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ヨハネの黙示録・第九章


第一のわざわいは、過ぎ去った。
見よ、この後、
なお二つのわざわいが来る。






いつもいつでも腕に巻かれていた無骨な金属は、白い細腕に悲鳴をあげさせた。
「痛い………」
「これは…酷いですね」
眠る時でも風呂でも外さなかった手錠の下には、赤黒く痛々しい擦り剥けが出来ていた。留架も少しは赤くなっていたが亜輝ほどではない。
眉を顰める留架と対照的に、亜輝は痛がりながらも嬉しそうだった。
傷すらも、彼につけられるモノだったら嬉しいと言うように。
「一度外して、手当をしましょう」
「え、やだ!」
「これ以上は無理です。雑菌が入ったらどうするんですか」
「それでもいい!」
ますます痛みが増すのに構わず、繋がった腕を引っ張り合う。
「亜輝」
「やだ! 絶対やだっ!!」
「お願いですから…聞いて下さい」
涙を浮かべてまで叫ぶ亜輝に、留架はため息を吐いた。心のどこかで自分が彼女に傷をつけたのを喜んでいる事に恐怖しながら。



自分も、嬉しかったのだ。
彼女の美しい肌に傷をつけたのは許されざることだろうに、どこかでそれを望んでいる自分もいる。



一生消えない傷を、つけてやりたかった。




――――馬鹿げている。




「一度、外しましょう。ちゃんと包帯を巻いて。…大丈夫、傷が癒えたらすぐ又架け直しますから」
「……………」
唇を噛み締めて、俯く亜輝。納得はいっていないようだったが、憮然としたまま右手を差し出した。
彼女に対してか、自分に対してか解らない安堵の息を吐き――留架はずっと持ち歩いたままだった小さな銀色の鍵を取り出した。

かちん。

思ったより軽い音を立てて、手錠が外された。
少女が泣きそうになったのを目の端に捕らえて、留架はとっさに痛々しい傷口に口付けた。
「る」
ぴりっとした痛みとともに、生温い感触が手首の薄い皮膚の上を這った。留架は目を閉じたまま行為を続ける。
ひび割れて乾いていた自分の傷口を舐めて癒してくれたのは彼女だから。
だから今度は自分が、癒してあげたかった。
治りかけのかさぶたと真新しい傷口が混ざり合った傷口は、舐めると錆の味がした。
「っ…」
血が滲んだ部分に深く舌を這わせると、首を竦めて身じろいだ。
「痛い…ですか?」
問いに首を振る。
「うぅん。気持ちイイ。続けて」
傷が癒えるまで、続けて。


「痛み」というものがどんなものなのか、留架には解らない。だけれども、
「貴方が、痛がっているというのは、解る」
「うん」
「辛いのだと、苦しいのだという事は、解る」
「うん」
「それだけで、充分です。私には」
「うん…!」
手首から唇を移動させて重ねあわせた。
この出来事を、数日後にこれでもかと言う程後悔する事になろうとは、二人とも知るよしも無かったから。



「痛ててっ」
何気なく腕を擦った亜輝が小さな悲鳴を上げた。何事か、と思って志堂はそちらを見遣り軽く眉を上げた。
本日、珍しく2人が離れていると思ったら、こういう理由があったわけだ、と志堂は一人うなずく。机の上に座って足をぶらぶらさせながら、亜輝は嬉しそうに手首をしゃぶっていた。子供っぽさと妖艶さが同居した不思議な光景だ。
「やれやれ、加減ってのを知らねーのかお前ら」
「ほっといて」
呆れた様に言い、傷に触れようとすると逃げられた。面白がってますます触ろうとする。
「やめろバカー!!」
「ははは」
聖堂の中でばたばたとおいかけっこが始まった。
「俺が手当してやるって」
「留架がしてくれるからいーいーっ!」
「まかせろ俺は器用だ!」
「いぃやぁだあーっ!!」
「…2人とも。騒がないで下さい」
ぴた。
留架が戻って来ていた。いつも静かに眇められているその瞳がどことなく険があるような気がして、志堂は黙って両手を挙げて降参した。
「留架―っ」
ぱたぱたと裸足で駆けていった亜輝は留架の後ろにさささっと隠れる。
と、無事なほうの左手をぐっと取られた。そのままいつに無い強い力で引っ張られる。
「えっ、ちょっと何? 留架??」
返事もせずに、ぎゃあぎゃあと騒ぐ亜輝を引っ張り続け、留架は聖堂を出た。
それを見送った志堂は、2人が母屋に続くドアの中に消えると、こらえきれずに吹出して爆笑した。




けたたましい笑い声をドアの外に追い遣って、留架はずんずんと歩いていく。屋根裏に続く階段の下まで来て、ようやく手を放した。
「痛ったいなあ! もう何すんだよ!」
少々乱暴に振り解くと、亜輝が悪態をつく。
「…すみません。座ってください」
目を伏せて、両肩に手を置いて階段の一番下の段に座らせる。
僅かな苛立ちをその声に感じて、亜輝は小首をかしげた。
心当たりがないわけじゃない。煩わしいそれを向けられた事は夜の街で遊んでいた時に何度もあった。しかしそんな感情を目の前の男が表わすのがちょっと信じられない。
しゅっ、と音がして清潔な包帯が傷を覆っていく。傷口に触れる指の心地よさに目を閉じながら、亜輝は口の端を持ち上げて言った。
「…やいてる?」
「何を、ですか?」
意味が分からなかったらしい。言い直す。
「嫉妬、してる?」
「……………」
指が止まった。静かな留架の瞳に僅かに感情が混ざった。
困惑。
始めて見る色の瞳を、まじまじと眺めた。留架は困ったように目を逸らした。
「妬いたんだっ!!」
きゃははは、とけたたましい笑い声を上げて亜輝は笑った。嬉しい。嬉しい。自分に向けられる負の感情がこんなに心地良かったのは始めてだった。
「……………」
からかわれている、と思ったのか留架は黙ったまま治療を再開した。猫が甘えるような声を喉で鳴らして、亜輝は満足げに巻かれた包帯を指でなぞる。
「手錠は?」
「まだ駄目です」
「何でぇ!? 手当したじゃんっ!!」
「包帯を巻いている間は駄目です」
「手当したらすぐしてくれるって言った!」
「言っていません」
「うそつき! うそつき!」
「亜輝」
咎めるような色が声に混じったので、少女は口を閉じたが、不機嫌な視線を神父に浴びせ続けている。
「亜」
「…もういいよ! ばーかばーか!」
また名前を呼ばれる前に、駆け出した。
止めるまもなく、裏庭に通じる扉を蹴り開けて出ていった。





「拗ねられたのか」
聖堂に戻ってくると、開口一番悪友に問われて留架は眉間を抑えた。
「貴方は、何もかもお見通しなんですね」
呆れたような声音の中に憧憬が混じっている事に気付き、志堂は唇を歪めた。
「ま、無理もねぇわな。久しぶりに離れてろよ、自由を味わえ」
「…………」
自由。
そんな言葉が本当に似合うのは、目の前にいるこの紅い髪の男だけだろうと、留架は思った。
自分には、そんなもの必要ない。
求めるものは―――
ふと、自分の左手を見て、そこから無骨な金属を外した時に感じた不安を思い出した。
彼女も、自分と同じ不安を味わったのだろうか。



縛り付けてください。
身動きが取れない様に。
何も考えられないように。
脳髄が痺れるような、まやかしの幸せで構わないから。



一人で立つ事すら出来ない自分を心の中で叱咤して、留架は頭を振りその事を追いやった。
彼女に傷をつけることを喜ぶような人間になっている自分に僅かな恐怖を感じながら。
確かに、少し離れておくのもいいかもしれない。例え自分の欲がそれを望んでいないとしても。
コンコン。
と、聖堂の扉をノックされた。
「はい」
嫌な思考を打ち切って、それに応えた。
ガチャリ。
「……」
誰が入って来たか気付いた志堂は、ぴくんと眉の端を持ち上げた。瞳に警戒を浮かばせたまま。
「あの…亜輝ちゃん、いらっしゃいますか……?」






「留架のばーか…」
裏庭の日当たりのいい場所に膝を抱えてしゃがみこんで、亜輝は一人悪態を吐いていた。が、その声にいつもの覇気が無い。
嫌われるのが、恐い。
もし、もし、もう二度と、繋がってくれなかったらどうしよう。
あたしが、また1人になる。
どうしよう。
どうしよう。
「亜輝…ちゃん?」
思考の海に沈んでいた亜輝は、いきなり懐かしい呼び名で呼ばれてびっくりして顔を上げた。
そこに立っていたのは。
「…姉ちゃん!? どうしてここに…」
長く碧なす黒髪の美少女。亜輝の実の姉、由輝だった。
「どうしたの? 元気…ないわね?」
質問に答えず、緩く笑って姉は逆に問うてきた。
「神父様と…何か、あったの?」
「…別に。姉ちゃんこそ、留架に用事じゃないの? 早く行けば」
抱えた膝に顔を埋めて、ぶっきらぼうに答えた。
「ううん…今日はね、亜輝ちゃんに用事があるの。ね、お願い。ちょっと一緒に、出かけてくれない?」
「え」
「すぐ終わる、用事だから。お願い…」
両手を胸の前で組んで、切なそうに頼まれる。男だったらすぐさま何も言わず何も聞かず手を貸してやる所だったろうが、亜輝は生憎そこまで馬鹿ではない。
「何で、あたしが?」
「亜輝ちゃんにしか、出来ないことなの」
包帯を巻いた片手を取られ、両手で握り締められる。姉の目にじいっと見つめられて、亜輝に迷いが生まれた。
彼女は、姉が嫌いだった。自分の言いたいことも言わず、したいこともせず、親の言うことばかり聞いている姉は、亜輝にとって偽善者でしかなかったからだ。
しかしだからこそ、姉にこんな風な頼まれごとをされるのは始めてだった。
どうせ、またもうすぐ留架と繋がってしまえば、こんな事も出来なくなるかもしれない。
「…どんな、用事?」
そう思ったら、返事を返していた。幾分、留架へのあてつけもあっただろうが。
返事を聞き、由輝は本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「一緒に、来て欲しいの。神父様に聞いたら、暫く外に出てないんですって? ちょっと散歩もかねて、出ない?」
「…………うん。いいよ」
「ありがとう」
手を離し、腰を払って立ち上がった。留架に知らせておこうかと思ったが、どうせ姉が言っておいただろうからいいや、と思った。
そのまままっすぐ裏口に向かって歩き出したので、その時、
由輝が、離された手の汚れを落すようにがりがりと自分の爪を手のひらに立てていたことに気がつかなかった。




「結局なんだったんだ? あの女」
自分らしくないと思いつつ、問うた。
「亜輝と、少し話がしたいのだそうです」
「ふーん…」
黙って、彼女が消えた中庭に通じる扉を見遣る。
どうも、嫌な予感がして、苛々と煙草に火を付けた。