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のんべんだらりんごった煮サイト

創世記・第三章





「あなたは顔に汗してパンを食べ、
ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから、
あなたは、ちりだから、ちりに帰る」








朝の光が、天窓から降りてくる。
柔らかなその光は、白いシーツの上に横になっている少女の身体を滑っていく。
まるで芸術品のようなその美しさは、見るものを魅了するだろう。
「ぅ……眩し………」
やがて、彫刻が動いた。そう錯覚させるほどに少女の身体は白く、滑らかだった。
「ふぁ………」
ぺたんとベッドに座りこんだまま、大きく伸びをする。形の良い胸を張り、ぽふりと身体を後ろに倒す。
ガシャリ、とドアの外で音がした。一瞬間の後、重い扉が開いた。
「…目が覚めましたか?」
「…寝覚めは最悪」
そのドアから無遠慮に部屋に入ってきた男の声に、その態勢のまま苦虫を噛み潰したような声音で返した。
「食事の用意が出来ました。下に下りてきてください」
気を悪くした様子もなく、手に持っていたワンピースを彼女の裸体に被せた。





「眠…」
十歩おきに欠伸をしている亜輝を無視して、留架は歩を進める。
「ここが食堂です」
この教会では珍しい板張りのドアを開けると、食欲をそそる匂いが廊下に流れ出てきて、亜輝のお腹がぐぅっと音を立てた。
「そういやあたし、昨日夕ご飯食べてないじゃん…」
お腹を押えて部屋に入る。中は意外と庶民的で、テーブルに椅子が二脚、ポットと炊飯器、電子レンジや冷蔵庫もあった。
「わー、普通のダイニング」
「普通ではいけませんか」
「何となく、カマドでパン焼いてるよーなイメージあったから」
「…どこから出て来たんですか」
「何となくだってば」
なんだかんだ言いながら、向かい合ってテーブルにつく。
温まったパンとバター、生野菜のサラダとスープ。スタンダードな朝食と言う奴で、量も質も良いとは決して言えなかったが、空腹に取っては
何よりのご馳走だった。
「あ、ニワトリだ」
スープの中に入っていた鶏肉を掬い、亜輝が指摘する。留架のほうは無言でスプーンを進めている。
「神父って肉食べてもイイの?」
「…神は陸に生きる獣と、海に生きる魚は全て捕って食して良いと仰いました」
「あ、それ知ってる。だから海のクジラとか食べちゃ駄目っていうんだろ。理不尽だよねー」
怒られるかと思ったが、留架は何も言わずナプキンで口を拭った。
そのまま無言で食事が続く。沈黙に耐えられなくなったのか、好奇心を抑えられなくなったのか―――おそらく後者だ―――、机の上と膝の上
に零したパンくずをぱっぱと払い、亜輝が問うた。
「ね、神父って童貞って本当?」
「……………」
「沈黙は肯定とみなーす」
「……………」
「イエスなんだ」





午前中の仕事は、主に教会内の掃除。雑巾で綺麗に床から机から拭いて行く。
「全部自分でやるの? うわ、きっつー」
「毎日していましたから、別に辛くはありません」
綺麗に磨いていく進行方向に、裸足が見える。
「わー。がんばれー」
抑揚のない声援を送るその裸足の持ち主の顔まで目線を上げる。
「手伝う気がないのなら邪魔をしないで下さい」
「ヒマ」
ひょくんとしゃがみこんで目線が同じになる。
「……こちらへ」
軽く溜息をついて立ち上がると、腕を引っ張っていく。
一つの部屋のドアを開けると、ビーズの束が小さな机の上に置いてあった。
「これでもやってみますか?」
「何これ」
「大きなビーズと小さなビーズを順番に、針に通していってください」
「内職ってヤツ? うわ、ダッセ」
舌を出してうえっと吐くようなポーズをする。
「では掃除を手伝って頂けますか?」
「……がんばりまーす」
「お願いします」





掃除に戻りつつ、留架は心の中で首を傾げた。
(…いやにあっさり納得しましたね)
彼女のことなら、暴れたり逃げ出したりするかと思ったのだが。まだ正門が開いていないので敷地外に出ることは無理だが、そのことは知らないはず。
聖堂の掃除を終えてしまうと、何気なく先程の部屋に向かった。
そっと耳を欹ててみるが、静かだ。何の物音も聞こえない。
静かに扉を細く開けた。
亜麻色の髪の少女が、椅子の上に座りこんで、真剣な眼差しを向けている。
向けている先は、両手の指の間にある針。
そこに、そー…っと小さなビーズを落としこみ、ほっと息を吐いた。
「えーと、次はー…」
どこか嬉しそうに、皿の上の色取り取りのビーズから大きな赤いものを選び、またすっと針に通す。
そして満足げに長くなったビーズを目の前に翳す。先程の時間から換算しても、かなり長くなっている。
「うん」
一つ頷いて。
「キレイじゃん」
にっこり笑った。
留架は無言のまま、気づかれないようにそっと扉を閉めた。





「調子はどうですか?」
きっちり一時間後、掃除を終えて扉を開けた。
「んー、ぼちぼち」
そう言って、かなり長くなった束を見せる。
「ありがとうございます」
そう頭を下げてから、彼女の膝に別のビーズの輪が置いてあるのに気づいた。
「そちらは?」
「ヒマだから作ってたー」
腕と指にその輪を嵌めて見せる。腕輪と指輪だ。ご丁寧に指輪で大きなビーズを使っているのは指の背に乗る分だけだ。
「これちょーだい?」
有無を言わず寄越せ、と言う首を傾げた笑顔にまた溜息をついて、
「…まぁ、いいでしょう」
「やり」
嬉しそうに、自作の指輪を日に透かして見た。
「腕輪あげようか?」
「要りません」





昼食の後、正門を開ける。午後からは説教だ。
「聖書って面白い?」
「読みますか?」
一瞥を向けると、ちょっと考え込んでいる。
「どーせヒマだし、あまってんでしょ? 一冊ちょーだい」
その言葉には反論したかったが、飲みこむ。
「貴方の部屋にあります。午後は部屋から出ない様にお願いします」
「わかってるよ、あたしみたいな美少女囲ってるって解ったら、神父様大変だもんねー」
「……………」
その言葉にも反論したかったのだが、言う前に屋根裏に逃げていってしまった。
どうにも、性格が掴みにくい。
軽く米神に指を当て、留架はまた溜息を吐いた。





「マタイによる福音書、第6章…」
留架の言葉に合わせて、信者達がページを捲る。その音が途切れた時、彼は朗々とそれを諳んじた。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい。
天にいます我らの父よ、
御名が崇められますように。
御国がきますように。
御心が天に行われるとおり、
地にも行われますように」
低いテナーが、聖堂の宙に舞う。


小さな屋根裏部屋に、高いソプラノで言葉が響く。
「…わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください」


「もしも、あなたがたが、
人々のあやまちを許すならば、
あなたがたの天の父も、
あなたがたを許して下さるであろう」
字を視線で追いながら、留架の意識は別の所に飛んでいた。
解らない。
彼女が解らない。
彼女のような人間は、今まで見たことがなかった。


「もし人を許さないならば、
あなたがたの父も、
あなたがたのあやまちを
許してくださらないであろう…」
そこまで読んで、亜輝は不快そうにベッドに寝転がった。ばさっと聖書が指の間から滑り落ちる。
「………偽善者」
ぼそっと呟いて、落ちた本を拾い上げ、思いきり壁に叩きつけた。
バン!
その勢いのまま、枕に突っ伏した。


…パタン、と本を閉じた。
聴者たちが出て行く中、一人の女性が近づいて来る。その姿を目に止め、軽くそれが細まった。
「神父様」
清楚でシンプルな服に身を包み、優雅にお辞儀をした彼女の名は、虹川由輝。
「お久しぶりです…」
僅かに顔を赤らめて、笑顔を向ける。
「いえ、こちらこそ」
そのことに気づいているのかいないのか、会釈を返す。
僅かな、自分でも気づかない程度の失望を浮かべるが、それでも笑顔は絶やさない。
「あの…、神父様。亜輝ちゃんは、妹は、元気でしょうか? 何か、ご迷惑をかけてはいませんか?」
そう、彼女とあの少女は姉妹だった。あまりのギャップにしばし忘れていた。
「いえ、そのような事は…」
「何しにきたの、姉ちゃん」
いつの間に下りて来たのか、第三者の声が混じった。
「亜輝ちゃん!」
不安と安堵が入り混じった奇妙な声で彼女の名を呼ぶ。
「心配だった? あたしが『神父様』を誘惑してないか」
「あ、亜輝ちゃん…私、そんな」
顔を真っ赤にして由輝が俯く。その仕草に、亜輝の眉間に皺が寄った。
「カマトトぶってんじゃねぇよ、偽善者」
「あ…」
口元を押さえて、姉が後退る。にぃっと悪魔のような笑みを浮かべて、語勢だけはきつく、妹がさらに言い募る。
「はっきり言えば良いじゃん! 『神父様とセックスしたいです』ってさぁ! 男と女なんてヤることそれしかないんだから!」
がたがたと由輝の身体が震え、目に大粒の涙が浮かぶ。その様子を見かねたのか、留架が割ってはいる。
「亜輝。…言い過ぎです、謝りなさい」
「命令すんな! 童貞神父!」
パン!
ひっ、と由輝が息を呑む。亜輝の平手が音を放って、留架の頬を打った。しかし彼はよろめきもせず、自分の右手を振るった。
パァン!
ガタダン!
手加減無しのその威力に、亜輝の細い身体は吹っ飛んで壇にぶつかった。
「…ってぇ……自分も殴られたくせに、何でそんな丈夫なんだよっ……」
口の中を切ってしまったのか、滲んだ血を乱暴に拭って悪態をつく。
「…私は痛みを感じません。衝撃はあっても、『痛み』がどういうものなのか解りかねます」
「えっ……?」
疑問符を飛ばしたのは由輝の方だ。妹の方は、一瞬目を見開いて、その後尋ねた。
「…本当に?」
「…はい」
静かな瞳。何も感情が篭っていないような。それを見て……
亜輝の口は、何故か笑みを形作った。
「へぇ……」
その後、紡がれた言葉は、留架の理解の範疇を超えていた。
「……かわいそうだね」
可哀想?
誰が?
私が?
「あんた、死ぬまで永遠に『痛い』ことがどんなことなのか解らないんだ」
「…えぇ」
「勿体無い。確実に、人生の一部分損してるんだ」
立ち上がって、奥の部屋に向かう。
「………かわいそう」
そう言い捨てて扉を閉めた少女を、留架は呆然と見送った。
自分のことを心配する由輝の声も、頭に届いていなかった。
この体質を、気味悪がられたことはあった。
無責任に羨望されたこともあった。
でも。
同情されたのは、生まれて始めてだったのだ。