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創世記・第四章






カインは弟アベルに立ちかかって、
これを殺した。
主はカインに言われた、
「弟アベルは、どこにいますか」
カインは答えた、
「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」








「神父様…大丈夫ですか?」
「えぇ」
そっと、ひんやりとした湿布が頬に触れた。由輝がその白魚のような手で、手当てをしてくれたのだ。その指の形を見て、こんな所は良く似ていると、自分の頬を打った妹の手を思い出した。
「すみません…亜輝ちゃんが、妹が、こんな…」
「貴方が詫びる必要はありません。言い過ぎたのは向うなのですから」
「は、はい…でも…」
泣きそうに顔を歪めて、頭を下げ続ける由輝を、留架は見つめ続けていた。
見目麗しい、と言うのだろう。
翠なす黒髪も、宝石のような輝きを放つ瞳も、白磁のような肌も、美しいという単語が良く似合う。喩えるならそう――――華。
清楚を表す、百合の花。
「貴方は優しい人ですね」
「え…そんなことありません…」
頬をぱっと赤らめて、由紀は俯いてしまった。
「さぁ、もう遅くなってしまいました。家にお帰りなさい」
「はい…神父様」
そう言って立ち上がると、にっこり笑って。
「優しいのは、神父様の方です。どうか、亜輝ちゃんのこと、よろしくお願いしますね…」
「……はい」





どこかうっとりとした瞳で由輝が帰っていった後、留架は一人救急箱を持ったまま、屋根裏への階段を上がっていった。
「亜輝」
コンコンコン、と小さくノックと共に名を呼ぶ。返事はない。
ドアをゆっくりと押し開ける。
粗末なベッドの上にシーツに包まった物体が一人。
「亜輝」
もう一度名前を呼ぶ。動きはなかったが、少し強く扉を閉めると音と共に塊がぴくりと動いた。
「起きているのなら、シーツから出てください」
リアクションはなし。
「亜輝」
少し大声で名前を呼んだ。
「…っさいな、気安く呼び捨てんな!」
がばっとシーツが飛び起きる。頬が少し腫れている。
「手当てをしますから、そこに座っていてください」
それだけ言って、ベッドの端に腰掛ける。
「…誰のせいだと思ってんだよ」
きり、と唇を糸切り歯で噛んで亜輝が問う。今にも噛み破りそうに、その歯は鋭い。
「…やりすぎました。申し訳ありません」
「ごめんですめば警察はいらないっ」
責めるような口調だが、口元にはもう笑みが浮かび始めている。自分の怪我でいつも動じない神父に頭を下げさせられるのが、嬉しいのだろう。
「傷を見せていただけませんか? 手当てをしたいのですが」
「……………」
無言で、ベッドの上に膝を立てて顔を突き出す。了承と取って、手元の箱の中から薬を取り出す。
「待って」
その手を、細い手が抑える。やはり形が似ていると、またどうでもいいことを考えた。
「キスしてくれたら、手当てしていいよ」
一瞬、目を見開く。
にやにやとした笑みを浮かべて、こちらを見つめてくる少女。子供じみた、無邪気な仕草や声音であるのに、ぺろりと唇を舐める仕草だけが淫猥で。
「…どこにすればいいですか?」
そう言う答えが返ってくるとは予想していなかったのか、今度は亜輝の動きが止まる。
「…口。ほっぺは却下」
「解りました」
「えっちょッ……んん!」
ひんやりとした唇が、自分のそれに重なった。





技巧も何もない、ただ押し当てられるだけの唇。眼鏡の下の瞳は開いたままで、目の奥を覗きこまれるようだった。
それに恐怖して、ぎゅっと目を瞑ると、押しつけられる唇の間を自分の舌で割った。少し切れた口腔が痛かったが、気にならなかった。
「…? !」
少し驚いた様で、離れかける首を抱きこんで、思い切り舌で歯列をなぞってやった。観念したかのように、門が開かれる。
相手の舌を捕らえることに一心になる。
引き剥がそうとする手の力に対抗して、首を離してやらない。
相手の舌を、自分の口腔に引き摺りこんだ。





僅かな鉄錆の匂いの中、驚くほど甘い水に舌が触れた。
そんなことがあるわけがない、成分は同じ唾液だと解っているのに。
甘かった。甘いと感じた。華の蜜の様に。
素晴らしい甘露を、もっと貪りたくなった自分に気づき、驚愕した。
これ以上は駄目だ。
喰われてしまう、この華に。
「っ!」
半ば無理矢理、身体を引き剥がした。
「ふぁ………何? 感じた?」
溢れた唾液が拭われることもなく口の周りに広がっているのを、舐め取りたくなる自分の衝動を必死に抑える。
「…手当てをさせて頂けますね?」
「ちぇ。つまんねーの」
憎まれ口をまた叩いたが、抵抗する気はないらしく、口元を拭って黙って傷口を向けた。
そっと、小さく切った湿布を頬に押し当てる。ほてったそこが冷えるのが気持ちいいらしく、安心した様に瞳を閉じている。
「…何故、あの時ああ言ったのですか?」
ぽつりと、小さく呟かれたその言葉は、彼女の耳に確かに届いた。
「へ? 何を?」
「貴方は何故、私に同情したのですか?」
解らない。解らない。彼女のような人間には今まで会った事がない。
そのことが、小さな不快感となって自分の心に積もるのが判った。
「わからない?」
「解りません」
解るわけがない。
「だって、他の人間は何もしなくても、痛いって言うのがどう言うことかわかるんだよ? それなのにあんたは、絶対わからないんだ。説明なんて出来ないもん。…どう? あんたは、他の人間より、損してるんだよ」
損をしている………私が?
「…痛みがわからないことが、損になると貴方は考えているのですか?」
「そうだよね、わかるわけないか。…あのね、何が痛いことがわからないと、」
その後、彼女の唇から飛び出した言葉は、留架を驚愕させるのに充分だった。



「何が優しいことなのか、わからないんだよ。この世のものが全部、優しくなっちゃうから。そんなことあるわけないのにね」










扉が閉まった後、留架はそこに寄りかかった。
自分のアイデンティティが崩壊するほどの衝撃を、彼女の言葉に受けた。
二人の娘の言葉が頭の中で反響する。
『優しいのは、神父様の方です』
そう言われるのは、初めてではなかった。神に仕えるものとして、当然のことをしているだけだったのに。
『何が優しいことなのか、わからないんだよ』
そう言われるのは、初めてだった。それなのに、反論も出来なかった。
―――――それが事実だと気付いていたからだ。





優しさとは何なのか?
痛みとはなんなのか?
どちらも永遠に、私にはわからないことなのか?





そのことが彼を打ちのめした。
自分の存在が揺らいでいくのがはっきりとわかった。
そして初めて、誰かに対する嫌悪と恐怖の感情が彼の心に浮かんだ。
『私は彼女のことを嫌っている。恐れている』
自分に無心に吸いついてきた唇の感触を思い出し、身震いした。
あんなに汚れているのに、何故彼女はあんなにも美しいのだろうか?
そして、何故あの姉妹はあんなにも似ずに似ているのだろうか?
混乱の度合いを深める留架の脳裏に、百合の華が浮かんだ。
百合は純潔の象徴。それと同時に、アダムを誘惑した最初の妻であり大淫婦、リリスの名の由来であることも思い出していた。
静謐と淫雑。相反するものが乗った美しき華。
吐気が昇ってきて、口元を押さえた。
これ以上、彼女に干渉するのは止めたほうがいいかもしれない。
そうしないと、自分の方が壊れてしまうと悟ったから。