時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

サムエル記上・第四章


彼女はまた、
「栄光はイスラエルを去った。
神の箱が奪われたからです」
と言った。




次の日。
憎いほどに空は晴れていた。
眠気の晴れない頭を軽く振って、留架は教会を出た。
少し考えて、正面の扉と門の鍵を開けていった。
駄目だと思っても、鍵を指し込む気になれなかった。
『扉を開けておけば、彼女は飛び出してもう帰ってこない』
それが堪らなく魅力的な考えに思えた。

もうこれ以上、関わりたくなかった。
逃げたかった。





駅前まで出ると、今までの静けさが嘘だった様にざわめきが繁華街を支配していた。
学校をさぼったのか学生達が数人、お喋りをしながら走っていく。
自分の服に奇異の目を向ける人間もいるが、その視線はすぐ逸らされる。必要以上の干渉はしない。それが当たり前だ、この世界には。突き刺さってくるような干渉など要らない。
そこまで考えて、自分の思考が全て彼女に向けられていることに気付き、愕然とする。
侵される。
塗り替えられていく。
染まっていく―――
黒く。否―――紅く。
まるで血のような、鮮やかなのに黒ずんだ、紅。
まるで、血のような、イロ。






無意識のうちに歩は進めていたらしく、気がついたら店の前まで来ていた。
溜息を押し殺して、ドアを開ける。
店を見渡すと、久し振りに見るのに変わっていない顔が目に入った。向こうもこちらに気がついたらしく、軽く手を上げた。
斑なく染められた赤い髪を乱雑に伸ばして、長い足を窮屈そうにテーブルの下で組んでいる。軽く会釈して、留架はそのテーブルに近づいた。
「よ、相変わらず辛気臭いツラだな」
「志堂、久し振りですね」
留架の瞳にほんの少しだけ感情が混じる。安堵と憧憬か。
「お互いにな。景気はどうだ?」
「良い様に見えますか?」
「冗談だ」
ふ、と鼻を鳴らして、目の前にあったコーヒーを飲む。留架も着席して、ウェイトレスに同じ物を頼んだ。志堂は薄汚れたジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、一本口に咥えた。留架は何も言わずその状景を見ている。
「…ん? そうか、止めないんだな」
「理由が無くなりましたから」
彼らが学生時代、知り合った理由がそれだった。
校舎裏でいつもの様に喫煙していた志堂に、たまたま通りかかった留架が声をかけたのだ。

『未青年の喫煙は法律で禁止されています』

これには、志堂の方が参った。教師も周りの人間も、そこまで基本的な叱責をする奴などいなかった。はっきり言えば、ツボに嵌ったのだ。
普段誰の干渉も無視していた志堂も、大笑いしてしまった。本当に笑えたのは、彼が本気だったからだろう。
「もう24です。貴方も、……私も」
「………………」
無言で紫煙を吸い、吐き出す。学生の頃から物静か(志堂に言わせると暗い)人間だったが、妙な陰が増えているような気がする。
疑問に思ったが、聞くことはしない。相手が話すのを待つ。お節介に興味がないのだ。
「今日来たのは、久し振りに会いたかったこと以外に、聞きたいことがあったからです」
「ふーん。お前の好きな神様にも、答えられないようなことか?」
何気なく言った言葉だったが、留架にとっては凄まじい衝撃だったらしく、顔色が更に白くなる。そんな様子すら今まで見たことが無かったので、志堂に本当に珍しく他人に対する興味が沸いた。
「聞いて…頂けますか?」
細い声の問いに頷き、彼は生まれて始めて神父の懺悔と言う奴を聞くことになった。














嫌な夢を見た。
どろどろとしたものが身体にへばり付いて、底に引き摺りこもうとする夢。
夢と現の狭間で何度も目を覚まし、また眠りに落ちる。
漸くちゃんと覚醒した時には、脂汗でぐっしょりとシーツが濡れていた。
顔を手で覆い、息を整える。ベッドの上に起き上がり、周りを見渡す。
何も変わらない古ぼけた部屋。天窓から落ちてくる柔らかい光。その角度は、いつも見るものより大分垂直に床に落ちていた。
寝過ごした?
そんなわけはない、いつも日が昇ると同時に留架が――――
そこまで考えて、血の気が引いた。
「……ぁ………」
がたがたと身体が震え出す。
この部屋に、彼は来ていない。
そんなはずは無い。そんなはずは無い!
まるで部屋の隅々から暗い冷気が襲ってくるような錯覚を感じて、ベッドの真ん中に身体を寄せて縮こまった。
しかし、いつまでもここに居るわけにはいかない。
大丈夫、何かの冗談だ。そう必死に自分に言い聞かせ、震える足でベッドから降りた。重い扉が、何故か凄く遠く感じる。
震えが止まらない指を、ドアノブにかける。

……かちり。

大した抵抗も無く廻されたそれに、恐怖が現実になった。


「ぅわあああああああああああああああああっ!!」
叫んだ。















「亜輝…?」
いきなり告げられた名前に、志堂は首を捻った。どこと無く聞き覚えがあった名前だからだ。
そんな彼の仕草に気付かないのか、留架は言葉を紡ぎ続ける。
「彼女の存在が、私のアイデンティティを壊しました。『神はいない』―――それは、私がもう既に気がついていたことでした」
「信じてるのにか?」
「そうしなければ、私は生きていけなかったからです」
はっきりと、告げた。
この世のものは全て曖昧模糊としていて、単純な二元論で片付けられるものではなかった。
絶対が欲しかった。人も法も、留架の求める其れではなかった。
だから、神に縋りついた。
唯一絶対の其れは、まさしく留架が求め続けていた道標だったからだ。
しかし留架は、その真面目さで、神という存在を調べ、分析した。矛盾が許せなかった。完全を求めた。
そして出た結論は、あまりにも残酷で。
だから、目を瞑ったのだ。
目の前で手を組んだまま告げられた懺悔を、志堂は黙って聞いていた。
留架にこれだけ感情があったと解っただけでも驚きなのに、自分にこう頼ってくることなど始めてだったので、何と返していいのか一瞬判断がつきかねた。
その時、彼の脳裏にふっと先程の問いの答えが見つかった。
「! 『アキ』か!」
「?」
訝しげに視線を向けてくる相手に、少し笑う。
「思い出したぜ。亜輝―――アキ。俺がこの街にいた頃、良くつるんでたガキだ」
「本当ですか?」
僅かに留架の声に混じっている動揺に気付いていないふりをして、志堂は言葉を続ける。
「あぁ。俺が良く夜中いってた店に、顔出してた。今17?ってことは、あん時まだ中学生ってことか…末恐ろしいガキだな」
「どういうことですか」
留架の眦がきつくなる。それを受け流して、問いに答える。
「俺らの周りじゃ有名だったからさ。結構イイとこのお嬢だったらしいけど、金さえ出せば誰とでも寝るって」
告げられた告白は予想していたが、留架は両の手の甲に爪を立てた。
じわりとした熱いものが腹腔に溜まる。それがどんな感情なのか、留架はまだ理解していなかった。
「お前にゃ刺激が強すぎたかな?」
にやりと笑って問うてくる志堂。この辺が、彼を悪友と呼ぶ理由だろう。
「…いえ、大丈夫です。続けてください」
俯いたまま、留架は返した。














パニックを起こした。
「留架! 留架! 留架! 留架! 留架! 留架!」
階段を駆け下り、片っ端からドアを開けていく。
彼の寝室、仕事部屋、食堂、中庭、風呂やトイレまで。
戸棚を開ける。テーブルクロスを引っ張る。皿が落ちて割れるが、気にならなかった。
いない、いない、いない、いないいないいない!
「どこ!? どこ!? やだ、やだよぉ!」
最後に、聖堂へ続くドアを思いきり蹴り開けた。


――――静かだ。


天窓から降りてくる光は黙って床を照らし。
祭壇に立つ十字架は、何事も無かった様に自分を見下ろし。
誰も、いない。
「何でっ!!?」
絶叫した。語尾が反響して、響く。
「嫌…いやだよ。誰かっ…留架ぁ!!」
返事は聞こえない。
怖い。怖い。怖い!
十字架に架けられた聖者が、ぎろりとこちらを睨んでくる妄想に囚われ、亜輝は後退った。
恐怖は、行動に向けられた。
聖堂の外に続く扉は大きく、いつも鍵がかけられていて、外に出ることは許されなくて―――

ガチャ。

何の躊躇いもなく、開いた。
その辺が、限界だった。
亜輝はその場に座りこんだ。否、正確に言えば腰が抜けたのだ。
もう、動けなかった。














「変わった奴だったな。奔放で、強かな癖に、ガキだった。どんな奴でも弄ぶくせに、離れようとしなかった」
「離れようと、しない…」
独白のような留架の台詞に頷いて、進める。
「他の奴は、淫乱の一言で済ましてたが、アレは違うな。俺の勘だけど」
短くなった煙草を灰皿に押しつける。
「アイツは、孤独が怖いように見えた。周りに誰かがいないと、自分の存在を確認できない奴なんだろう」
「………?」
意味が解らない、と眉間に皺を寄せる留架にひとつ笑って。
「お前は不愉快だろうが、お前とアイツは似てるぜ。お前は『神』に、アイツは他人に依存しないと、自分が誰だか解らないんだ」
それは、志堂だからこそ言える台詞だった。自分を確立するために、他の干渉を許さない彼だからこそ解った事だった。
他の人間にとっては、そんな事は当たり前だったから。
「アイツはガキだ。駆け引きも何も知らない只のガキだ。あまり冷たくしてやるなよ、泣くぜ」
そして彼が導いた答えに、留架は動揺を隠せなくなった。組み合わさった手の間に汗が滲んだ。


『みんな誉めてくれるよ、あたしの身体』

舌足らずな誘惑は、誰かを繋ぎとめるためのもの。


『うん、キレイじゃん』

どんなに悪態をついても、言われたことを行うのは認めて欲しいから。


『かわいそうだね』

忠告は、優しさ。


『…無視すんな―――!』

見捨てられるのが、何より辛い。


『弱虫! 偽善者! ―――嘘吐きッ!!』

純粋過ぎて、剥き出しの彼女の叫びは受けとめられない。



「――――!!」
がたん、と椅子を蹴倒す勢いで留架が立ちあがった。志堂は無言でそれを見遣る。
「戻ります」
「そうか」
止めはしない。彼は他人の干渉を許さないかわりに、自分も他人に干渉しない。今までのアドバイスさえ、彼にとっては多すぎるくらいだ。
代金をテーブルに置き、早歩きで店を出ていく。いつになく思いつめた顔をした悪友を見送って、志堂は満足そうに新しい煙草に火をつけた。











「ひっく…ひっく……」
小さな嗚咽が、聖堂に響く。
動かない足を無理に引き摺って、亜輝は祭壇の下に隠れていた。広いところに放り出されるのは真っ平だった。両膝を抱え、只泣いていた。
「ひっく…るか…ぅ…るかぁ……」
助けて欲しかった。もう自分には彼しかいなかったから。
この閉じられていたはずの鳥篭の中では、唯一の存在だった彼が、いない。
飼い主がいなければ、自由は孤独と同じ。開け放たれた扉から飛び立つことなど、出来ない。
「たすけて…ったすけて、るかぁ……」
言葉は、届かない。