時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

創世記・第二章






「これこそ、
ついにわたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。
男から取ったものだから
これを女と名づけよう」








「わたしは神にむかい声をあげて叫ぶ。
わたしが神にむかって声をあげれば、
神はわたしに聞かれる。
わたしは悩みの日に主をたずね求め、
夜はわが手を伸べてたゆむことなく、
わが魂は慰められるのを拒む。
わたしは神を思うとき、嘆き悲しみ、
深く思うとき、わが魂は衰える。
あなたはわたしのまぶたをささえて閉じさせず、
わたしは物言うこともできないほどに悩む」
美しい色で飾られた天窓から光が差し込み、教会の中を照らしている。
その光を浴び、朗々と詩を朗読する神父は、まだ若かった。
顔立ちも並みの男より整っていた。それだけでもないだろうが、この教会に来る迷える子羊たちを増やしている一つの要員であることは間違いないだろう。
「『主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。
ふたたび、めぐみを施されないであろうか。
そのいつくしみはとこしえに絶え、
その約束は世々ながくすたれるであろうか。
神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもって
そのあわれみを閉じられたであろうか』と」
現に、真摯に聖書の言葉を聞いている僅かな信者と対照的に、場違いなほど着飾った女性たちの熱っぽい視線が幾筋も青年に向けられているが、彼は気にした様子も無く、眼で行を追っている。
彼の名は、紀乃瀬 留架。本名ではない。腹を痛めた両親につけられた名前を本名と言うのなら。
親の顔は知らない。生まれて間も無く、この教会の目の前に捨てられていた。留架と言う名は、自分を拾った神父に付けられた名だ。
その養父も、彼が15歳の時に死んだ。この小さな教会には、養父以外に人はいず、当然の様に彼は後を継いだ。
「神よ、大水はあなたを見た。
大水はあなたを見ておののき、淵もまた震えた。
雲は水を注ぎいだし、空は雷をとどろかし、
あなたの矢は四方にきらめいた。
あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、
あなたのいなずまは世を照らし、地は震い動いた。
あなたの大路は海の中にあり、
あなたの道は大水の中にあり、
あなたの足跡はたずねえなかった。
あなたは、その民をモーセとアロンの手によって
羊の群れのように導かれた」
そこまで読みを進めると、ぱたむ、と音を立てて書を閉じた。夢から覚めたように聴者たちが立ちあがり、出口に向かう。中には話かけようと寄ってくる者もいたが、それが目に入らないかのように彼は中屋に続く戸をくぐった。
まるで、周りのことが目にはいっていないような、拒絶のしかただった。





「…お待たせ致しました」
応接間に入ると、程よく肥えた男と鶴の様に細い女性が待っていた。留架が軽く会釈すると、ソファから腰も上げずに鷹揚に返した。
「いやいや、君も座りたまえ」
「失礼します」
また会釈をして、男の目の前に腰掛ける。男はにやにやと愛想笑いを浮かべているが、女性の方はまるで、ここに留まるのも嫌だと言うようにそっぽを向いている。
留架は気にした様子もなく、紅茶を入れて勧めた。
「済まんねぇ、今日は由輝も連れて来たかったのだが、恥ずかしがっているのか、一人で出かけてしまってね」
「いえ…」
由輝というのは、この夫婦…虹川夫妻の娘の名だ。裕福とは言えないこの教会に寄付を続けてくれている数少ない人間の一人だった。
「いつも由輝がお世話になっておりますわ。ご迷惑になっていなければいいのですけど」
言外に『仕方なく許しているのですよ』という感情を込めて虹川夫人が言う。手塩にかけて育てた娘がどこの馬の骨とも知らない貧乏神父に熱を上げているのが許せないのだろう。
「いえ。本当に助けて頂いています」
その雰囲気を感じ取ったのかどうか知らないが、淡々と留架は返した。夫人が一瞬鼻白む。
「おい! いやいや、こちらこそ。実はですね、今日はちょっとしたお願いがありまして…」
妻を咎めた男が、やけに馴れ馴れしく言葉を紡ぐ。
「お願い、ですか」
「娘がここに寄付を続けているのは、良い事だとは思っています。しかしですね、私は企業人です。ビジネスを行いたいのですよ」
「至極当然です。では、私は何をすれば良いのですか?」
余りにもあっさりと言葉を返したので、虹川夫婦も一瞬あっけに取られたようだ。
留架は何事もなかったような無表情で、次の言葉を待っている。
「…実は、ですね。娘を一人、貴方に引き取っていただきたい」
「娘さんを…初耳ですね。由輝さんの他にお子様がいらっしゃったことは」
「あなた! あんな子、私の娘ではありませんわ」
「お前は黙っていろ! いや、失礼。亜輝と言いまして…今年16になります。お恥ずかしい話なのですが…もう我々の手に負えないのですよ」
「と言うと?」
「家に寄り付かず、繁華街で遊びまわり…学校にも行かず、ほとほと困り果てておりまして……紀乃瀬神父でしたら、あの娘を更正できるのではないかと」
「買い被り過ぎです…と言いたい所ですが。私に選択権はないようですね」
嫌味でもなんでもなく、留架は言った。断れば、娘の寄付ぐらい簡単に止めてしまうだろう。
「解りました。身元引き受け人として、娘さんをお預かりします」
「そうですか! いやいや、ありがたい。さすが神父様ですよ」
「ただ……私には人を更正させる力など持っていません。それでも宜しければ…」
「ははは、ご謙遜を。ありがとうございます、実は今日もうすでに連れてきておりまして…」
要するに、娘の破天荒を何とかしたいが、下手に警察沙汰にすると世間体に傷がつく。上手く恩を着せて、ていの良い厄介払いをしたかったのだろう。
留架は「裏庭にいる筈です」と先に立って歩き出す虹川の後につきながら、そう考えていた。それでも表情は全く変わらなかった。





ガコン、と重い音がして鉄の戸が開けられる。かなり前に建てられたこの教会は、丈夫だけが取柄のこんな扉があちこちについていた。
裏庭には、卵を取る為に雌鳥が放し飼いにされていて、留架が戸を開ければ餌を欲しさに寄って来る…はずだった。
「き……きゃああああああ!」
夫人が悲鳴を上げて、ふぅっと意識を失う。素早く留架がそれを支えた。
「あ、亜輝! 何をやっている!!」
鶏小屋の前に、一人の少女が足を投げ出して座っている。辺りの不揃いな芝生の上には白い羽が飛び散っている。………赤い血と一緒に。
留架達の足元に、鶏の死骸が転がっている。どれも首を捻じ切られていた。一羽だけ首にナイフが突き刺さっていた。
ゆっくりと、亜輝と呼ばれた少女が立ちあがった。着ている水色のワンピースにも、血で張りついた羽が飾りの様に纏わりついている。それをうざったそうに払って、彼女は溜息をついた。
「かわいがってあげようとしたらさぁ、つつかれちゃった。痛いから、殺しちゃった」
にっこりと。無邪気なほどに少女は笑った。転がっていた死骸を一羽掴み上げ、ぶるんと振った。
ぴ、ぴっと血が飛び散る。ひっ、と虹川が悲鳴を上げて尻餅をつくと、きゃはははと可笑しそうに笑った。
留架の頬にも血が飛んだが、少しも動じない。気を失ったままの夫人を抱きかかえている。
「そんな奴、その辺に捨ててていいよ」
ぽい、という風に鶏を投げ捨て、スキップでもするように留架の目の前に近づく。
「あんたが、姉ちゃんと仲のイイ『神父様』?」
「…えぇ、そうです」
「ふぅーん」
くすくすという亜輝の笑いは止まらない。顔が近づく。二人とも目は閉じない。
ぺろり。
留架の頬の上の血液を、少女の赤い舌が舐め取った。
「カオ、綺麗だね。男にもったいないよ」
「そうですか」
表情を変えないまま呟くと、少女はもう一度、本当に楽しそうに笑った。






「ともかく、お願いします」と気を失った妻を抱えて逃げる様に教会を出ていった男を、留架は入り口まで見送った。
少女の方は何も気にした風もなく、聖堂の教壇の上に腰掛けてぶらぶらと足を遊ばせていた。
「机の上に座らないで下さい」
戻ってきた留架が彼女を諌める。
「あのジジィにいくら貰ったの?」
下りる素振りも見せずに亜輝が返した。
「あんな奴に媚売んないとセーカツ出来ないの? ま、確かにここボロだけどさ」
「下りてください」
「別にあたし、どっちでもいいんだよ。少年院だろうが、教会だろうが」
「下りてください」
「あのジジィに飯食わして貰うより、数段マシ。あ、夕ご飯あのニワトリが良いなー」
「下りてください」
「…………」
「…………」
「……つまんねーの」
むすっと口を尖らせて、軽く勢いをつけて壇上から降りた。
「でさ。あたし、なんかすればイイの?」
「特に言われてはいません。只、預かって欲しいというだけで」
「ふー…ん。ホントに、厄介払いしただけなんだ」
くくくっ、と笑いを堪えている。そんなに嬉しいのだろうか、実の親に見捨てられたのが。
「荷物はありますか?」
「ある様に見える?」
「いいえ」
そう言って、軽く相手を一瞥し―――
「…? 裸足のままここに来たんですか?」
「ん? へへへー。靴キライなんだ、熱いし重いし」
まるで傷一つついていない白魚のような足を自慢げに動かして見せる。
「捨てちゃった、ここに来た時」
「どこへ?」
「外へ」
笑って窓を指差す。軽く頭痛を感じて、眉間に指を当てた。
「靴も服もキライ。邪魔なんだよ、全部。あたしの周りに有るモノ」
そう言って、何の躊躇いもなくスカートを捲り上げた。
「…………」
止める間も無く、ワンピースを一気に脱ぎ取った。下帯しかつけていない、殆ど全裸だ。
「ねぇ、キレイ? みんな誉めてくれるよ、あたしの身体。…この下も見る?」
妖艶でいて無邪気。そんな微笑を顔に浮かべ、亜輝は最後の下着に手をかけた。これが良くいる助平親父や若者だったらその手の動きに釘づけになっていただろう。しかし。
ひょい。
「へ? えっ?」
腰に手をかけたまま、亜輝は持ち上げられた。
当然の様に、細身の美丈夫である留架の腕で。
「ちょ、何! 降ろせよッ」
「私は貴方のことをご両親に任せられました。この教会内では私の言う事に従ってください」
半裸の少女を抱え上げたまま、なんの躊躇もなく歩き出す。
「部屋は屋根裏部屋を使ってください。申し訳ありませんが、扉には鍵をかけさせて貰います」
「降ろせって…何で!」
「ご両親から、夜中良く遊びに行くらしいので特に厳しく監視して欲しいとのことです」
「あの腐れ夫婦! ちっくしょー、おろせってばっ!」
足をばたつかせるが、意外としっかり腕の中に納められてしまって動けない。
そうこうしているうちに階段を上り、奥まった部屋の前に辿り着いた。
ドアを開け、中に入る。小さな机とベッド、天窓が一つあるだけの簡素な部屋だ。
そのベッドの上に、まるでモノを放り出す様に亜輝の身体を投げ出す。
ぼすんっ。
「って!」
「朝5時になったら鍵を開けます。それまでは休んでいてください」
言いたいことを全て言って、留架は踵を返す。
がちゃん、と閉じられたドアに、枕が力一杯ぶつけられた。
「こっの不感症! 童貞神父! ばっかやろー出せ―――ッ!」
走り寄る足音のすぐ後にがんがん! と扉を蹴る音が響く。
留架は廊下を歩き去っていった。まるでその音が聞こえない様に。





「ふー、ふー…」
散々蹴って叩いて引っ掻いて、それでも駄目なことに漸く諦めたのか、亜輝は自分でベッドに突っ伏した。
「ちっくしょー…」
血の滲んだ指を口に含みながらも、亜輝の悪態は止まるところを知らない。
「あんのクソ神父……覚えてろよ……」
眼鏡の下から見据えるあの何の感情も持っていないような、熱の篭らない瞳。あんな目で自分を見た男は、初めてだった。
どんな野郎でも、自分が少し甘えて笑って見せれば、鼻の下を伸ばして纏わりついてきたのに。
彼の目には、そんな感情が一切見えなかった。
まるで、モノを見るような、その瞳。
「…………変なヤツ」





聖堂まで戻ってきた留架は、視界の端に普段無いものを見つけた。
まるで抜け殻の様に捨て置かれている、水色の布。亜輝が先程脱ぎ捨てたものだった。
拾い上げると、まだこびり付いていたらしい赤く汚れた羽が落ちた。
そのまま羽は、天井からのカラフルなスポットライトの光を浴びて床に落ちた。
一瞬。天使が舞い降りたのかと錯覚した。
それをまるで、大切なものの様に拾い上げ、綺麗に畳んだワンピースの上に置いた。
その時、注意深い人なら気がついただろう。無表情な留架の瞳にほんの少しだけ、感情が紛れこんでいたのを。
しかしそれが、喜びなのか、怒りなのか悲しみなのか、それは誰にも解らなかっただろう。