時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

Liliy-BIND

駅前の道はちょっと新しい店が増えたり減ったりしただけで、やはり何も変わっていなかった。
赤ん坊を連れた仲の良さそうな夫婦が、どんな集りか解らないが学生服の面々に囲まれた髭面の男とすれ違う。もうすぐ、宵の口だ。これから騒ぐもの、或いは帰るもの達で駅前はごった返す。
その中を、一人の男が歩いて行く。
ぱっと見、年齢不肖のその男は、着古した服に身を包み、僅かに猫背になって咥え煙草のまま人ごみを器用に抜けて行く。
一見どこにでもいるようなその男が何故か人込みの中で際立つのは、その髪が鮮やかな紅色をしていることと、彼の醸し出す雰囲気のせいだろう。
どこか、浮世離れしたような…或いは、どこかその場から半歩ほどずれた所に存在しているような、おかしな違和感。そこまで感じ取れる人間はそういないが、誰でも彼の違和感自体は漠然と解るだろう。
彼の名前は志堂 響。名前はヒビクと読むが、好き勝手に読んで構わない。本人も訂正するつもりがないだろうから。
この名前も、施設に入れられた時に勝手につけられた便宜上の呼び名に過ぎないのだ。
志堂は、親の顔を知らない。
この駅前のコインロッカーに入れられていた彼を、一人のホームレスが戯れに連れ帰った。その男や彼の仲間が入れ代わり立ち代わり、志堂の面倒を見た。といっても、赤ん坊にそこいらから持ってきた牛乳やジュースを飲ませたり、泣いたらあやしてやる程度のことしかしなかったのだが。その事を考えると、彼が生き残ったのは奇跡に近いかもしれない。人に命が無くなることに対する後味の悪さが無かったら、奇跡など起こらなかっただろう。
自分で這い、歩けるようになってからは、志堂は生き方を盗むことを覚えた。食事の手に入れ方や簡単な身だしなみの整えかた、危険から逃げる方法。全部盗んだ。そんなことを教える概念はその男には無かっただろうから。
正確に歳を数えることも出来なかったが、多分10ぐらいの頃、男は死んだ。スピードを殺せなかったダンプカーに轢かれて、それっきりだった。それを見ても、志堂は何の感慨も起こさなかった。
そう、志堂はその時既に、命が無くなる事に対する後味の悪さすら、概念として持っていなかった。
「自分」はここにある。「他人」は周りにいる。それ以外の自己の確立を志堂はしなかった。
それはあまりにも単純で、だからこそどれよりも強い自我。この世界に、自分は自分と断じれる人間がどれだけいることか。
他人は皆、彼の生立ちを不憫と言い、何かと世話を焼いた。それが志堂には鬱陶しくて仕方がなかった。
他人は他人でしか無い。近しい人など、彼には必要なかった。
誰よりも自由。誰よりも孤独。誰よりも、完全。
それが、志堂響という人間だった。
完全な人間を、既に人間と呼ぶのかどうかは解らないが。






一方その頃、混み合う駅前の道をゆっくりと走る事しか出来なかった一台の車、その広い車内の後部座席に座っていた者が、何気なく見た窓の外、視界の端にその紅い頭を捉えていた。
「まぁ…」
桜色の唇から、純粋な驚きと、隠しきれない喜びを含んだ溜息が漏れた。
「百合様? いかがなさいましたか?」
黒いスーツで身を固めた運転手が、自分の主に問う。
「ちょっと寄り道なさい。彼を私の店に招待して」
「は、かしこまりました」
ゆったりとシートに身体を預けた主に一礼し、運転手はどこぞに電話をかけ始めた。






繁華街の方に入ると、途端に空気は如何わしくなる。志堂にとっては嗅ぎ慣れた臭いの古巣だった。
ふと、CLOSEの看板がかけられている古びたBARが目に入る。それを見、志堂は本当に珍しく、「昔」を思い出して唇を片端だけ上げた。
――――今、どこにいるのか。
そんな、がらでもない事を考えた。
だから、辺りにばらばらと走ってきて自分を囲む黒服たちに、一瞬反応するのが遅れた。
敵意は無いが、ただ黙ったまま黒い人垣が近づいて来る。
「――――…」
しかし志堂は慌てず騒がず、ただ辺りを睥睨する。包囲網はじりじりと狭まってきて、彼を不快にさせる。
縛られることは、彼が最も嫌う事。
ごっ!
「!!」
黒服たちが色めきだつ。何の前振りもなく、志堂の拳が一人の顎に決まり、大柄な体躯をアスファルトに沈めたのだ。素早く寄って来る二人目を、容赦の無い向こう脛への蹴りで昏倒させる。
囲みから抜け、走り出そうとした志堂の足が止まった。
行く手に、大きな黒塗りの外車が一台、滑りこんできたからだ。飛び越えるか、と咄嗟に考え膝を僅かに沈め――――
「…!」
ウィン、と小さい音がして開けられたシェードの窓から向けられた視線に、その動きを止めざるを得なかった。
一番最初に見えたのは、胸の上に置かれた白魚のような手だった。それに絡みつくかのように、緑なす黒髪がゆるゆると長く伸びている。そして、何より志堂を射止めたのは、黒髪の下から覗く、その――――瞳。
一見虚ろに見えるのに、奥底にちろちろと炎が揺らめいている、なんとも形容し難く―――淫靡なそれ。
「―――少し、お付き合いして頂けません?」
まるで蜂蜜のようにとろりとした甘ったるい声が、志堂の耳朶を打ち。
彼は唇を歪めて笑い、車に歩き寄った。
ガチャリとドアが開き、志堂はその隙間に身体を滑りこませる。間髪入れず、車は走り出した。
「――――驚いたな」
暫く走ってから口を開いたのは、志堂が先だった。彼にとってはとても珍しいことだった。
「てっきりもう、戻ってこないかと思ったんだが…意外に図太いんだな」
煙草の火を消しもせずに、志堂は横を仰ぎ見る。そのシートに座っていたのは、嘗てと寸分違わぬちょっと困った笑みを浮かべ、志堂の方を見ていながらどこか別の方向を見ているような、虚ろな目をしていた。
「お久しぶりですね、志堂さん。お会いできて嬉しいです」
そう。
黒服達を従え、尚且つ車を運転させ、志堂を拾ったのは―――あの、虹川由輝以外の何者でもなかった。
「手荒な真似をしてすみませんでした。先程お見かけして―――どうしてもお礼が言いたくて」
「礼?」
「えぇ。貴方のお陰で私―――、毎日が凄く楽しいんです」
そう言って、彼女は本当に嬉しそうに笑った。
どこか、突き抜けてしまったような、その表情。
彼女は本当に―――自己の再構築が、出来たのかもしれない。今度は、歪みも無く―――ただありのままの姿に。
――――――面白い。
志堂は知らずのうちに、笑っていた。
自分が興味を持てる人間など、最近はとんと見なかった。久しぶりに楽しい時が過ごせるかもしれない、と志堂は漸く柔らかなシートにゆっくりと腰を落ちつけた。








どこをどう走ったのか、仰々しいモニュメントに囲まれたクラブの一室に案内された。どこぞの有閑マダムがツバメを飼っているような、という形容にぴったりの部屋に通された志堂は、そこのソファにごろりと寝そべり、適当に手を伸ばしたところにあった果物から葡萄を取ってそのまましゃぶりついた。
と、大仰な扉がガードマンらしき男2人の手によって開き、そこから静静と女が一人歩いてくる。その格好を見て、志堂は眉を顰めた。
真っ白な、露出度の高いドレス。過激なスリットから覗く足には、黒い下着が惜しげも無く着けられていた。黒髪はまとめる事もなく流されていて、却ってその方が色気を際立たせた。
「…悪趣味だな」
「百合様になんて事を――」
一言、志堂が言い放つ。両隣の男が色めき立つが、由輝が軽く手を振ると一礼して部屋を出ていった。
バタン。
「随分犬を飼ってるんだな」
「私のお願いに忠実ですから」
白い女はかつかつと歩いてきて、志堂が寝そべったままのソファに浅く腰掛けた。
「番犬の他に、愛玩犬もいますよ」
そう言って笑う姿は昔となにも変わっていないのに、紡がれる言葉の何と恐ろしい事か。
「色々取り合わせていますから―――、貴方のお気に召すモノがいると思うんですけど…?」
ぎし、とソファが少し軋む。由輝が身体を志堂の頭の方に乗り出したのだ。黒い髪が一房、志堂の顎を擽った。
「遠慮しとくぜ。この分じゃどいつも、黒髪に眼鏡かけてそうだ」
ぴくっ、と意識しないほどほんの僅かに、由輝の肩が動いた。
「図星かよ。その服もあんまり似合ってないな…アンタに似合うのは赤か青だ。白じゃない。あいつとは―――」
ばしんっ!
最後まで言わせぬうちに、志堂の頬が張られた。男を見下ろしたままの女は、驚くほど冷たい眼で志堂を見下ろしていた。
「それ以上は、許しません。いくら貴方でも、これに抵抗は出来ないでしょう?」
バシッ、と目の前で火花が散る。青白い火花を発するそれは、言わずと知れたスタンガンだった。
それを見ても、志堂の胸には何の感慨も浮かばない。却って失望していた、結局この女は一度壊れてからも殻から抜け出せていない。どんなに沢山の僕がいても、永遠に満たされる事の無い思いに縛られて、身動きを自ら取れないでいる、なんて哀れな女王。
「勝手にしろ」
それだけ言って、興味が失せたとでもいうように目を閉じた。由輝の瞳が僅かに吊りあがり、ぎしり、とソファが軋んだ。
桜色の唇が、不精髭の伸びた頤に滑る。ぺろり、と不似合いなほど真っ赤な舌が、男のそれを舐めた。志堂はまだ眼を開けない。
「貴方こそ、欲しいのではないの? 貴方のようなニンゲンが、唯一近しく置いた方でしょう? あの人は―――」
いつのまにか彼女の口調は、嘗てのおどおどとした哀願ではなく、高圧な命令になっていた。
2人の脳裏に蘇るのは、同じ人間だろう。傷だらけの神父と、純粋な夢魔の娘。勿論この女王は、求める相手は一人だけだったが。そして志堂は、他の人間など求めるわけがないが。
「お門違いだな」
「嘘ばっかり…ではどうして、この街に戻ってきたの?」
細い白い指が、ついと喉仏をなぞる。その上で指を止め、まるで抉り取るかのように爪を立てる。流石に痛かったのか、志堂は僅かに眉を顰めた。
「…少しはマシになったかと思えば、相変わらずの勘違いっぷりだな。悪いがこれ以上、お前のままごとに付き合う気はない」
身体を持ち上げる。
バツンッ!!
「ッ!」
その瞬間、臍の上辺りに凄まじい衝撃が与えられ、やむなくまた寝転がる羽目になった。
「そんなに急がなくても良いでしょう? もう少し付き合いなさい」
また、彼女は笑っていた。
「…言っただろう。ままごとにこれ以上付き合う気はない」
「逃がさないわ」
持ち上げようとした腕を重力を味方にして押さえつける。由輝が完全に志堂を押し倒す形になった。
「そんなに糸が欲しいか? もう残っているのは俺だけか」
「黙りなさい」
「お前が欲しいモノはなんだ? 留架か? アキか? それとも―――あの時間か?」
「黙りなさいと言っているでしょうっ…!」
「俺も黙りたいんだが我慢出来ないな。想い出に浸りたいなら他所へいってくれ、俺は過去に興味がない」
「貴方に何が解るって言うの!?」
ぱたっ、と志堂の頬に雫が落ちた。嘗て、実の妹に自分の心の奥底を穿り返された時と同じくらい、彼女は動揺していた。
それを見ても、勿論志堂は何も思わない。
この街に戻ってきたのだって、気紛れだ。彼女が望んでいるような心の機微は一切無い。それが、志堂響という人間だからだ。



「俺には何も解らない」
解るのはこの自分だけ。



「解りたくも無い」
心の機微など五月蝿いだけ。



「解る必要も無い」
彼にとっては、何も。




眼を見開いたまま固まってしまった由輝をぐいっと押し返し、志堂は立ちあがった。
「待って…許さないわ」
「お前はアキにはなれないし、俺は何にもならない」
何とか搾り出した言葉は、静かで鋭い志堂の声に止められた。
「無駄だ」
それだけ言って、志堂は出口に向かって歩き出した。
「捕らえなさいっ…早く!」
由輝が内線電話を使って、ガードマンの黒服たちを呼び寄せる。それを見ても、やはり、志堂は何も感じなかった。






数刻後、僅かに痙攣している最後の一人を放り出して、志堂は歩き出す。手と顔が僅かに返り血で汚れていたが、怪我は無かった。
彼だけは、たとえどれだけ時が過ぎ、どれだけ世が流れても変わらないのだ。





それが、完全なる人間。







もう、人間ではないニンゲン。








誰にも侵されない領域に辿り付いてしまったモノ。










同情も糾弾も、届かない場所に。



end.