時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ヨブ記・第三十一章


わたしは、わたしの目と契約を結んだ。
どうして、乙女を慕うことができようか。
もしそうすれば上から神の下される分はどんなであろうか。
高き所から全能者の与えられる嗣業はどんなであろうか。





救いなど。
求めない。
私の周りの人間は常にそうだった。
不安に陥り、迷うことがあっても、次の日の朝には晴れ晴れとした笑顔でまた歩いていけるような人たち。
養父も、そうだった。
養父は、熱心に、疑問に思うこともなく、神を信じた。
だから強かった。私の悩みを、一笑に伏せる程に。
辛いことがあるのなら、神に打ち明けなさいと。
申し訳ありません。
私には出来なかった。
貴方はどこにいるのかと、神に尋ねる事など出来なかったから。





救いのないこの世界に絶望した時、
私は確かに貴方を恨み、そして感謝したのだ。
何故貴方はここにいないのか。
そして、貴方を絶望させきらないでいてくれて、ありがとうと。





それでも。

自分が立っている岩盤は、あまりにも脆くて。


父は、神を信じた。

志堂は、自分を信じている。





私は?





私には、何もない。





神はこの世にいないと結論付けてしまった。
この世で一番信じられないのは、自分なのだから。


他の人間は皆、何かに縋っていた。
私にはそれがない。





何もない。


何もない。


空っぽだ。


何もない。






こんな出来損ないの人間は、この世に自分一人だと思っていた。

それなのに。





『お前とアイツは似てるぜ』





見つけた。





どうして、今まで気づかなかったのだろうか。

私と貴方は似ているのだ。




この世に、たった一人きりで。

誰かに褒めてもらわないと、自分の価値が判らなくて。

浅ましい欲を抑えつけて、大人であろうとする私は、さぞかし貴方に滑稽に映っただろう。





もう、逃げない。





言葉を聞いて欲しかった。



どうかまだ、其処に居てください――――。











息を切らせて、門の中に飛び込んだ。
その門は閉まっていたが、聖堂の扉は開け放たれたままだった。
ずきりとした後悔が、胸を襲った。
ふらつく足を奮い立たせて、聖堂の中に入る。

―――神よ。

誰も、いなかった。
そこには。

「…………は……」
息を、吐いて。
重い扉に凭れ、ずるずると座りこんだ。




―――信じてもいないものに祈る私は、貴方にとってはさぞや滑稽に映るのでしょうね―――。

私は、貴方ほど強くない――。

自分の心の中の、完全と銘打たれたモノに縋らなければ、生きていくことなど出来ない―――。






小さな。
声が、聞こえた。
最初は幻聴かもしれないと思い、耳を澄ました。
小さな。小さな、嗚咽。


――――泣き声!


肘を壁につき、ずずっと身体を持ち上げる。
確かに聞こえる。小さな、声。





音源は―――――




祭壇の…下。




きし、きし、きし、と床が軋む。

その音すら空気をかき混ぜて目指す音を掻き消しそうになるので、必死に耳を澄ませた。

細心の注意を払って、そっと、そっと覗きこむ。







膝を抱えて、泣いている天使が、其処にいた。






「………輝」

声が掠れた。


「亜輝……」

しゃがみこみ、無理矢理無い唾を飲みこんで喉を湿らせ、もう一度ちゃんと名前を呼んだ。

ずっ、と鼻を啜る音がして、ゆっくり顔が上げられた。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。それなのに、
愛しいと思ったのは、何故だろう?






「どうして………」
最初に出てきた言葉は、安堵ではなく、疑問だった。
鳥篭の扉は開け放たれていたのに、どうして出ていかなかったのかと。
それを読み取ったらしく、亜輝の濡れた瞳に、先日のような苛烈な色が宿った。
「………ッ!!」




ぱぁん!





容赦無い平手が、左頬に飛んだ。衝撃に眩暈を起こしつつも、もう一度相手を見据える。
そこにあった瞳は、怒りと怯えに彩られていた。
「……お前がっ、」
ひくっ、と喉がしゃくりあげた。
「お前が! 勝手に出ていくなって言ったんじゃないかぁっ! 自分は勝手に出てくくせに! い、いないから! お前がっ、いないから!」
ぼろぼろっと涙が溢れる。それを拭うこともせず、告白を続ける姿に、ただ留架は呑まれていた。
あれだけ、反抗しながら彼女は、私の戒めを守っていたのだ。
ただ、見捨てられたくないからと言う理由だけで。
たった一人で、この空間に――――。
「いっぱい、捜したんだよっ!? 食堂とか、ぐちゃぐちゃになってんだからなっ!? ざまーみろバカ! 勝手に、掃除してろッ…!!」
「亜輝」
祭壇の下から引き摺り出して、両肩を抑えた。そうすると彼女の握られた拳は、留架の胸を叩き出した。
「ばか。バカ、ばかぁ。何で、なんでいないッ……。何でぇ、居てくれないんだよォッ……」
「亜輝……すみません」
どれだけ。どれだけ、悲しませたのだろうか。孤独を、味あわせたのだろうか。
養父が死んで、志堂は去って。自分は独りになった。
あの時の消失感と恐怖を忘れるために、自分は神父となったのではなかったか?
誰かを救う―――「役に立つ」人間であれば、見捨てられることなど無いと思ったからではなかったか?
その時の、どうしようもない孤独感を、彼女も味わっていたのだ。
「い、ヤダ、やだよ。もう、やだあああっ……!!」
「すみません。―――すみません、亜輝……」
心から、詫びた。
彼女は、自分がいなければ、駄目なのだ。
そのことに今の今まで気づかなかった、私は愚かだ―――。
「離れ…なっ、絶対! もぅ、やだよぉ………」
「すみません――――」
罵倒は懇願に、叫びは嗚咽に変わり。
それを外に届かせないように、留架は亜輝の身体を抱き締めた。








由輝が教会に訪れた時、彼女は開け放たれたままの扉を不審に思ったが、今日はミサもないし、換気でもしているのかしらと思い、深くは考えなかった。
「神父様ぁ? いらっしゃらないんですか?」
聖堂の中に何度か呼び声を響かせたが、返事は無く。独りで家の方に行く度胸も無かったし、はしたないとも思ったし、何より妹と顔を合わせるのが怖かったので、足早に帰ることにした。


だからその時祭壇の下で、二人が抱き合っていることにも気がつかなかった。





二人も、周りの声が聞こえていなかった。
やっと見つけた、やっと手に入れた、優しい場所から離れたくなかった。
黙って只、どちらからともなく、唇を合わせた。
ただお互いを貪りあうような、乱暴な口付け。



とけあいたかったのだ、二人で。



祭壇の上の十字架から降り注ぐ光も、中に潜りこんでいる二人には届かない。

背徳という欺瞞も、相手の愛しさにかき消された。


お互いの身体に腕を回し。
これ以上は無いと言うほど、ぴったりと重なり合って。
そのまま、動かなかった。動く気も無かった――――。