時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

バレンタインスペシャル

細かく刻んで湯煎で溶かしたチョコレートにバターや卵黄、砂糖をいれて手際良く混ぜる。全体が白くもったりするまで泡立てると、それを確認した本人は満足げに息を吐いて呟く。
「ま、こんなもんかな…?」
指の長い大き目の手にしては小器用な動きで、下ごしらえを終えてゆく。
トラのアップリケの
ついた黒いエプロンと、お揃いの三角巾でしっかり金髪を纏めた虎乎は、そこに更に泡立てた残りの卵黄と生クリーム、ココアパウダーと小麦粉を加える。
「とらちゃん、入っていーい?」
と、ダイニングの入り口からひょこりと長い黒髪が顔を出す。
「里馬? いいぜ」
「うわぁ〜、いいにおーい」
キッチン全体に広がるチョコレートの甘い香に、虎乎の実の姉・里馬はうっとりと目を細める。
「何作ってるか解るか?」
「えぇっとね…う〜ん、チョコケーキ?」
「ビンゴ」
目の前に広げられているお菓子の元達をじっくり観察して、小首を傾げて里馬が答えると、虎乎はにっと笑って親指を立てて見せた。
「おいしそう〜! これ、明日のバレンタインのだよね」
「あぁ。タカの奴食うから、コレぐらい作っとかないと無くなるからなー…」
6号サイズの金型にバターを塗りながら虎乎はぶつぶつと言う。毎年この時期になると趣味と実益を兼ねたチョコ料理を作るのは虎乎の仕事だった。それはいつもだったら大切な姉や幼なじみの親友達に振舞われるのだが。
「日野くんの分もあるしね♪」
ぐに。
何気なく言った姉の一言に、虎乎は盛大に練り込み用バターナイフを曲げた。ユリゲラーも吃驚な角度で。
「な、っ、何言ってっ」
「あれ? …にちやくんに、あげないの?」
めぎ。
今度は金型が曲げられた。
「で、だ、出来るわけな」
「も〜。とらちゃんのケーキ、食べたくないひとなんていないよ? きっとよろこんでくれるよ、だからねっ」
「そ…そりゃちょっとはー、あげよっかなー…って思ってたけどさ…」
意外と白い肌の顔を力一杯赤くしながらぼそぼそ言う妹の姿に、姉は目を輝かせる。
「でしょ? でしょ?」
「け、けど…どんなカオして渡せばいいんだよーっわかんねえよ〜!!」
ぎゃーと叫びながらその場に頭を抱えてしゃがみこむ。金型に振りかけられていた薄力粉が宙を舞った。
心を奪われてしまったかの青年に会ってからもうすぐ1年近くなるというのに、未だに進展がないのは偏に彼女のこの恋愛引っ込み思案のせいであろう。
兎に角、自分に似合わないことをすると嫌われるのではないか…と思って、足が鈍ってしまうのだ。
「がんばって、とらちゃん! …あのね、わたしもがんばりたいの」
「言えるかよ手作りなんて…って、何? 里馬」
両の拳を握り締めて、一生懸命喋っていた里馬がふいに俯く。右往左往していた虎乎も漸く気付き、視線を姉の目に合わせる。
「あのね…」
「うん」
「あのねぇ……」
「………」
「…チョ、チョコの作り方…教えて…くれる?」
妹に負けないぐらい顔を真っ赤にさせた姉の顔に、ぴしっと虎乎が固まる。妹と同じ、或いはそれ以上に恋愛に対しては大人しい里馬が、そんな行為に及ぼうとするほど親しい異性と言えば。虎乎の友人以外に。
「…まさかあのクソ猿にやんのか里馬―――!!!」
「だってだってだって〜!!」
脳裏にあの歪んだ笑みと笑い声が走り、虎乎はそれを振り払うかのように絶叫する。それに負けないぐらいの大声で里馬に返されたが。
「とらちゃんは、いっつも怒るけど…えんやくんには、わたし何度も助けられてるよ? だ、だから、そのお礼にも…と思って。わたし、自分でお料理したことないから…教えて欲しかったの」
目に涙を浮かべたまま、両手をきゅっと握って里馬が続ける。その必死な姿に虎乎の肩の力が抜けた。いつだって、自分の恋の応援をしてくれた姉。その姉がこんな願いをしているのに聞かないなんて妹じゃない。その先にいるのがあの純正サディストであることはとても耐えがたいが…。
「あ〜、解った。解ったから泣くなって…」
「おしえてくれる…?」
はぁーっと溜息を吐いて、虎乎が折れる。ふにゃっと泣きそうな顔のまま問うてくる姉に、力なく頷いた。ぱあ、と里馬の笑顔が輝く。
「ありがと、とらちゃん〜!」
「じゃあー…やっぱ簡単なのって言ったら、トリュフかな…」
二人でお菓子雑誌を覗き込み、何やら計画を立て始める。どんな理由があるにせよ、凸凹姉妹の背中はどこかとても幸せそうだった。





〈同刻・神宮寺家リビング〉


「は〜あ」
毎年この時期になると、テレビも雑誌も全てチョコレート一色になる。別に嫌いではないが、こうも力一杯商業戦線に乗せられると、はっきり言って萎える。くせっ毛の頭を軽く掻きながら、未亜希は溜息を吐いてテーブルの上に置いてある塩煎餅を一枚齧った。
「作らないのか?」
「っきゃああああっ!!?」
唐突に、耳元に低音で囁かれて絶叫した。何回やられても慣れない。慣れたくもない。
「尋巳ー! その嫌がらせは止めてって何回言ったら解るのよー!!」
「嫌がらせではないぞ。愛情表現だ」
「あんたがそう言う事が力一杯嫌がらせなのよおおおっ!」
無表情のまま扇子を口元にやり、そう言い切るこの義理の兄―――神宮寺尋巳は、耳をごしごし擦りながら毛を逆立てて警戒する義理の妹―――未亜希に、感情の篭らない視線を向けた。
「虎乎は今日休み返上で菓子を作っているであろう。私にはそれに込められた意味と言うのは今一つ理解できないが、女性にとっては大切なモノなのだろう? 何故お前はやらないのだ」
「あっそ。悪いけどあたしにそんなお菓子会社の策略に乗るような浅はかさは無いの。あげる相手だっていやしないし」
「ここにいるぞ」
「………………はい?」
何やら聞き捨てならない台詞を聞いたような気がして、ぎしりと身体が固まる。ようやっと返事を返して動き出した身体に、尋巳は更に爆弾を投下する。
「お前の作ったモノなら、食してみたいのだが」
「な、何馬鹿なこと言ってんのよ。大体、あんたなんか毎年山ほど貰ってるんでしょ?」
「あぁ。学校の先輩と同輩と後輩と、親父殿の付き合いの方からの繋がりでも色々と来るな。将を射んとすればまず馬を射よという奴だ。…む。しかしそれでは私が馬になってしまうのか。理不尽だ」
「あんたって頭良いけどバカよね。ってそうじゃなくて、それだったら尚更、あたしのなんていらないでしょっ」
僅かに上がる語尾に、これじゃやきもち焼いてるみたいじゃないの、と慌てる。違う違う、絶対そんな風じゃなくて…
「アレは『好き』な人間とやらから貰わないと意味の無いものなのだろうが。ならば私は、お前以外その条件を満たす者が見つからない」
きっぱりと。何もかも断ち切る様に言われて。
ぺしーん!
「……む」
「あ、あ、あ、あんたの寝言なんか聞きたくなぁーい! それで充分でしょ、バカァ!」
力一杯食べかけの塩煎餅を額にぶつけられ、うめいている間に自分の部屋に逃げられた。ぺりっとそれを剥がすと、ぱきっと小さく一口齧る。
「…ふむ」
母親が職場で貰ってきた、何の変哲もない安物の塩煎餅。
「美味だな」
それなのに、何故かそう感じたので。
ぽり。ぱりぱりさくさく。んごく。
いつになく早く口に全部入れて飲み下した。細い指についた塩を軽く舐めて、
「うむ、確かに充分だったな」
満足げに一つ頷いて、礼を言う為とお返しは3月14日で良かったのだったなと確認する為に、顔を真っ赤にして篭っているだろう未亜希の部屋に向かって階段を昇り出した。






〈2月14日朝・土生東高校玄関〉


その日は、何故か学校中が桃色のオーラに支配されているような気がする。
そしてもてる男ともてない男の間にある深くて暗い河がはっきりと見える日でもある。
どさぼさどさ。
靴箱を開けた瞬間、つま先に降ってくる色とりどりの箱を睥睨し、尋巳はひとつ溜息を吐く。
「うわ〜、今年もすごいね、ヒロ」
「ふん。欲しければ持って行け」
「わーい、ありがとー!」
隣からその光景を見下ろして目を輝かせる欠食児童・鷹也の声に、尋巳は馬鹿にしたように鼻を一つ鳴らすと、本日の収穫物の処理を一番簡単な方法で終えた。
「お前らなぁ。人の好意をムゲにしてんじゃねーよっ」
しゃがみこんで嬉々として箱を拾い上げる黒い頭をひとつぽかっと叩き、三角形の最後の頂点、虎乎が詰る。
「人の履物が入っている箱の中に食物を入れるような不衛生な人間に誠意を払う必要は無いな」
「大丈夫だよー、全部食べれるから」
「そういう問題じゃねっての」
デリカシーとテレパシーの区別もつかないような男友二人のずれた答えに同時に両手で突っ込みを入れる。
「一番貴重な物は昨日貰ったからな。もう必要無い。お前も渡したいのなら渡してくればどうだ」
「うぐ」
「えっ、トラちゃんのチョコ? わー食べたい食べたいっ!」
「痴れ者が。虎乎は今年は日野龍樹以外に召し出す菓子等んむぐ」
「黙れ。良いから黙れ!」
「トラちゃん、その抑え方だとヒロ息できないよ?」
玄関で即席漫才を始める3人の後ろに人影が一つ。
「はよっす。相変わらず仲良いな、お前ら」
真後ろからかけられた心地良い低音に、虎乎の身体がぎしっと止まる。
「日野くんおはよー」
「早いな、日野龍樹」
虎乎の横から鷹也と尋巳がひょいっと顔を出して挨拶する。虎乎はまだ動けない。
「おい、瀬川?」
ぽむ、と肩を叩かれた。そこが限界レッドゾーン。
「…………ぅわ―――っっ!!!」
ぐわっと顔を紅くした次の瞬間、自ら吹っ切る様に絶叫し。一瞬引いた龍樹の方にくるりっと向き直って鞄の中から大き目の箱を一つ取り出し、叩きつけるようにその腕の中に押しこんだ。
「不味かったら捨ててくれ!」
「お、おいこれっ…」
俯いたままそれだけ言い残して、再び踵を返すとずだだだだだ――――っ!! と全力疾走で教室まで走っていった。
「うわー…早い早い。今おれの100mタイムより早かったかも」
「まぁ、奴にとっては限界の及第点だろうな…褒めて遣わす」
廊下に何故か立っている砂埃を見ながら、さっそく一つ開けた豪華なメーカーチョコを頬張っている鷹也と、一杯一杯な友人を祝福するかのように扇子を閃かす尋巳に挟まれ、龍樹はしばし呆然としてリアクションが返せなかった。





〈同日昼・土生東高校科学準備室〉


「フラフラ街を歩きまわれば〜誰もが幸せに見えてぇ〜♪ 僕だけ・弾かれ・てーるみたいー優しく君が抱っき締めてよ〜」
鍵を開けて忍びこんだ科学準備室で超・ご機嫌に歌いながら何かを作っている悪友の姿が余りにも恐ろしくて、丑治は反対側の壁に張り付いたまま動けない。
「こうなりゃトコトン追い詰めって〜僕しか見えなくしてやるぅ♪ 気付けば・随分・来たもんだ、そろそろ本気出しちゃうよぉ?」
「出すな―――!!!」
どんどん怖くなる歌詞に耐え切れなくなって必死に突っ込む。
「うっさいなぁチュウジ、邪魔すんなよ。あぁもうじれったいやぁ〜♪ ひーとつになっちゃえーぇえ♪ 僕のっもっのに〜なーればいいーのに〜♪ なっにっがっ不満だあ〜、こーのっ世界でーぇえー、たった二人にっなれっば〜、否応無しでもー僕が欲しくなーる♪」
「待て! お前本気で何作ってる!?」
ぼこぼこと変な泡が沸いているビーカーが恐ろしい劇物に見えて、泣きそうになる。こいつならやりかねないと思ってしまえるのが凄く嫌だ。
「あのな、いくらオレでも人類殲滅出来るような便利な毒薬作れるわけないだろ。これはチョコに入れるの。やっぱバレンタインって言ったら勝負時だろっ★」
「聞きたく無いけど本当に何入れる気だ。そして今何気に便利って言ったなお前」
「えーっと、自白剤と媚薬」
ごきゅ。
丑治の頭が壁にめり込んだ。
「それからー…あ、下剤も入れてみよっかな。あとWebで調べた変な惚れ薬の材料とか」
「止めろ。本気で止めろ。俺は犯罪者の知り合いなんて持ちたくないんだー!」
「よし、試作品壱号完成。ほらチュウジ、口開けて?」
「………………」
ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。
顔面蒼白のまま口を両手で抑え、光速で首を振る。
「いーから、開け」
じりっ、じりっ、と勝ち誇った笑みを浮かべたまま距離を縮めてくる猿耶に部屋の隅まで追い詰められ。
(瀬川先輩…すいません…俺にはもう、こいつを止める力が…お父さんお母さん、先立つ不幸をお許し下さい…子乃、今なら言える…俺は、俺はお前が―――)
何故かシリアスに時世の句を呟きながら、丑治の意識は完全に闇へと沈んでいった。






〈同日昼過ぎ・土生東高校裏庭〉


どきどきどきどきどきどきどき。
煩い自分の心臓を服の上からきゅーっと抑え、里馬は緊張と戦っていた。
手にしているのは自らラッピングしたトリュフチョコレートの包み。初めてにしては上手くいった、と妹にも褒められた。
あとは、渡すだけだ。呼び出しは人づてに頼んでおいたので、多分来てくれるはずだ。
実際、受けとって貰えるか貰えないかと言ったら、貰えない確率のほうが数段高いだろう。何せ、相手の泣き顔が三度の飯より好きな純性サディスト。それでも自分は、なにかお礼をしたかったのだ。
「里ー馬ちゃん」
びっくん、と身体が震える。何故かいつになくトーンの低い声で名前を呼ばれたからだ。
「え、えんやくん、ありがと、来てくれて…」
「用件、なに?」
口数の少ない猿耶に、里馬の方が戸惑う。いつもだったらハイテンションな声と共に思いきり抱きつかれるのが当たり前だったので。
実際猿耶の機嫌は悪かった。里馬に自作薬入りチョコを食べさせて本日こそお持ち帰り決行を狙っていたのに、実験台が試作品壱号で気絶してしまいその後作成が捗らず、結局完成できなかった。
そんなことも知らない里馬は、おずおずと包みを両手で差し出す。
「こ、これ、ね。バレンタインの…チョコ、なの。う、受けとって…くれる?」
顔を真っ赤にしてきゅっと目を瞑った里馬の両手が、ふっと軽くなる。受け取ってくれた? と思わず開いた里馬の目に映ったのは、にぃ、と口の端を歪めた猿耶。
里馬が一つ瞬きした瞬間、
ぽそっ。
猿耶はその包みを地面に落とし、
ぐしっ!
何の躊躇いもなく、土足で踏みつけた。
「っ……〜〜〜!!」
悲鳴もあげられない里馬の目の前で、ぐしゃぐしゃと甘いお菓子は踏み潰されていって。
「ぅ…うぇえっ…ふええええん……」
ぽろぽろぽろと里馬の目から涙が零れ落ちる。
やっぱり、受けとってくれなかった。覚悟はしてたけど、やっぱり悲しい。
と、ほろほろ流れる雫が、ついっと指で拭われる。猿耶の男にしては細めの指先が塩辛い雫を一つ爪先に乗せ、れろっと赤い舌で舐める。
「里馬ちゃん…可愛い♪ …あ〜駄目、やっぱ我慢できねーっ!」
辛抱堪らん! という風に、里馬の身体を自分の腕の中に思いきり引き寄せた。
「えっ、えっ、えんやくん?」
「ん〜っ、可愛い可愛い〜♪」
目尻と言わず頬と言わず、顔中にキスの雨を降らせる猿耶に里馬は真っ赤になった。先程の衝撃と涙まで一気に吹き飛んでしまった。
「キッヒッヒッヒッヒッヒ。これ、手作りだったぁ?」
泥だらけになった袋を拾い上げ、その中から飛び出してぐしゃぐしゃに潰れたトリュフを一個摘み上げる。
「う、うん…ひどいよぉ、えんやくん…」
また悲しみがぶり返してきた里馬の頬をぺろっと舌で舐めてにやりと笑う。土のついたトリュフだった物体を、何の躊躇いもなくぽいっと口の中に放りこんだ。
「あぁ! だ、だめ、おいしくないよぉそれ…」
じゃりじゃりもくもく、ごくん。
至近距離で食べられたので、砂利を噛み締める音まではっきり聞こえて里馬は顔を青くした。そんな里馬の様子を全く気にせず、一つ、更にもう一つと口にチョコレートのなれの果てを詰め込んでいく。
もきゅじゃりもぐもぐ、んぐっく。
「ゴチソウサマ♪」
「ぜんぶ、食べちゃったの…?」
「うん。…美味しかった、ありがと♪」
耳元で囁かれた礼に、里馬の顔が赤く戻った。
「な、なんで、チョコふんづけちゃったの…?」
「えー? 決まってるじゃん、里馬ちゃんの泣き顔見たいから♪」
「ひどい…ぇっく」
「里馬ちゃんが悪いんだよ? 俺のことそそる泣き顔ばっかり見せるから」
「そんなことないもん〜…」
校舎裏で、純性サディストと憐れな子羊の睦言は暫く続いた。





〈同日夕方・瀬川家子供部屋〉


「ただいまー…」
泣きはらした目を擦りながら、里馬が帰宅する。あれからちょっとつつけばすぐ涙が出る涙腺の緩い状態のまま、散々猿耶に弄ばれてしまった。しかし実際のところ、猿耶の機嫌が直らなければ本気で家に連れ込まれていた可能性が限りなく高いので、彼女はある意味幸運だったのだと言う事は勿論気付かない。
「チョコ、食べてくれたし…」
あれだけ酷い事をさせられておいて、それでも嫌いになれないのは不幸としか言いようが無いが。
「とらちゃん、ただいまー………」
がちゃ。
ごごごごごごごごごごごご。
妹と兼用の部屋の中に、暗雲が渦巻いていた。発生源は当然、机の前に座って突っ伏している虎乎だ。
「と、とらちゃん? どうしたの、だいじょうぶ?」
「…………あー…里馬ぁ?」
慌てて駆け寄った姉にゆるゆると上げられるその顔は、何とも情け無い「後悔」で一杯だった。
「とらちゃん…」
「どーしよ…絶対呆れられた…すんげぇビビってた…」
「にちやくんに、チョコわたしたのね?」
「ん…何も言わず…せめて義理ー、とか言ってれば笑って流してくれただろーに…あああ俺のバカ…」
「でも、受けとってくれたんでしょ?」
「突っ返される前に逃げてきた…」
「も〜…」
ピピピピピピ。
ひたすら落ちこみの沼地に嵌っていく妹を何とか引き上げようとした里馬の耳に、子機からの外線が入る。両親は勿論この恋人達の蜜日を逃すことなく外出中である。
「はい、もしもし、瀬川です〜。あっ…はい! ちょっと待っててくださいね?」
受話器を持ち上げた里馬が、ぱっと顔を輝かせる。?となっている虎乎の手に子機を握らせ、
「にちやくんからだよ?」
呟いたその言葉にごとん! と虎乎が機体を落とす。慌てて切れていないかと拾い上げたが。
「も、もしもし!?」
『よ、瀬川』
勢いで出てしまった電話から、低音声が聞こえて、恥ずかしながら腰が抜けた。ぺたん、と床に座るが目に生気の戻ってきた妹の姿に姉は安堵し、こっそり部屋から出ていった。
「な、あっ、えーと…きょ、今日はゴメン! 無理矢理押しつけてっ…あ、ぎ、義理…や、そうじゃなくって…えぇとっ」
恥ずかしさと本音が葛藤してあっちこっちに飛び捲くる話が、電話の向こうから聞こえてきた抑えた笑い声で止まった。
『サンキュな。美味かった』
次のこの答えで、完全に思考が停止した。
「………………」
ぽつ。
膝の上に、雫が一つ落ちた。
これぐらいで何やってんだバカ、と自分を責めて見たけれど。
それ以上に、嬉しくて嬉しくて堪らなくて、仕方なかった。
「……マジで?」
僅かに掠れた声を叱咤して、何とか絞り出す。
『あぁ。流石にあれ全部は食えなかったから、半分ぐらいお袋にやっちまったけど、いいか?』
本来仲間内に分けてからお裾分けとして龍樹に…と思っていた虎乎が作った代物なので、一人で食いきれるわけがない。
「も、勿論…つーか持て余させてゴメン…」
『馬ッ鹿、気にすんなよ。それよか、マジで美味かったぜアレ。手作りだろ?』
「あ…うん、まぁ…」
『すげぇな。あれだけのもの作れるなんて』
意外さからの笑いでも、不審でもなく、ただ純粋な賛辞。それだけだからこそ、酷く嬉しかった。
「や、そんなに難しくも無いんだぜ? あのさー…」
目尻を乱暴にこすってから少し笑い、虎乎は椅子に肘を預けて長電話の体制に入った。





〈同日夕食時・紀野島家長男部屋〉


腹が痛い。
あんなとんでもないもの無理矢理食わせられたんだから当たり前だろうけど。
どうやって帰りつけたのかいまいち覚えていない自分の部屋のベッドの上で、丑治は僅かにうめく。
と、こんこんと控えめなノックの音がする。ノブより低い位置が叩かれたそれに、丑治はがば、と身を起こし。
「おにいちゃん、いーい?」
「子乃っ! …どうぞ?」
かちょ、とドアを開いて入ってくるのは、もうすぐ小学2年生になる実の妹、紀野島子乃だった。
「おにいちゃん、おなかいたいの?」
「や、もう治ったよ。平気」
「ほんと?」
「ホントホント」
眉を八の字にして心配そうに聞いてくる妹に、にっこり笑って大丈夫だと言ってやると、彼女はもじもじとして後ろ手に回していた手を差し出した。
「?」
黙って突き出されるそれの下に自分の手をやると、ぽとっと一つ落ちてきたミルク味のチロルチョコ。
目を見開いて固まった丑治に、子乃は兄の葛藤など気付かずに笑う。
「きょうはばれんたいんだからー、おにいちゃんにチョコあげるの。…もらって、くれる?」
顔をちょっと赤らめたまま上目使いで聞いてくる妹に、鼻血を吹きそうになる自分を必死に堪える。て言うかその前に幸せ過ぎて昇天しそうだ。まさかまさか、この子から貰えるとは!
(神様ありがとう…これは奴の犯罪計画を未然に防げたご褒美ですか…?)
まぁ、偶には良い思いをしてもいいでしょう。





〈同日夜・鴻家三男・四男部屋〉


「うーん」
弟と兼用の部屋で、鷹也は一人悩んでいた。年子の弟が帰ってきていたら、かんしゃく持ちの彼に鬱陶しいと怒鳴られただろうが、幸いまだ帰ってきていない。鷹也は珍しく、一生懸命悩んでいた。悩みながら、しかし顔はどんどんにやけていく。
「どうしよう…どうしよう、食べたいけど、食べたらなくなっちゃう…」
周りにあるラッピングの残骸は、全て尋巳から貰った本命チョコ達。彼らの中身は全て鷹也の腹の中に収まっているが、彼自身は平然としている。
そんな彼が持っているそれは、小さな小さなチョコの包み。今日帰ってきたら、郵便受けに突っ込んであった小さな箱の中。
入っていたのは、一口サイズのアーモンド入りチョコと何も書かれていないカード。
それだけで、鷹也は誰が贈ってくれたものか解った。
だから悩んでいるのだ。かの人からのチョコレート、すぐに食べたいけれど、食べたらもう無くなってしまう。こんな小さなそれを分けて食べることも出来ない。食べたくない。でも、食べたい…
「うわ〜ん。どうしよう……」
幸せな悩みを抱えながら、彼女の無事を祈って、鷹也はもう一度溜息を吐いた。



fin.