私は、悪い子です。
私は、汚れた子です。
わかってます。
わかっています。
だから!





「駄目っ! そっち、車道……!」
キキキキキィィイッ!
腕を掴まれた。
思いっきり、引っ張られた。
「とーこちゃん!」
耳元で、あの人の声が、聞こえた。
駄目よ、駄目なの、私に近づいたら、貴方も。
「とーこちゃん、目開けてえっ!」
うっすらと、瞳を開けてみる。
眉が8の字になったあの人の顔が、見えた。
綺麗な瞳から、綺麗な水が今にも溢れそうだった。
あぁ、やっぱり。
貴方は凄く綺麗なんだわ。






次に気がついた時、そこに彼はいなかった。
「気がついた?」
視界に入ったのは、木で出来た天井。床に布いた布団に寝かせられていた。
ここはどこ?
自分の横に座っていたのは、見知らぬ女の人。着ているのは制服なので、高校生ぐらいなのだろうが、それにしては大人っぽい。そして誰かに似ている。
「…あの、」
「無理に喋らないでいいわよ。ここ、鷹の家だから」
「たか……鴻くんの、家…?」
「そうそう。ちなみにあたしは、鴻 燕。鷹の姉よ、よろしくね」
誰に似ているかはすぐにわかった。鴻くんに、似ていたのだ。
「つばめ…さん? どうして、私…」
視線を向けると、くすっと面白そうな笑みを浮かべられた。
「びっくりしたわよぅ。鷹の奴が君背負って、『とーこちゃんが死んじゃうぅぅう!』って血相変えて飛んで帰ってきたのよ。聞いたら、車に轢かれそうになったっていうじゃない。でも、たいした怪我がなくて良かったわ。ほっぺただけね」
そう言って、冷やしたタオルを私の頬に軽く当てた。火照った頬がひんやりと気持ちいい。
「あの…鴻くんは……」
「心配しすぎて煩いから、追い出したわよ? 町内一周してきなさいって言ったから、頭冷えたら帰ってくるわよ。……ほら来た」
がたん、ばたんばたんばたん!
『鷲兄ちゃん、とーこちゃんは!? まだ目覚まさない!?』
『落ちつけって、鷹。怪我はないし、気を失ってるだけだから』
『気ぃ失ってるって、結構大変な状況じゃねぇ? …でッ!』
『馬鹿野郎、縁起でもねぇこというんじゃねぇ!』
『たかおにーちゃん、あのおねぇちゃんおともだち?』
『ねぇねぇ、こいびとでしょ? こいびとでしょ?』
「…あいつら、あれで内緒話してるつもりなのかしらん」
薄い襖の向こうから聞こえてくるのは、どう考えても大きすぎる囁き声。ちなみに少し、襖がひのってる。
燕さんは唇に立てた人差し指を当てると、そろりそろりと襖に近づき…思いっきり引き開けた。
『どわああああっ!』
どしゃどしゃどしゃ、と6人の塊が雪崩れてきた。予想よりかなり多かったので、吃驚して身体を起こした。
「あんたたちー? 病人がいるってのに騒ぐんじゃないの! ほら鷲兄、念の為もう一回診てあげて。鷹もちゃんと、詳しく何があったか説明しなさい。隼(はや)兄は父ちゃんと一緒に一番生きのいい魚選んで母ちゃんに渡して! 鴉、あんたは下の部屋片付けなさい! お客様なんだから! 雀と雲雀はお茶とお菓子! 無かったら買ってくる! はい、急いで!」
「あぁ、ごめんごめん」
「よっしゃ、まかせろ!」
「とーこちゃん、大丈夫? 大丈夫??」
「ちぇっ、色気づきやがって…」
「はーい! いこーひばりちゃん」
「うん!」
ぱん! と一発掌を叩くと、すぐさま兄弟達が動き出す。非常に手馴れている。良くある風景なのだろう、この家では。
騒々しいけれど、幸せな家庭。これが、彼の生まれた家なんだ。凄く納得して、肩の力が抜けた。
「ちょっと失礼。気分は悪くない?」
「あ…はい、大丈夫です」
鴻くんより頭半分背の高い、鷲兄と呼ばれていた眼鏡をかけた男の人が私の寝ていた布団の傍らに腰掛けた。
「頭とか、は打ってないんだよね?」
次の問いかけはその隣に腰を下ろした鴻くんに対してだった。
「う、うん。手ひっぱって、受け止めたから…」
「ふぅーん? やるじゃない」
うりうり、と肘で燕さんが鴻くんをつつく。僅かに頬を赤らめて、鴻くんがお姉さんを睨んだ。
学校で見ていたのと、少し印象が違う。やっぱり、兄姉の中で、ほんの少し甘えているのかもしれない。
「うん。外傷もないし、熱もなし。もう大丈夫だね。ただ…」
「良かったぁ……って、ただ?」
「うーん。倒れたのは、どちらかというと、精神的なものの方が大きいんじゃないかな? 睡眠不足の様だし。…心当りは、ありそうだね」
意識せず、顔を強張らせてしまったらしい。気づかれた。
「まず、無理はしないこと。言いたいことがあったら、誰でもいいから言うこと。ウチの弟で良かったら、遠慮なく捌け口に使ってやって」
「鷲兄ちゃん!?」
「そーよ、こんな打たれ強い奴、滅多にいないんだから。お客さん、いい買い物したわね!」
「燕姉ちゃん!!」
「さて、それでは年寄りは退散しようかねぇ燕さんや」
「そうですねぇお兄様。後は若い人にまかせて」
「2人ともおおおっ!?」
「それじゃ、ごゆっくり」
「とーこちゃん? 何かあったら叫んでね、すぐ駆けつけるから」
「人の話を聞け―――!」
ぱたむ。
ぐたり、と鴻くんが畳の上に突っ伏した。その顔は耳まで赤い。
「鴻くん……」
「はいっなんでしょう!」
彼の慌ててる所なんて、始めて見るかもしれない。何となく嬉しくなって、慌てて顔の筋肉を引き締めた。これ以上、彼の前で笑っては駄目なのに。
「ごめんなさい、迷惑かけて…」
「えっ…そんなの! そんなことないよ! こっちこそ、うるさくしてごめん…」
「皆、兄弟なの?」
「うん…今の、一番上の鷲雄兄ちゃん。今、医大の研究室にいるんだ。あと、俺のすぐ上の燕姉ちゃん。高校生だよ」
「ご兄弟…何人いるの?」
「さっきいたので全部だよ。あと隼兄ちゃんと、弟の鴉と……」
とふとふとふ。
襖を叩くちょっと間抜けなノックの音がした。
「?」
「はいどうぞー」
すらり、と開けて入ってきたのは、うりふたつな2人の少女。幼稚園にもいっていないくらいだろうか。
「おちゃとおかし、もってきたのー!」
「おねえちゃん、たべてー!」
紅葉のような手で一生懸命運んできたのだろう、重そうなお盆を2人で抱えて差し出した。
「………ありがとう」
それを受け取って、ふ、と自然に顔が綻んだ。
お盆を置いた後、2人の少女はじっと私の顔を見ている。
「…何?」
「おねえちゃん、たかおにーちゃんとおともだち?」
「ちがうよね、こいびとだよね?」
「ぶっふ!」
お茶を口元に運んでいた鴻くんが思いきり吹いた。私も、顔に出てないけど少し驚いた。
「だって、からすおにーちゃんは『あいつにそんなかいしょうあるわけない』っていってたもん」
「だって、おねえちゃんきれいだもん。きれいなひとがこいびとになるのはいいことなんだよね?」
「雀! 雲雀―! いいから隣で遊んでなさいっ!」
『えー、なんでー??』
同じ顔を見合わせて舌足らずな議論を戦わせる2人の妹を、赤面したまま鴻くんは部屋から追い出した。
「もー…本当、ごめんね。うるさくて…」
「うぅん。平気…」
軽く首を振る。本当に、いつになく気持ちが穏やかだ。この優しい家の中で、優しい人が側にいるから。こんなに安らげたのは、始めてだった。
「あー…どうしよう。とーこちゃん、呆れるかもしれないけど、聞いてくれる?」
「…うん」
「どんどん、とーこちゃんのこと好きになっちゃうんだ。昨日より絶対、おれとーこちゃんのこと好きだもん」
「…………」
「とーこちゃんが悩んでるんなら、何かしてあげたいし。ホント、愚痴聞くことくらいしか出来ないかもしれないけど、おれ……」
「駄目……!」
悲鳴が出た。駄目。駄目。これ以上は駄目! 両手で顔を覆って、俯いた。
「駄目。駄目なの。これ以上、優しくしないで。心地良くならないで。私、弱いから。優しくされたら、甘えちゃうから」
これ以上、貴方を汚すわけにいかないから。
「…甘えることって、いけないこと? 誰だって、弱音はいたり、愚痴りたくなったりすることってあるよ。…おれ、役に立たないかな…?」
「ち、がう。違うの。貴方は、違うの。今まで私の周りにいた人と、全然」
すう、と息を吸って、潤んでいるだろう眼を向けた。
この人は、いつだって私から眼を逸らさなかった。だから、私も逸らしてはいけなかったんだ。
「両親も、あの人も、私から奪っていくの。私の綺麗な所が、どんどん削られていって、汚い所ばかりになって…貴方は、綺麗なの。すごく、すごく綺麗なの」
声に嗚咽が混じった。誰かの側で泣くなんて、始めてかもしれない。両親の前で泣くのは、悔しかった。あの人の前で泣くのは、あの人が悲しむから嫌だった。
「駄目なの。貴方が私の側にいると、貴方も汚くなっちゃうの」
「そんなことない! そんなこと、ないよ!」
悲痛な叫びと共に、抱き締められた。一瞬緊張したけど…嫌じゃ、なかった。
「とーこちゃんは、綺麗だよっ! おれが知ってる女の子の中で、一番綺麗なんだよっ!」
「…ありがとう。あり、がとう。でも、でも、私は、駄目なの。あなた、あなたより先に、あの人に逢っちゃった、から」
「………とーこちゃんは、その人のこと、好き…なの?」
「…好き。好きなの。大好きなの。はじめて、はじめて、私を愛してくれたから。本当に、はじめて、だったの。誰かに、求められたのが、はじめてだったの」
痛い。苦しい。辛いのに、愛する。辛いのに、…好き。
「何かを奪われても、好きなの?」
頷く。
「痛くても、辛くても好きなの?」
頷く。
「……どこが、好きなの…?」
愛してるの。


「……私がいないと、あの人のほうが壊れそうなところ…」



キーンコーン………
チャイムが鳴る昼休み。
結局、昨日そのままとーこちゃんは家に帰った。もしかしたら、付き合ってる人の所に行ったのかもしれない。そして今日、学校に彼女は来なかった。
おれは、自分の教室にいる気がなくて、トラちゃんの教室まで遊びにきてた。誰かの椅子を借りて、トラちゃんの机に突っ伏した。
はじめて、知った。
自分の子供っぽい感情だけじゃ太刀打ちできないような痛い「好き」がこの世にあることを。
ちり、と音をたてて、机に広がるロザリオの鎖を指で弄んだ。


神様。
人を好きになることは辛いです。
「汝の隣人を愛せよ」と貴方は言いましたが、
もし隣に彼女を苦しめる人がいたら、
おれはそいつのことを絶対に許せません。
痛いです。苦しいです。哀しいです。
それでも、おれは――――――


「待たせたな。…何だこの干物は」
頭を扇子でぺちりとやられた。ちょっと顔を上げると、手近な椅子をひいてヒロが腰掛けた。
「知らねーよ。さっき来てからずっとこの調子なんだから。…おいタカ、起きろよメシ食うんだから」
「ん………」
のそ、と身体を起こす。それで、そのまま。
「何だよ、今日弁当じゃねぇのか?」
「だったら素早く買って来るがいい。無くなるぞ」
「うん…いらない。食欲、ないから……」
持ってきてるけど、食べる気がしなかった。
「っ何いいいいいい!?」
がたーん! と叫んで椅子を倒して、トラちゃんがおれの襟首をわしづかむ。
「どーしたんだよタカ! お前が食欲ないなんて……!」
「どう言う風の吹き回しだ? 理解できん」
「うん……。失恋、しちゃったから、かな」
ぽつ、ぽつ、って言ったら、2人の動きが一瞬止まった。
「あ…ん、だよ。そっか…」
ばつが悪そうに、トラちゃんがぎこちなく襟から指を外す。
「それしきのことでお前の底無しの食欲が消えてなくなるのか?」
「ばっ、ヒロ!」
首を傾げて心底不思議そうに問うヒロの後頭部をトラちゃんが思いっきりはたいた。
「うん、自分でもびっくり。朝もあんまり食べなかったのに、お腹、空かないんだ…」
力無く、ちょっと笑った。本当だった。神経の一部が麻痺してしちゃったのかな。
「オイ…大丈夫か? ヤベェよ、腹減ってると嫌な考えばっか浮かぶだろ。無理矢理でも、なんか腹に入れとけ」
その言葉と同時に、箸と蓋を開けたお弁当箱を渡された。トラちゃんお手製のお弁当だ。横を見ると、ヒロが黙ったままお手伝いさんが作った豪華なお弁当をこちらに押しやっていた。
「ん…ありがと……」
ぽつんとお礼を言って、トラちゃんのお弁当から一口、ヒロのお弁当からも一口、食べた。無理矢理噛んで飲みこんだ。喉ががさがさに乾いていた。
ご飯の上に、ぽつんと塩辛い水が落ちた。
「あぁもう、泣くな馬鹿やろ〜!」
ぐしぐしとトラちゃんが頭を乱暴に撫でる。そう言ってるトラちゃんのの声のほうが泣きそうだった。
ヒロは無言で席を立った。そしてすぐに戻ってきて、黙ったまま目の前におれの好きなピーチジュースを置いた。甘い飲み物が嫌いなヒロが。
2人の優しさが痛いほど解って、また涙が出た。





午後の授業が始まると、教室はやけにざわついていた。
その理由は、担任の先生から知らされた。
「えー、残念ながら本日づけで、天城兎子さんが転校することになりました。ご両親の仕事の都合ということで、
急に決まってしまったので、挨拶も出来ずに申し訳ないと天城さんは……」
呆然としてるおれの横で、クラスメートの「おい、あれ天城じゃねぇ?」と言う声がした。反射的に外を見た。グラウンドを通って正門にお母さんらしい人と一緒にに歩いていくのは、……間違いなかった!
びん、と自分の意識が鮮明になった。
とーこちゃんがいなくなる?
このままで本当にいいのか?
だっておれは、まだ彼女のことが好きなのに!
がたん!
椅子を蹴倒して立ち上がった。周りの視線が一斉に集中する。
すゥーっと息を吸い、窓のさんに手をかけ、叫んだ!
「とーこちゃあああああんっ!!!」
彼女が、振り向いたのが、はっきり見えた。
そのままの勢いで、自慢の脚力で廊下に飛び出した!
「タカ、どうしたっ!?」
隣のクラスからトラちゃんが飛び出してきて、その後すぐにヒロの教室の方に走っていったのを目の端で捕らえてから、後はわき目も振らずに玄関まで突っ走った。




走る! 走る! 走る!!
階段を殆ど飛びおりて降りる。靴も履き替えずに、グラウンドに飛び出した。
彼女が誰を好きでも、それでもいい。
彼女が自分のことを好きになれなくても、構わない。
だっておれは、君のことが好きなんだ。
子供でもいい。分からず屋でもいい。
このまま、終わってしまうのだけは嫌だ!
どんな形でもいい、君の中に残りたいんだ!
「とーこちゃん!」
彼女はもう正門辺りに立っていた。
「とーこちゃああああんっ!!」
叫ぶ。喉が裂けるほどの声で。
彼女が振り向いた。母親は足を進めさせようとするが、とーこちゃんは動かない。
殆どの窓から生徒たちが顔を出している。そんな中で、おれはまた叫んだ。
「おれは! おれはっ! バカだし! 何度も君を泣かせるかもしれないけどっ! 君が他の人をどんなに好きでも! おれは! 君のことが一番好きだからっ!!」
どよどよとギャラリーがざわめく。とーこちゃんはじっと、こちらを見ている。
「おれは、変わらないから! この気持ちは、絶対に変わらないからっ! 待てるから! ずーっとずーっと、待てるから!!!」
喉が痛い。息が苦しい。それでも、今叫ばなきゃ自分の喉の意味がない。もう少しふんばれ!
「君が本当に、耐えられないぐらい辛くなったら、おれのところに逃げてきていいから! だから!!」
少し、ほんの少しだけ、とーこちゃんの足がこちらに動いたような、気がした。
「だからっ! 好きでいても、いいかなァ―――――!!」
感情を動かさなかった瞳が、揺れた。
完全に、とーこちゃんの顔がこちらに向いた。
「………あなたが!」
大きな声だった。おれが始めて聞く、凄く大きな声。
「あなたが、待てるなら!!」



「…………………ッ」



一瞬の間。
「いやったああああ―――――!!!」
両腕を振り上げ、飛びあがる。着地と同時に、ガッツポーズ。
「タカ――――ッ!!」
後ろから走ってきたトラちゃんが、おれの後首にダイブ・ラリアットを食らわせる。走ってフラフラになったヒロは、黙って背中を平手で思いきりひっぱたく。
まだ、大丈夫。
まだ、終わりじゃない。まだ、終わらせない。
止まるのは得意じゃない。足が動く限り、走りつづけたい。
だから、だから!
もっと速く!
もっと走れ!














とーこちゃんへ。
あれから、もう2年近く経つんだね。
あの後すぐ、君が転校先から失踪したって噂になった。
色々な憶測が飛び交ってたけど、君は多分、「あの人」と一緒に行ったんだよね。
だから君の住所に手紙を出しても、君が読むことはないのに、おれはまた手紙を書いてる。
君はいったい、どこにいるんだろう? 
暑いところかな?
寒いところかな?
もしかしたら、外国かもね。
怪我とか、してないかな?
風邪とか、ひいてないかな?
健康には本当に気をつけてね。

おれはね、高校生になったよ。燕姉ちゃんの通ってる土生東に受かったんだ。また、トラちゃんとヒロと一緒。
ここで大ニュース! トラちゃんに好きな人が出来たんだ! 背の高い、カッコイイ同い年の人だよ。強面だけど、優しそう。トラちゃんにお似合いだとおれは思うんだけどなぁ。
ヒロは、相変わらず。お父さんとは、やっぱり上手くいってないみたい…。

こっちは、本当にみんな元気です。
君は、何をしてるのかな?

辛くないですか?
苦しくないですか?


…今、幸せですか?


おれは本当に、いつまででも待てるから。
本当に辛くなったら、いつでも飛んでいくから、呼んでください。
地球の裏側にいたって、別の星にいたって、走っていくから。


鴻 鷹也。








「ただいまー!」
「おぅ、お帰り!」
店先に駆け込んだおれに、店番をしていた隼兄ちゃんが手を上げて答える。
「父ちゃんは?」
「問屋だ。鷹、後で配達頼めるか?」
「うん、平気!」
靴を脱いで家に上がる。
「あ、お帰り! 早かったわね」
「うん、今日自主錬だけだったから。…何?」
にやにやしながら燕姉ちゃんが手を後ろに回してる。???
「お手紙、来てたわよ。ありがたく受け取りなさいな」
そう言って渡された封筒には、宛名以外何も書いていなかった。水色の、シンプルな封筒。
でもおれは、その差出人が誰だかもちろんすぐわかった。
そして封を開けるのが勿体無くて、太陽の光にそれを透かして見た。
まだ、大丈夫。
まだ、走れる!



fin.