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ルカによる福音書・第一章


この卑しい女さえ、
心にかけてくださいました。
今からのち代々のひとびとは、
わたしをさいわいな女と言うでしょう。





ただ、二人で其処に存在していた。
抱き合ったまま、聖堂の床に二人で座って。
時間も空気も、それを許してくれた。
この、閉じられた鳥篭の中で。



色々なことを、話した。
「子供の頃、私は自分が嫌いでした」
「あたしも」
「それは、義父に教えを請うてから、ますます酷くなりました。自分の存在が、祝福されるものではない、汚い存在だと解ったからです」
「留架は汚くないよ」
「…ありがとうございます。ただ、誰がそう言っても私は私に対する嫌悪を拭い切れなかった。だからこそ、他に縋るものを切望して……神を探そうと思った」
「…そんなの」
「シっ…聞いてください。黙っていて。…お願いです」
「…うん。しょうがないなー」
指を一本、亜輝の柔らかな薄紅色の唇に当てた。それに合わせて言われた懇願に、亜輝は頷いて笑った。
「…この世界を探して。知識を総動員させて。解ったことは、『この世のどこにも神は存在しない』という事実でした」
打ちのめされた。しかし同時に、
「人がどこまで天に昇ろうと、神は居ないのだと知りました」
「それで? 絶望した?」
「いいえ」
「………」
「生まれて始めて、神に感謝を奉げました」
「…どうして?」
「…感謝を。存在していないでくれてありがとうと。これ以上貴方を絶望させないでいてくれてありがとうと。そうでしょう? もし本当に神が居るのなら―――この世界はこんなにも、絶望に包まれていない。こんなにも、苦しくない。私のような存在を、放っておくわけがない―――」
断罪を望んでいた。
こんな不遜な考えの持ち主を、裁きの雷で焼き払ってくれれば、貴方の存在を涙を流して受け入れたのに―――。
「誰からも祝福されずに生まれ、何時まで経っても『神』を信じることが出来ない偽善者を、裁かない訳がないのですから」
自虐による渇望。答えを求めた結果は。
「…辛かった?」
「……はい」
これは、懺悔だ。
誰にも届かない祈りではない。
答えを返してくれる人が、隣にいる。
誰かに、聞いて欲しかった。
答えを出して欲しかった。
「そんなに、答えが欲しかった?」
「はい…」
声が掠れた。
何故か、と思った瞬間、頬に暖かいぬめりを感じた。
目の前の少女の舌だった。その赤い舌で、ぺろぺろと頬を舐めていた。
否、正確には頬を伝っていく水を。
「…これは……」
「…しょっぱいね」
呆然としている留架。物心ついた時から涙を流した記憶が無かったので、一瞬正体が判らなかったのだ。
いつのまにか零れ落ちていたそれを、綺麗に舐めとって亜輝は笑った。
「…あたしは、頭悪いし。神なんてこの世にいるわけないって思ってるし。でもね。解るよ。留架が、ずっとずっと苦しんできたってことは」
留架の首に白い腕を回して、引き寄せた。
「あたしは、ずっと自分が独りだって思ってた。それが、怖くて仕方なかった。あたしは、縋りつけるんなら誰でも良かったんだ。側にいてくれるんなら…何でも出来た。薬でも、セックスでも」
背中に回された留架の腕が、ぴくりと強張る。
「でもあたしは、それが自分を汚くしたなんて思ってない。何をしても、何をされても、あたしは変わらない。そのことを、解ってくれるだけで、良かったのに」
言い訳に聞こえる自分の言葉が嫌になるけど。緊張しているけれど、拒絶を感じない留架の腕が嬉しくて、ますますしがみついた。
「皆、あたしのこと淫乱だって言うから。だから、淫乱になろうと思ったよ」
自我を確立するプライドと相反するのは、どうしようもない孤独感と媚。求めているのは一つだけなのに。
「あたしを見てよ。あたしを感じてよ。あたしを、世界に入れてよ…」
返事を求めることと、拒絶を恐れること。それは二人の中で近しいものだった。
自我の確立を求めて絶望した二人の迷子。
有象無象の中から、同じ魂を持つ者をやっと見つけて。
迷い合ったもの同士の道が繋がっても、二人で惑うだけなのかもしれないけど。
「…そばにいて」
「…はい」
それは決して孤独ではないから。
「私で、良いのなら」
「…留架は、汚くなんかないよ。キレイだよ。あたしが今まで見てきた人間の中で、一番」
洗い流されていく、現世の澱。
「貴方こそ。私がいる限り、この世で一番美しい女性です」
「…それ、誉めすぎ」
「その言葉、そっくりお返ししますよ」
「あたしはいーの」

独りでは生きていけない、デキソコナイの人間達。

離れたくない。
離したくない。


ただ、それだけ。




数日後、志堂が教会を訪ねてきた。
最初警戒していた亜輝も、彼のことを思い出していきなり意気統合し、留架は予想が当たって米神を抑えていた。
志堂は、不必要なぐらい留架の側から離れず、常にどこかしらを掴んでいる亜輝に目をやって、苦笑した。何も言わなかった。
ただ、「餞別だ」と言って、鍵つきの手錠を渡した。
「…これをどうしろと」
「付けとけよ。二人で」
留架は困惑していたが、亜輝の方は瞳を輝かせた。
がしゃん。
嬉々として自分の右手と留架の左手を手錠で繋いだ。
「…満足ですか」
「うん!」


絶対に、離れない。
身体が、少しだけ近くなった。



一緒に歩くようになった。
中庭や、家の中を。
手錠の鍵は留架が持っていたが、亜輝が外したがらなかったのでずっと填められたままで。
何をするのも、二人一緒で。
屋根裏部屋で一緒に寝るようになった。
ただ手を繋いだまま眠るだけだけど。




そうただ、思いついた様にキスをするだけで。


触れ合うだけの時もあるし、舌を絡ませることもある。
少しだけ相手が近しくなるのが嬉しいから。
喋らずに、キスを交すだけ。

人の唾液を甘いと感じるのは、やはり味覚がおかしいのだろうか。
留架はぼんやりとそんなことを思っていた。

温もりと幸せを感じながら、二人で眠る。
それは、今まで味わったことのない優しい時間だった。







「最近、歯痛いんだよね」
「そうですか」
聖堂の掃除をしている留架について歩きながら(でも手伝いはしない)、亜輝は顔を顰めながら言った。留架の返事はいつも通りそっけないものだったが、その言葉に冷たさはない。
「虫歯かなー。あーやだなー歯医者行くの」
「早めに治した方が良いでしょう。近いうちに行きましょう」
「げー。あっさり言うなー、留架虫歯になったことないの?」
「ありません」
「うそぉ!」
「本当です」
「ふーん…でもいいもんねー、どうせもうすぐ留架も虫歯だもん」
「…何故ですか」
「知らないの? 虫歯ってうつるんだよ、キスで」
「嘘を言わないで下さい」
「だってムシバイキンっているんでしょ? うつるじゃん」
「うつりません」
馬鹿な会話だと自分でも思う。それでも、突き離せない。突き離したくない。
がたばたん、と聖堂の入り口で音がした。
『?』
二人とも、志堂が来たのかと思って振り向いた。が、そこにいたのは。
真っ青になって肩を振るわせ、両手で口を覆っている美少女で。
「由輝さん」
「姉ちゃん」
思わず差し伸べられた手は、留架の右手と亜輝の左手。
鎖で繋がれた手。
見開かれた目が一瞬揺らいで。
凄い勢いで、外に飛び出していった。
どん!
「おっと」
ぶつかられた志堂はそれを見送り、………くっと眉根を寄せた。
「キョウー、いらっしゃい」
「どうしました、志堂」
こちらに歩いてくる二人に視線を移すことなく。
「…いや、何でもない」
それでも、彼は何も言わなかった。