時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ヨハネの黙示録・第三章


あなたは、自分は富んでいる、
豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、
実は、あなた自身がみじめな者、
あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、
裸な者であることに気がついていない。






礼拝堂の留架と志堂に気取られないように裏口から教会を抜け出した姉妹は、何も言葉を交わすことなく坂になった道を下って行く。
程無く、大きな公園に着いた。昼間は子供の遊ぶ場所だが、日が落ちてくると不穏な若者達の格好の溜まり場になる様な場所だ。
由輝は躊躇いも無くその中に入っていく。やがて、車が入れないように刺さっている入口の鉄柵によりかかっている男性を見つけ、そちらに近づいていく。その動きに亜輝は二度びっくりした。
(姉ちゃんに男ぉ!?)
目を真ん丸にしてぱちぱちとやっていると、男の方もこちらに気付いたらしい。どこか不躾な、好色混じりの彼の目線の先は…姉ではなく妹だった。
「よぅ、アキ。久しぶりだなぁ」
にやにやとした笑みを浮かべたまま、その男は口を開いた。
「…………誰?」
本気で心当たりが無かったらしく、眉を顰めて亜輝が問う。男の笑みが一瞬凍り付く。
「何だよ、冷てぇな。忘れたのかよ?」
「嫌だわ、亜輝ちゃん。貴方のお友達の柴田さんでしょう?」
ころころと笑いながら、由輝が諌める。その笑いも心底から笑っているような感じで、却って不気味さを醸し出した。何となく鳥肌を立てながら、姉の言った名前にふと思考する。
「……………あ。マサヤ?」
ぽん、と手を叩いて亜輝は思い出した。昔…と言っても本当に少し前のことだが、亜輝が教会に行く前街で良くつるんでいた男だった。
「そうだぜ。俺に会えなくて寂しかったろ?」
「全然」
それどころかついさっきまで完全に存在を忘れていた。
もう亜輝の世界に彼は「必要ない」人間だったからだ。
すぱっと言った亜輝の言葉に顔を引き攣らせながらも、柴田は余裕を崩さない。
「久しぶりに遊ぼうぜ。今人集めてんだ」
彼の後ろに止まっているカーテン付きのワゴン車の窓を開けて、何人か見覚えのある男がこちらを向いている。それを見ても、亜輝は何の感慨も沸かなかった。
「あたし、別にいいよ。勝手に遊べば?」
「何だよ、少し位いいだろ?」
馴れ馴れしく首に回してくる腕を乱暴に払う。男が気色ばむ前に、やんわりと由輝が妹の腕を押さえた。
「駄目よ、亜輝ちゃん。久しぶりに会ったお友達なんでしょう? ゆっくりお話しなさい」
「うるっさいな、姉ちゃんには関係なっ!!」

バン!!

と腹の近くで凄い音がした、と思った瞬間、ふぅっと意識が遠くなった。
「あ? …な、に……………」
かくん、と膝の力が抜けて、アスファルトで舗装された遊歩道にへたり込む。霞む視界の中で、姉がうっとりと笑ったような気がして―――――
暗転。






「ヒュー、おっかねえ姉ちゃんだな」
車の中から揶揄する口笛と声が飛ぶ。
「ほら、さっさと出せ」
意識を失った少女の身体を抱えた柴田が乗り込み、運転席に指示を飛ばす。その後ろから、当然のように由輝も乗り込んだ。
その手には、彼女が護身用に親から手渡された、スタンガン。スイッチを入れると、僅かに青い火花が飛んだ。
それを見て、くたりと気を失った亜輝を見て、由輝はもう一度笑った。その笑みは確かに心からの笑顔で、まるで――――そう、熟しすぎて、表面は何とも無いのに中身が腐りはじめている、甘い甘い果実のようで。
無骨な機械を白魚のような手で弄びながら、本当に嬉しそうに彼女は呟く。
「亜輝ちゃんがいけないんだから…亜輝ちゃんが悪いんだから…」
くすくすくす。
笑い声はとても小さくて、騒ぐ周りの男共の耳には届かなかっただろうけれど。




夢を、見た。
黒い、どろどろした蛇のようなものが、自分の体に絡み付いてくる夢。
昔、一人で寝る時はいつも見ていた夢。それでも最近は全然見ていなかったのに。
ゆっくりと這い上がってくるそれが不快で、払い落とそうとするが脚を持ち上げられない。何時の間にか足首が、泥の中に埋まっていた。
「やだっ……!」
手で払おうとしてもそれはますます纏わり付き、彼女の身体を蹂躪していく。
無意識のうちに、自分の右手に繋がる場所に助けを求めようとして―――亜輝の瞳が恐怖に見開かれた。
自分の、右手首から先が無かった。
そこに繋がっていたはずの鎖が、どこにもなくて、


「やだああああああああああああああっ!!!」




自分の叫び声で、目が覚めた。
視界に写るのは、鬱陶しいひび割れたコンクリートの天井。そこに充満する煙草の煙と、役に立たない換気扇から漏れ入ってくる光。
どことなく見覚えがあって、首を傾げながら身体を起こそうとして、…………両手が動かないことに気がついた。
自由が利く範囲で辺りを見回すと、自分の寝かされているのは小さなテーブルの上で、両手はその脚に縛り付ける格好で拘束されていた。
そして周りで自分がもがく様を見遣る、にやにやとした何対もの視線。唯一の出口であるドアに続く階段にも、何人か陣取っている。
(…思い出した)
ここは、柴田の「遊び場」だ。この地下の上にあるクラブから誰か一人、適当に女を連れて来てこんな風に拘束して好き勝手にしていた。仲間内では面白がってサバトと呼んでいた。自分も参加したことがある。…勿論、「生贄」にされたことも、始めてじゃなかった。
「お前、そうされるの好きだろう?」
気がつくと、顔を覗き込まれていた。僅かに情欲が宿った視線で身体を嘗め回されて、鳥肌が立つ。
「別に、好きじゃないよ」
まだ身体が重くて、上手く喋れない。そう言えば、姉はどこだろう? 不自由な視線を必死に辺りに動かす。―――――いた。
少し離れたソファの上に、何事も無かったように腰掛けていた。清楚なブラウスとロングスカートに身を包んだ彼女は、あまりにも場違いに見えた。
「姉ちゃん…」
小さく呼ぶと、こちらに目をやったが、すぐ逸らされる。
「こら、俺は無視かよ」
ほんの少し苛立ちを声音に乗せて、顎を捉まれてむりやりこちらを向かされる。彼女の関心が自分以外に逸らされるのが許せないとでも言うように。
胸のむかつきを抑えて、囁くように言う。
「っ、逃げないから…これ、外してよ」
「ん? そうだなぁ。お前は一番可愛い「生贄」だったもんなぁ」
上目遣いでちろりと唇を舐めて言うと、柴田はやに下がった顔で戒めを解いた。
ぱちん。
右手に巻かれたバンドが外されると、その下から包帯が出てくる。それをそっと指で撫ぜた。それを巻いてくれた指を、自分の手を握ってくれた指を思い出して、きゅっと唇を噛んだ。
「なんで、あたしなの? 他にいくらでもいるじゃん」
「そんな事言うなよ。前から言ってるけど、俺はお前を気に入ってんだ。お前が望むなら、いつだって側にいてやるって」
抱き寄せられて、腰を撫でられる。それに何の感慨も沸かないまま、亜輝は相手を見返す。
「もう、いらないよ」
「…何?」
「あたしにはもういらない。一人だけいればいいから、あんたなんていらない…っ!」
がっ! と手加減無しの男の力で二の腕を掴まれた。
「…あんまり俺を怒らすなよ、アキ。もうお前は俺のモンなんだからな!」
勝手に決めるな、ばーか。
そう言いたかったが、痛みで声が出せない。
「そんなに『神父様』とやらがイイのかよ!?」
ばしっ、と頬を叩かれて怒鳴られる。しかしその痛みも気にならないほど亜輝は驚いていた。
何で知っているのか、と聞く前に答えが出た。―――姉だ。
「何で姉ちゃん、マサキのこと知ってんの」
ソファに座ったままの姉に問う。困ったように笑う彼女に、亜輝の怒りのスイッチが入る。
「答えろよっ!!」
柴田の身体を振り解いて、走り寄ろうとして―――ガタン!! と机から落ちた。周りがどっと沸く。まだ身体が痺れていて、上手く動かない。
「この前、会ったんだよ。吃驚したぜぇ、お前ら似てっから」
「どこが!」
「顔だけだっての。中身正反対だよなぁ」
テーブルの上に座ってゲラゲラと笑う柴田を睨み付けてから、由輝に視線を戻す。
「俺達も驚いたぜぇ」
「自分の妹拉致して下さいって、頼みに来たんだからな!!」
また辺りがどっと沸く。恐らく、亜輝の怒りを際立たせる為の野次。柴田もにやにやとして、由輝は――――
どこかずれたように、やはり困ったように笑っていた。
「っはははははは!!」
突如、甲高い笑い声が響き、辺りがしんっとなった。笑ったのが他でもない、亜輝自身だったからだ。しかも本当に嬉しそうに。
「あはは…苦しっ、もー。…やっと本性出してくれた? 姉ちゃん」
「…亜輝ちゃん? あのね、私…」
由輝の顔を覆っていた緩い笑みが、消えた。困惑が表情を支配する。
「随分回りくどい真似したねー。頭イイと変なトコまで頭回るんだ。…別にイイよ、隠さなくったって」
そこで言葉を切り、軽蔑したような視線を向ける。
「ここに、親父達も留架もいないからさ」
由輝の表情が、消えた。




「亜輝ちゃん…」
震え出した声に、また亜輝はけらけらと笑う。
「気付いてないって思ってた? んなわけないじゃん猫っかぶり。あたしにまでそうする必要ないってば」
床に座ったまま、脚を放り出して両腕で上半身を支える。
「あたしが一番気に入らないのは、あんたが嘘ばっかりついてるところだよ。親父達に嘘ついて、留架に嘘ついて、あたしに嘘ついて。
本当の所なんてひとっつもないじゃん」
「わ、私、嘘ついてなんて…」
「ほら、もう嘘だ。
どうして親父達に「もっと構って」って言わないの?
どうして留架に「好きです」って言わないの?
どうしてあたしに「邪魔だから消えて」って言わないの?
…姉ちゃんは嘘ばっかりだ」
がくがくと由輝の身体全体が震え出す。彼女が自分を確立する為に、作り出して来た卵の殻が壊れかけている。
「本当に欲しい物をなんで欲しがらないの? どうして嫌な物も飲み込もうとするの?」
「…………やめて…」
「嫌な物は嫌って言えばいいじゃん。好きな物我慢するなんて、馬鹿だよ」
「……やめて」
「建前なんて邪魔なだけだ。馬鹿馬鹿しくて何も言う気にならない―――」
「やめてよっ…!!」
悲鳴が言葉を噤ませた。そして妹はにやりと笑う。
「私は悪くない! 私は悪くないわ! 亜輝ちゃんが…! 亜輝ちゃんが、我侭ばっかり言うから、私はずっと我慢してきたんだもの! 私は悪くない! 私は悪くないっ!!」
壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。彼女が切望しているのは、自身の正当化。―――「いい子」でいる為の、皮肉な処置。
「亜輝ちゃんは良いわよねっ! 何をしても自由。何も言われない。私はずっとずっと、お父さんとお母さんの言う通りにしてきたのに! 勉強ばっかりやって、ピアノを習って! 私はずっとこのままなの!? そんなの酷い! 私、ずっと我慢してたのに!!」
「じゃあなんで何も言わなかったんだよっ!!」
由輝の悲鳴のような声を引き裂いて、亜輝の怒号が狭い部屋に響く。他の人間はギャラリーに徹してしまったらしく、
誰も口を挟めない。
「我侭言えばいいじゃんっ! 欲しいって、嫌だって、泣き喚けば良かったじゃんっ! なんで我慢するんだよっ、
そっちの方がよっぽど信じらんない!!」
「だってしょうがないじゃない!!
そんなこと―――、誰も教えてくれなかったものっ!!」
涙が、溢れた。
少女が一人、壊れた。
ソファからずり落ちて、顔を覆って鳴咽を吐き出す。
「わたしは、わるくないもの…」
そう呟き続ける姉に、軽蔑しきった目を向けて。
「…馬鹿だよ、姉ちゃん」



「やれやれ、話は終わったかい? 結構面白かったがな」
ふいに言葉とともに、床から引き摺り上げられた。
柴田がようやく余裕を取り戻した顔で、亜輝をまた抱え上げてテーブルの上に寝かせたのだ。
「お前ら、やっぱり似てるぜ。女は恐ぇよな」
「誰が」
不機嫌そうに目を逸らした亜輝に、柴田はぱちりと指を鳴らした。
周りにいた男達がそれに反応して、亜輝の四肢を押さえつける。
「ちょ…何すんだよ!」
「何って、決まってんだろ? お前これ好きだったじゃねーか」
男の一人が、取り出した注射器を柴田に渡す。
ちっ、と中の液体を針の先から吹出させると、亜輝の脚を思いきり開かせる。
「ほらな。まだ残ってやがる」
白くて細い太股の付け根あたりに、赤い点が二、三個ついている。
それは、彼女が悪魔との儀式に身を任せた魔女の烙印だった。
前は何とも思っていなかった。留架に見られても、隠す気など無かった。
それなのに。
留架は一瞬だけ顔を顰めた後、そこを癒すように優しく口付けたから。
だから、もう二度とやりたくないと思ったのだ。
留架のほうが、ずっと亜輝よりも苦しそうだったから。
「やだ!!」
「こら、暴れんなって」
「やだっ! やだやだやだー!!」
腕と脚を暴れさせて逃げようとするが、服を引き裂かれて押え込まれた。
脚を固定させられ、鋭く冷たい針がそこに押し当てられ――――
「ひっ……」
皮膚の下に冷たい液体が流れ込む。そしてそれはすぐ熱を持って神経を責めさいなんだ。
「やだ…やだ、よぉ…」
ぐらぐらと視界が揺れて、身体の力が抜ける。薬が効いたと見なしたのか、柴田が堪えきれぬ笑みを浮かべてのしかかった。
身体の中心が熱を持つ快感が、久しぶりの刺激と相俟って嫌悪感に変わる。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪いっ!!
「……る……ぁ……」
涙が出た。




バターン!
「オイ! ヤバイ、警察だ!!」
「何だと!?」
キャーッ、という女性の叫び声とともに、制服警官達が雪崩れ込んでくる。
「ちっ、くそぉ!」
咄嗟に柴田は、亜輝を突き飛ばし、近くのカウンターの下に滑り込ませると逃げ出した。辺りはあっという間に乱闘になり、ガシャン、パリンと食器らしき物が床に落ちて割れた。
その喧騒の中、亜輝は四肢を縮こませて、椅子の足に捉まって震えていた。
薬で朦朧とした頭では、何が起こったのか分からない。
ガシャン! と酒瓶が自分の耳元で割れ、びくんと身体を強張らせる。

コワイ。

コワイ。


ダレカタスケテ―――ダレニ?

ダレニタスケテモラウノ?



ダ レ モ イ ナ イ。



コワイ。



イタイ。




タ ス ケ テ――――









「亜輝っ!!」





パチン、と耳元で何かがはじけた。
視界がクリアになった。
真ん丸に見開かれ涙に濡れた瞳には、黒髪の眼鏡をかけた神父が映っていた。