時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

命の別名

何度も、眠ったり起きたりを繰り返した。




そうでもしないと、身体が動かなかった。







ようやっと脳味噌が覚醒した時、空は赤く歪みきっていた。
「―――――――――ぁ……………」
無意識の内に搾り出した声は、酷く掠れて不恰好だった。
ひゅうひゅうと、喉が鳴る。否、これは風の音だ。
ぎし、ぎし、と動かす度に身体に軋音と激痛が走る。自分の腕は、足は、身体はどうなった?
「…………ぅ、ぐ」
左手の五指を、ゆっくり、1本づつ動かす。
小指、薬指、中指、人差し指、親指。
逆向きに、親指、人差し指、中指、薬指、小指。
大丈夫だ、動く。次は右手。次は腕を、ゆっくり持ち上げて、下ろす。ざふり、と砂の感触がした。
――――砂?
いや、それ以前に、ここは。


何処だ?




「――――ッア!」
がばり、と起こそうとした身体は、激痛によって元通り地面に縫いつけられた。
ばさっと砂の音がして、身体が半分赤い砂に埋まった。
痛みを堪えて、瞼を開ける。
空はやはり赤く、歪んでいた。





暫く動かず、否動けず、ただ空を見上げていた。
ゆっくりとだが、身体の痛みが癒えていくのがわかる。
じわじわと、記憶が戻ってくる。
どうやら、自分は――――かなり分の悪い賭けに、勝ったらしい。
この世界は、自分の嘗ての同僚によって炎に焼かれた。
身体を、ゆっくりと指で撫でてみると、皮膚が炭化しているのが解って戦慄した。
その傷の酷さにでは無い。
普通の人間ならば、身も残らなかった炎で焼かれても、この程度で済んだ自分の身体に。
しかもその皮膚を痛みを堪えて擦ると、代謝機能によってその下に既に新しい皮膚が出来ていた。
――――これが、報いか。
生き残る為に、自分はヒトではないものになった。
後悔しているのか。それすらも、解らない。考えが纏まらない。
もう少しだけ、眠りたかった。






次に自分に出来ることと言えば、歩くことだけだった。
辺りの地形は、ただ赤い砂が一面に広がっているだけ。
自分が居た筈の研究所も、完全に破壊されたのか砂に埋もれたのか―――兎に角、影も形も無かった。
ただ、一歩歩くたびに足が半分以上埋まる砂の大地を、歩いた。
いつか何かに、出会えることを信じて。
記憶を搾り出す。この世界を燃やす為に撃ち出された兵器は、確か十三発。
何処に落ちたのか解らないし、落ちてどれだけ時間を経たのかも解らない。
裸のまま、ただ歩いた。
がつっ。
「…うぁ」
足が何かに引っ掛かり、転んだ。
砂の山から張り出している鉄筋があった。
――――この下は、街か?
周りを見まわすと、確かに建物の残骸らしきものが、砂から飛び出て見える。
かなりひしゃげてしまっていたが、それなりに形になっているものも残っていた。
「……誰、か! いないのか!?」
声を上げた。ただ広すぎる大気に吸いこまれた。
静かだ。
辺りには風の音しかない。
水も、植物も、動くものもいない。
死の世界。
「…はは、は」
笑いが漏れた。
「これで、満足か―――ギオ。こんな世界を…貴様のエゴだけで作り上げて、満足かッ!」
まるであの男に睥睨されていたかのように、空へ向かって叫んだ。勿論、答えは返ってこない。
「何故皆、死ななければならなかった! 何故皆―――お前に殺されなければならなかった!?」
ぐらり、と視界が歪み、砂の上に仰向けに倒れた。
そう言えば―――ここ暫く太陽を見ていない。
灰色の雲で空が覆われると、もう太陽が昇っているのか沈んでいるのかすら解らないのだ。
時間の感覚ももう無い。
空腹も、喉の乾きも感じない。
誰でも良い、教えてくれ。
俺は今、本当に生きているのか――――――――?






ただ歩く日が、続いた。
どこまで行けばいいのか、どこかに何かがあるのか、解らないまま。
もうそれ以外に、自分に出来ることが思い浮かばなかった。
やがて、海に出た。
海は酷い鈍色をしていて、何の生物も居ないように見えた。
それでも景色が変わったことが嬉しくて、暫く海沿いを歩くことにした。
やがてまた、街の残骸まで辿り着いた。
もう希望を見出せず、ただほとほとと歩く。
――――ふと。
視界の端に、見慣れない色が過ぎった。
「――――――!?」
はっとなって振り向く。熱で融けたひさしのようなその下に、緑色の何かが生えている。
「あ………!!!」
夢中で駆け寄る。砂を蹴散らす。
それは、ほんの小さな芽であったけれど。
確かに、鮮やかな緑色をしていた。
「あぁッ……や、った。やった…!」
この世界に生まれた、自分以外の命。
やっと、見つけた。
嬉しくて、涙が溢れた。
「あ、水ッ…」
このままではすぐ枯れてしまう。慌てて辺りを見回すが、海は役に立たない。
空を見ても、高すぎる雲は雨を吐き出さない。このままでは――――
「――――ッ!!」
夢中だった。ただこのまま、命を消したくは無かった。
がりっ、と自分の手首を食い千切る。見る見るうちに浮かんでくる赤い水を、芽の隣に滴らせた。
「汚染は…我慢しろ。俺もお前も、それは似たようなもんだろう?」
水分としてはあまり役に立たないだろうが、養分ぐらいにはなれるかもしれない。
「生きろ。こんな世界でも、生まれられたんだ…生きろ!」
自分の命を分け与えながら、必死に叫んだ。





それから暫く、その芽の隣に座ったまま日を過ごした。
どれだけ功を奏したのかは解らないが、芽は枯れもせず、ゆっくりと双葉を開いた。
すぐに塞がってしまう傷を何度も噛み破り、血を与えた。
何て強いのだろう、と思った。
こんな、壊れてしまった世界で、それでも生まれることの出来る力。
せめてこれだけは、育てたかった。






もう時間の観念は無くなりかけていたけれど、ある日。
風の音とは違う、爆音が遠くから聞こえてきた。
「―――――…?」
まどろみから目を覚まし、立ち上がると地平線の果てに向かって目を凝らす。
やがて、赤い砂煙を立てて走る二輪車が見えた。運転しているのは―――――人間だ!
「ッ!!」
紛れも無く此方に向かってくる自分以外の存在を認知し、喜びに息が詰った。
それは、10数台にも及ぶバイクの群だった。
砂を蹴立て、蛇行しながらも真っ直ぐこの廃墟へ向かってくる。ズシャアッ!!と音を立てて止まり、ばらばらと男達が降りてきた。
「よーし、洗いざらい攫っちまえ!」
「おうっ!!」
粗野な身なりをした男達は、手に鉄棒や鎖など、あまりに原始的な武器を持って廃墟を漁り始めた。
声をかける前に、自分の姿は見止められた。
「なんだぁ、お前?」
「オイオイ、見ろよ! 素っ裸じゃねぇか!」
どっと野卑な笑い声が上がり、初めて自分の姿を意識して僅かに顔が熱くなった。羞恥心を感じたのは、本当に久しぶりだったので。
「水も食いもんも持って無さそうだ。おら、どきやがれ!!」
乱暴に肩を押され、砂の上に尻餅をつく。また、笑い声が上がった。
「ま…待て」
「あん?」
「この世界に―――お前達以外の人間がいるのか?」
「はぁ?」
「なに言ってんだこいつ。イカレてんのか?」
「俺達ゃドルチェから来たんだぜ。あの街にいきゃあ山ほどいるさ」
「街があるのか!?」
久しぶりに動かす喉は、酷く引き攣って使い勝手が悪かったが、構わなかった。返事の返ってくる会話など、やり方を忘れかけていたから。
「オーイ、駄目だ。ここにゃ何にもありゃしないぜぇ」
「ちっ、まぁたハズレかよ。どうする?」
辺りに散らばっていた男達が戻ってくる。余り気にせず、黙考した。街があるのなら、行ってみたい。
それに、ドルチェ…という名前は、嘗て自分のものだった研究施設ではないか。あそこに行けば、あの植物を保存して育てることが出来るやも―――
「仕方ねェ、こいつでも連れてくか?」
「――――――何?」
会話のベクトルが自分に向けられたことに気付き、はたと目線を上げる。何時の間にか自分は、ぎらついた目をした男達に包囲されていた。
「食いでは無さそうだが、無いよりマシだ。とっ捕まえてバラしちまえ」
「………お前等、本気か?」
「弱ェモンは食いもんにされる。当然のこったろ?」
自分を囲む男達の目に本気を見て取り、軽い眩暈がした。
――――そこまで、この世界は壊れたのか。
生物にとって絶対的な禁忌である同族喰らいを行わなければ、生き長らえないところまで来てしまったのか。
明確な食欲を向けられるおぞましさに、背筋が震えた。
「逃げようったって、無駄だぜぇ!」
立ち上がったところで、砂を蹴立てて、飢えた獣が襲い掛かってくる。
その内の一人が、影にひっそりと生えていた芽を踏みつけ、蹴り飛ばしてしまった時――――意識が、切れた。




「――――――――があああああああああああああああああああっ!!!」




吼えた。
夢中で、腕を振るった。
武器も持たぬたった一振りで、一人の男の上半身と下半身を泣き別れにさせたことにも、もう驚かなかった。
笑うがいい。
自分はとうに化け物だ。
あの炎を体中に浴びて、それでも生き長らえた化け物だ。
あまりにも簡単に人の命を千切り飛ばせる化け物だ。
人を喰らうこの獣達と、いったいどれほどの差があると言う?
「ああああああっ!! あああっ!! があああああああ―――ッ!!」
悲鳴も撲殺音も全て自分の咆哮にかき消した。
赤い砂が紅い水で染まっていく。笑いが漏れた。これで少しは潤ったか?
べとべとになった両手で髪を掻き毟り、天を仰いだ。
「ははあ…ははは、ははははははははは!!」
叫びはいつしか笑いに変わっていた。
太陽の見えない天に向かい、笑い続けた。






それからすぐに、有り合わせの着物を羽織り、バイクを一台ぶん取って走った。
消えかけた轍を辿り、半壊した嘗ての自分の研究所まで辿り着いた。
其処に居たのはやはり、僅かな食糧を争い、略奪しか考えない者達で一杯で。
半壊した食糧供給装置では、とてもこの街全ての人間を養うことなど出来ていなくて。
ああ。本当に、これ以上の絶望があるのならお目にかかってみたい。
生きる為に人を食い殺している人間を、目の当たりにした時、多分自分は完全に壊れた。
全ての生命維持システムの機能を止めるのは、赤子の手を捻るより楽だった。ここのセキュリティは自分を全て受け入れるのだから。
そのことに気付いたらしい者達が、激昂して自分に殴りかかってくる。
それを全て―――返り討ちに、した。
鉄棒で思い切り殴られても、刃物で腹を刺されても、槍が眼球を貫こうとも―――却って、心地良かった。




端から再生していくこの身体はもう、死ぬ事すら許されないんだ、お前達とは違って。
こんな世界に生きていてなんになる。
どうせ死ぬなら、いつ死んでも同じだ。
ならば俺はその引き金を引いてやる。
既に俺は、この世界の人間を皆殺しにしかけたのだから。




だから―――ギオ、お前だって。




俺と同じ、化け物なんだ。






×××




次に目が覚めた時に、其処には。

「…おお、生きとったかね」

皺だらけの婆さんがいた。





「………………………………」
唐突な衝撃に暫し呆然としていたら、
「あんた、呆けてんのかい。それとも言葉が解らんのかい、喋れんのかい」
皺の下から剣呑な目でぎろりと睨まれた。
「…呆けてた。理解できるし、喋れる」
ので、思わず素直に言葉を返していた。
「そりゃ良かった。口さえ通じれば、ここに寝かしとく価値はあるさね」
満足げに頷き、老婆は歩き去っていく。ゆっくりと辺りを見回そうとして、視界が酷く狭い事に気付いた。
片目に手をやると、ごわついた包帯らしき布の感触がした。
「触るんじゃないよ。目ん玉が潰されっちまってたんだ。死ななかっただけめっけもんと思いなね」
不機嫌そうな老婆の声を聞き、口元だけで哄った。既に布の下の傷は癒えかけているのが解った。恐らくそう経たない内に、眼球も再生されるだろう。
自分にとっては、当たり前になってしまったこと。しかし今、何も知らないであろう老婆に手当てされて、久しぶりに自分の体が人間離れしていることに気付かされて吐き気がした。ゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。そして自分が、「手当てをされた」という事実に漸く思い至った。
「婆さん」
「厭慧(イトエ)と呼びな。あたしを婆ちゃんと呼んでいいのはあたしの孫だけさね」
「…それは失敬した。じゃあイトエ、何で俺の傷を治そうとした? 生憎見返りはそんなに渡せないが」
かなり前に街―――元・自分の研究所を潰した時に、一応必要になるかと思って僅かな食糧は持ってきたが、思った通り殆ど口をつけなかった。必要としなかったし、無理矢理口に入れようとしても―――吐き気がした。
必要ないのに生きる為の行為を行うのがどうしようもなく嫌だった。
「おや、そりゃ残念だ。まぁ期待はしてなかったがね」
厭慧、と名乗った老婆はそれだけ言って、なにやら怪しげな瓶で湯を沸かし始めた。
沈黙が続く。表情には出ていないだろうが、かなり戸惑っていた。
期待をしていないのなら何故助けようとしたのだろうか。
「そら、お飲みな」
「………………」
何故温かい飲み物など出すのだろうか。
「何さね。あたしの顔がそんなに珍しいかい」
「いや、顔はそんなに。どっちかって言うと、あんたの人となりの方が珍しい」
「当たり前さね。人となりの同じ人間なんて、この世に二人といるもんかね」
どうも、会話が噛みあわない。どうするか、と思案しかけてふと気付いた。
「…ここは街か?」
「見れば解るだろうさね。あんたが街の外に倒れてたんで、若い衆に頼んで運んでもらったのさ。あたしの細腕じゃあんたみたいなデカブツ、運べやしないさね」
そこで、狭苦しい部屋の中を見回した。
あちこちに布が張られ、窓やドアの代わりを務めていた。床はしっかりしているから、恐らく廃ビルの中なのだろう。布の隙間、穴が開いただけの窓の向こうから、廃墟が見えた。
「この街に、名前はついているか?」
「ああ。オーシャンベイなんていう、けったいな名前さ。誰も意味なんか知らないのにね」
「オーシャン、ベイ」
思い出した。それは、確か。
自分の仲間の一人であった女科学者が、自分の好きな海の傍に建った自分の研究所をそう呼んでいた。
ドルチェ―――嘗ての自分の根城にて、残っていた設備によって座標を割り出して、直線距離で一番近い場所を目指したのが当ったようだ。途中殆ど休息など取らなかったので、流石に疲れ果てて倒れてしまったようだが。
「…何にせよ、助けられたか」
礼を言う気はとても起きなかった。一つの街を激情のままに滅ぼした後、本当に虚脱してしまった。死にたいとは思わないが、生きたいとも思わない。そして多分、死ねない。物理的にも、精神的にも。
「別に礼なんて期待しちゃいないさね」
心を読まれたような気がして、僅かに肩が揺れた。
「何を」
「そんな虚ろな目をしてる奴が、助けられて嬉しいとは思わんだろうさ」
「―――――――」
絶句した。皺の下の細い目から、全てを見透かされたような気がした。
自分の体も。
自分の心も。
自分の、罪も。
唇を震わせる前に、外からばたばたと足音が聞こえてきて思わず腰を浮かした。
「怯えるこたないさね。孫さ」
それに反論するより前に、入り口らしき布がシャッと引き開けられた。
「ばあちゃん、でっかいのが上がったって!」
小さな―――恐らく、自分の腰より下より背の低い少年は、裸足のまま駆け込んできて、自分の姿を認めると慌てて急ブレーキをかけた。
「ばあちゃん、そいつ起きたの?」
「見りゃ解るさね。そういやあんた、名前は?」
久しぶりに名前を問われた。咄嗟に、答えることが出来なかった。
だって、それは。
「……………忘れた」
ようやっと言えたのはそんな台詞で。老婆は動じる風もなくそうかえ、と呟いて孫に向き直った。
「賄(マカナ)。こいつを連れといで」
「ええ?」
「何?」
奇しくも同時に、疑問が二つの口から滑り出た。
「礼がしたいんだったらさせてやるさね。婆と餓鬼の二人暮しで、力仕事はしんどいのさ」
それを悠々と受け止め、老婆はきっぱりと断じ。
ゆっくりと腰を上げ、衣服を入れているらしい箱の中から何枚も服を取り出して放った。
「まずは着替えな。素っ裸で歩き回られたら、こっちが迷惑さね」





「災難だったな、兄ちゃん。ばあちゃんに拾われっちまうなんて」
祖母にマカナと呼ばれた浅黒い肌の少年は、沢山の瓦礫やらガラスの破片やらが散乱する道を、眉一つ動かさずに裸足で歩いていく。自分は、先程老婆から手渡された服を適当に身につけ、靴まで借りたので…老婆と子供の二人暮しで、自分に合う服が何故あったのかは甚だ疑問だったが…平気だがこの少年は―――。
「すんげぇ年寄りだからさ、ヘンクツなんだよ、愛想悪いし。まぁ運が悪かったと思って諦めなよ」
「…それは同感だ」
意味は微妙に食い違うだろうが、拾われたのは運が悪かった。―――あのままあの砂の中に、放っておいてくれれば良かったのに。
「でもま、ばあちゃんが外に出てなんか拾ってくるなんて、いつものことだからさ」
「そうなのか?」
「ん。怪我してるのは何でも拾ってくる。赤砂蟻とか砂漠蛭まで拾ってきた時は、俺が捨てにいかされたんだぜぇ」
心底嫌そうな顔をして、マカナは舌を出した。それがどんなものかお目にかかれたことはないが、その反応と名前からどんなものかはなんとなく予想がつく。
「怪我を治したら、どうするんだ?」
「また外に戻すんだよ。本当、無駄なことばっかりやってんだ、ばあちゃん」
頭の後ろで両手を組んで、心底参った、という少年の顔を見て、思わず顔が綻びかけた。
―――そんな風に思うのは、久しぶりで。慌てて顔を引き締めた。自分には笑うことなどもう出来ない筈なのに。
「…で、何をしに行くんだ?」
「ん? ああ、ほらアレ見ろよ」
少年が指差した先、道が唐突に海に沈没していた。どうもこの街=研究所全体が、何らかの理由で海に半分沈んだらしい。
鈍色の水が叩き付けられる波打ち際に、沢山の人が集まってなにやら小山を囲んでいた。
「―――!」
目を凝らして、その小山が巨大な魚である事に気がついた。まるで鎧兜を被ったような、外骨がある古代魚に良く似ていたが、自分の知識ではあり得ないほどの巨大さだった。
「うわ、もう捌きはじめてる! 行こうぜっ」
マカナが自分の手を取り、走り出す。伝わってくる人肌の温もりも、本当に久しぶりだった。抵抗しようと思えば簡単に出来るのに、振り解く事が出来なかった。





大の大人でも抱えきれない程の巨大魚の切身を、軽々と持ち上げるとマカナに目を丸くされた。通貨の概念が消えたこの街では、持ち帰れるだけ持ち帰って良いらしい。これで暫く飯の心配しなくていい、と少年は笑って言った。
3人のそれなりに豪勢な食事が終わり―――やはりあまり口をつけることが出来なかったけれど―――マカナは床に布を敷いて眠ってしまった。
全ての研究所に付属されていた防御用シェルターの内壁は時間に合わせて光量が調節されるので、久々に擬似的な夜の闇を味わう事が出来た。窓の傍に腰掛けたまま、僅かに皹の入った空を見上げる。
恐らく目覚めた時から混乱していた頭が、少しずつ冷えていく。
嘗て研究施設だった部分は廃墟のビルと化し、滅びを逃れたのであろう人達が沢山住んでいた。
鈍色の海に何の躊躇いもなく飛び込んで、異形の魚を捕り糧としていた。
沢山の人間が、普通に―――暮らしていた。
「っ―――――」
喉から込み上がってくる吐き気を堪えた。
この世界は、最早壊れたと思っていたのに。
ここまで普通に―――穏やかとすら見える生活を、見せられてしまった。



壊れたのは、自分の方ではなかったか?

勝手に絶望して、勝手に滅びを命じたのは、自分ではなかったか?

何を偉そうに裁き等行った?



――――お前はとうに、人間では無いのに?




「ここで吐くんじゃないよ。窓から下にやりなね」
「―――――」
何時の間にか後ろに、厭慧が立っていた。
「水でも飲むかい?」
「…いや。いい」
今は何を口に入れても吐き出してしまうような気がした。どうせ喉の渇きなど、感じていないのだし。
そんな自分の姿を見た老婆はどう思ったのか、そのまま床に腰掛けた。何を話すでもなく、黙ったままそこに座している。
「…あんたは。何で俺を助けたんだ」
知らず、責めるような声が出てしまった。
「別に助けたつもりはないさね。怪我をしてたから治しただけさ」
何のことでもない、という風にあっさりと老婆は答えた。
「…マカナに聞いた。あんた、人間だろうが怪物だろうが、怪我をしてたら拾うのか」
「ああ」
更にあっさりと、肯定が返ってきた。
「何でそんな事をする。自己満足か? 誰かを助けた愉悦に浸りたいのか?」
「五月蝿い男だね。助けたつもりはないって言ったじゃあないか」
只でさえ刻まれている眉間の皺が深くなった。恐らく眉を顰めたんだろう。
「じゃあ、何故――!」
荒げようとした声は、口の前に翳された皺だらけの指で止められた。ちろりと深い瞼の下から、床に寝ている少年を見、それから睨まれた。孫が起きる、黙れ、という意味だろう。了解、の意味をこめて渋々ながら頷く。
「無くなっちまうよりは、有る方がいいさね」
「――――――――」
答えが返ってきて。不覚にも、動けなくなった。
「この世界が真っ赤になっちまってから、沢山のモノが無くなった。これ以上は、無くならなくても良いじゃないか」
「―――あんた、前の世界を知ってるのか」
初めて、老婆の驚いたような顔を見た。勿論それは一瞬で、すぐ皺の下に埋没してしまったけれど。
「…昔の話さね。あたしが赤ん坊の頃の、話さ」
まるでその頃を見通すように、老婆は目を窓の向こうの低い空に向けた。
「親は入れかわり立ちかわり、あたしに前の世界の事を話して聞かせた。どれだけ、その世界が綺麗で、豊かで、幸せだったかを―――ね」
「――――――…」
ぎしり、と心臓が軋んだ。懺悔をしたくなってしまった。
世界を改変させてしまったのは、自分達なのだ。どんなに取り繕っても、八つ当たりをしても―――その罪は拭えない。
「沢山の人が―――昔を夢見たまま、死んでいったのさね。帰りたい、戻りたい、それしか言ってなかったね。他にもいっぱい死んだ――息子も娘も、孫も。生き残ったのはこの子だけさね」
緩く首を振って、老婆は俯いた。その視線の先には、安らかな顔で眠りこけている子供がいる。
「あんたも―――帰りたい、のか」
思わず、縋るように出てしまった声音に。
「どこに帰るってのさね」
馬鹿にしたように、老婆は返した。
「あたしは覚えちゃいないのさ―――そんな世界。この街でずっとあたしは生きた。それ以外の場所なんて知りゃあしないさね」
ゆっくりと、厭慧は立ち上がった。これで話は終わりだというように。
「―――只、目の前で何かが無くなるっていうのは、嫌な気分なだけさね」
後姿のままそうやって言葉を結び、自分の寝室らしき奥の部屋に入っていった。
それを見送って、裁きを欲しがった自分をたまらなく嫌悪した。
しかし今やこの世界は既に、古い世界を忘れかけているらしい――――。
「く」
笑いなのか呻きなのか、良く解らない吐息が口から漏れた。






気付いた時は、既にこれは夢だと思っていた。
目の前の扉を開けると、そこは白く清潔な部屋の中。自分が半生を過ごした、研究所の中に相違なかった。
『――、こんにちわ。随分寝不足な顔をしてるけど、捗りはどうかしら?』
大き目の白衣に身を包んだ少女―――アージェが、踊るような足取りでくるりと自分の周りを回る。
『あー悪ぃ! この前借りた資料、もうちょっとだけ貸しといてくれ!』
悪びれた様子も無く、薄い金髪の青年―――ラッセンが自分を片手で拝んで笑う。
『ねぇ見て見て! 素敵でしょう、これが原初の地母龍の再現なのよ!!』
ディスプレイの上の、どう見てもグロテスクな怪獣を指差し、心底嬉しそうに笑う―――メリーがいる。
『全く。少しは君も成果を出したらどうかね。仮にもここに名を連ねる選ばれた人間なのだから』
嫌味な口調のまま、髭を蓄えた男―――マッシュが肩を竦める。
「…やめろ……」
これは夢だ。
これは夢だ。
ぐらりと足が傾ぎ、後退ってしまった自分の背中に、どんと何かが当る。はっとなって振り向くと、そこには、
『どうしたんだい? ――君』
優しい笑みを浮かべて、自分が忘れた筈の名前を呼ぶあのひとがいた。




「ッ…やめろおおおおおおおおおお!!!」



絶叫した。
「見たくない! 見せるな! こんなもの、俺には見る資格なんて無い!!」
叫びに呼応するかのように、白い空間が少しずつ紅く染まっていく。
マッシュとラッセンは、粉粉に砕かれて潰れていく。
メリーは、上半身と下半身を真っ二つに分けられた。
そして、サカキさんは。
背中から血を溢れさせて、皆皆、紅い泥沼の中に――――
「うああああ〜〜〜っ!!」
頭を抱え、絶叫する。何時の間にか辺りは、赤黒い沼に沈み込んでいた。自分の膝から下も、既に埋まっている。ふと気付くと、唯一高台になっている場所が残っていて、そこに一つの人影が立っていた。
其処にあるのは、決して穢れず、何の感慨もその貌に浮かべず、只自分を見下ろしている冷たい視線だけ――――
「ギオおおおおおおおおっ!!」





「―――――ッ!!」
目が、覚めた。
「…ァッ!! か、はァ…!!」
どうやら僅かに、うとうととまどろんだだけだったらしい。頭を預けていた窓の桟から見える外は相変わらず暗かったし、マカナは寝返りすらうたず穏やかな寝息を立てていた。
「…何を、やってる…ッ」
こんなものは只の未練だ。もう二度と戻れないあの、ただ楽しくて仕方が無かった世界へのどうしようもない回帰願望だ。
そんな安らぎなんてもう二度と、自分に与えられる筈が無いのに。
両肩を自分の腕で抱きしめて、蹲った。
外はゆっくりと、白みかけていた。






「ふーん。婆ちゃんがそんなこと話すのなんて、珍しいな」
「そうか?」
「ん。昔の話なんて、全然しないよ。俺が聞きたがっても話してくんなかった。必要ないことなんだってさ」
便宜上、次の日と呼ばれる時間。昨日以来、何故かマカナに懐かれてしまった自分は、不本意ながら一緒に街を歩いていた。
決して活気があるわけではないが、人々が生きている街。
相変わらず凸凹の瓦礫の散った道を、裸足のまま少年はすいすいと歩いていく。やがてまた、海の傍にやってきた。鈍色の水は変わらず、どこか重そうに波を立て続けて、水没した建物たちを侵食している。
この街全てを覆っているはずの天蓋は、水平線近くに大穴を開けていた。成る程これなら半分水没する筈だ、と思いつつ、良くこんな状態でこれだけの人間が生き残ったものだと嘆息した。
「ここ、お気に入りの場所なんだ。婆ちゃんにはないしょだからな、本当は海にあんまり近づいちゃ駄目って言われてんだ」
「そうか」
海に張り出した鉄骨の上、危なげなく少年はそこに腰掛けて水平線の向こうを見渡す。その隣に立って、適当に返事を返した。
「…足は平気か?」
「へ?」
「いや―――、怪我が絶えないんじゃないか、素足じゃ」
ぶらぶらと中空に投げ出されている足が気になって、つい尋ねてみた。
「平気だよこんなん。すぐ治るもん」
「そうかもしれないが―――」
「ほらっ」
子供らしい強がりだと思っていたので、不意に見せられた足の裏に息を呑んだ。
確かに、傷だらけだったのに。血すら滲んでいたのに。
じわり、じわりと。失われた細胞が、復元されていく。
綺麗に、治っていくのだ。目の前で、今まさに。
「お前、それは―――」
「?? なに?」
「…いや」
口を噤んだ。言ったら恐ろしい事を自覚しなければならないから。
しかし回転の速い頭は、どんどんと事象を繋げて結論を出していく。
この世界の全てが核に侵されたとして。
こんな防護壁の壊れてしまった街で、どうやって人々は生き残った?
第一、自分が始めてあった人間共とて、ろくな装備も無しに平気で外で活動していたではないか。
「う…ぐ」
「兄ちゃん? ちょっと、大丈夫かよ!」
少年の純粋な心配と行為が、却って吐き気を促した。
なんてことだ。
なんてことだ。
化け物になるのは自分ひとりだけで良いと、思っていたのに。
とうの昔に、この世界は、
ヒトをヒトでは無くしていたのか―――――――――
言えるはずのない懺悔を紡ぎたくなった。
誰でも良いから、裁いて欲しかった。






ざざざ、ざざざ、と波の音だけが聞こえる。
「兄ちゃん、ほんとに大丈夫か?」
「…ああ……どうにか、な」
どれだけ時が建ったのか。二人で鉄塔の上に腰掛け、空に足を遊ばせながら海を見ていた。
「昨日も兄ちゃん、飯食わなかっただろ。駄目だぞ、ちゃんと食わないとおっきくなれないんだからな」
まるで自分より幼い子供に諭すような少年の言葉に、我慢できずに笑いが漏れた。
「これ以上大きくなってどうするんだ?」
「う。確かに」
自分の身長を見遣り、悔しそうに少年は頬を膨らませた。
「…どうして、お前らは」
「ん?」
「他人に優しく出来るんだ」
こんな地獄のような世界で、ここまで穏やかでいられるんだ。
突き放すような優しさも、無邪気な慕いも。自分にとっては重すぎて、却って辛くなる。
マカナは何度か目をぱちくりさせて、首を傾げながら答えた。
「俺、優しい?」
「ああ」
「そんなつもり、ないんだけどな」
両腕を組んでうーん?と本格的に考え込む。すぐに答えが出たのか、くるりと自分の方に向き直った。
「だって、誰かといっしょに居た方が嬉しいじゃん。いなくなっちゃうのは、寂しいよ」
「………………………」
そう言いながら自分を見つめ続ける少年の瞳は、何故か酷くあの老婆に似ていた。
この少年も、この世界に大切なものを削られ続けた一人なのだ。
「…なんだよ」
呆然としている自分をどう思ったのか、むうっと唇を尖らせて下から睨んできた。
「いや。…お前、やっぱりあの婆さんの孫だな」
「???」
首を傾げる子供に、本当に自然に口元が綻んだ。
それはすぐに、自嘲の笑みに変わってしまったけれど。
マカナがそれを不審に思い、唇を開いたその時、


ドウンッ!!


「「――――!?」」
不意に、水面が爆発した。自分達とそれほど遠くない場所で立った水柱に顔を見合す暇も無く、波飛沫を受けて尖塔がぐらぐらと揺れた。
「う、わああっ!?」
「―――マカナっ!!」
一番先に座っていたマカナがバランスを崩し、ずり落ちかける。咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わない―――!!
「ッ!!」
考えるより先に、身体が動いた。空に飛び出して、少年の腕を無理矢理掴んで引き寄せる。そのまま重力に任せて、海に落下した。水面に叩き付けられる一瞬前、小さな身体をしっかりと抱きしめて、自分の背中を打ち付けるように――――!!


バシャ――――――ンン!!


ゴボゴボと、重い水の中に沈んでいく。悪い視界を堪えて、目を抉じ開けると。
「―――――…!!」
恐らく先程の水柱の原因であろう生物の、数多の目が見えた。
ザバシャアッ!!
「ぶはっ!! …無事か!?」
すぐに水面に戻り、気を失っている少年を揺り起こす。
「げほっ!! …は、あ?」
幸い少し咳き込んだだけで、マカナは目を覚ました。
「今、なに…?」
「話は後だ――、あれは何だ!?」
「え…っ!!?」
水面を掻き、相手の身体の向きを無理矢理変えた瞬間、ゆっくりと水面が持ち上がり始めていた。


―――――ゾザザザザザッ!!


波がこんもりと盛り上がり、下からぬめぬめと光る暗緑色の触手と甲殻が現れた。
――――それを。どうやって形容したら良いのか。
最初は、海蛇かと思った。次に大蛸。次は蟹か蠍かと思った。しかし、それら全てを下半身に付属させた人間の女らしい体がせり上がって来た時点で、あまりの気色悪さに一度目を閉じずにはいられなかった。


ゴオオオオオオオオオオオ!!!


その女らしき姿は、まるで自分達の子を従えるかのように、乱杭歯の生えた耳まで裂けた口から咆哮を発した。それに答えるかのように、付属し追随していた海蛇、魚人、蠍の尾を持つ龍としか見えないもの、それら全てが吼えた。
「ひ……っ」
ひくりと喉を痙攣させて、小さな身体が自分の首にしがみ付く。ゆっくりとその化け物は、地上に上がりつつあった。
「まさか…ティアマトー…!?」
覚えが、あった。自分達の世界では、神話上の怪物と伝えられた、原初の地母龍。神を倒す為に自らの子としてありとあらゆる怪物を産み、軍隊と成したという。
そんなものが、この世界に居るはずがない。だが――――
「……そんな…」
喉が詰った。それは、確か。
嘗ての自分の同僚が―――遺伝子工学の為、実験的に因子を掛け合わした成果の中に、それをモチーフとしたモノが無かったか。
勿論失敗した筈だった。だが、少しでもそのきっかけが残っていて、それがこの壊れた世界と共に顕現したとしたら―――――!?
「…は、ははは」
「兄ちゃん…?」
笑いが漏れた。笑うしかなかった。
どんなところにも、自分達の罪は転がっていた。
怪物はのしのしとありとあらゆる足で這いずり、街の方へ向かっていく。
「…婆ちゃんが!!」
「―――掴まってろ!!」
マカナの声にはっと我に返り、子供の腕が首に回されることを確かめてから、思い切り水を掻いた。
身体にまとわりつくような水を払い、岸に上がると同時に駆け出した。
走りながら、なにをやっているのかと自問自答する。
この世界を壊したのも、こんな怪物を生み出したのも、全ては自分達の驕った研究が原因だ。今更何をする気なのか。何をしても変わらないのではないか。埒も無い質疑が繰り返される。


ゴシャアアアッ!!


「―――!!」
人々が逃げ惑う中、道を砕きながら進む女怪は、突き当たりの建物に容赦なく体当たりする。
「婆ちゃんっ…!!」
「―――ここにいろ!!」
どん、と少年の身体を突き飛ばし、スピードを上げる。自分の身体能力が出鱈目に高まっている事を、初めて感謝した。今にも軋み、倒れそうになっている建物に駆け込み、階段を飛び上がる。
「―――イトエええ!!」
名を呼び、一室に走りこんだ。見るも無残にぐしゃぐしゃになった部屋の中。倒れ伏して動かない老婆がいた。
背中に沢山の石片を刺したまま、ぴくりとも動いていなかった。


「―――――」


どくり、と心臓が鳴る。
「イト…エ、」
よろよろと、小さな身体に近づく。震える手を伸ばし、負担のかからないようにそっと身体を抱き上げた。
「………ふぅー…」
「イトエっ!!」
まるで命を吐き出すような、小さいけれど重い吐息が聞こえた。
「…大きな声、出すんじゃないさね…」
「しっかりしろ!」
「…マカナは、どこだい…?」
「――無事だ。それよりあんたが…」
「やれやれ…こんな老いぼれに、かかずらってる暇があるのかい?」
「何を、言って―――」
「あんたの欲しいもんは、ここには無いさね…あんたを裁いてくれる人間なんて、もういやしないのさ…」
「…………………!!」
息が詰った。何故、彼女がそんな事を、と。
「どう、して」
こふっ、と小さく老婆が咳き込んだ。恐らく笑ったのだろう。
「とんでもない罪を犯しちまった―――っていう、その顔さね。ぶっ倒れてる時から、ずうっとあんたは、そんな顔してたさ…」
その声が酷く優しく聞こえて。我慢できずに、叫んだ。
「…この世界の人間は皆、俺を糾弾する権利があるんだ。それだけのことを俺はしてきた! あんたも、マカナも!!」
「冗談じゃ…ないさね。人が他人を裁くなんて、出来やしないさ」
呆れたように、老婆は溜息をついた。その息はどんどん細くなっていく。


「自分を裁けるのは、いつだって自分だけさね――――」


その後。もう二度と、唇は動かなかった。
確実に冷えていく皺だらけの手を、握り締めた。
「…そう、だな。ああそうだ」
自分は驕り高ぶりすぎていた。
只研究が楽しいというだけで、例えきれない罪を犯して。
それを認めたくなくて、無くそうとして。
こんな簡単なことにも気付かなかったんだ。
「―――忘れてたよ、イトエ」
ギャリュウ、と何かの鳴き声が聞こえた。視線をやると、窓から大蛇の瞳が此方を睨んでいた。それと視線を合わせ―――久しぶりに、確かな意思が隻眼に灯った。
「何かが無くなるってのは――、寂しいもんだよな?」
それだけ言って、老婆の身体を抱えたまま―――飛んだ。


ズガシャアアアンン!!


「婆ちゃーん!!」
自分の家が崩れ去るのを見て、他の人の制止を振り切ってマカナは駆け出した。しかしその眼前に、ズダンッ!!と何かが降りてきた。
「! 兄ちゃん! 婆ちゃんはっ…」
「マカナ。―――ここから、動くな」
「え…」
地上数階からの高さから飛び降りてきた男は、そっと地面に厭慧を寝かせ、何事も無かったかのように立ち上がった。
何の躊躇いもなく、長身の男は未だ破壊を続ける化け物に近づく。
「この世界は最早、『俺達』の手の届かないところへ行ってしまった」
誰に言うでもなく呟いて、左眼に巻かれた包帯に手を伸ばす。
「それなら俺は、この世界に残った『俺達』の証を、全て排除しよう。それが俺の出来る唯一の償いだ」
ぐいっ、と乱暴に包帯を外す。その下に傷などなく―――ぱちりと瞳は開いた。髪と同じ、僅かにくすんだオレンジ色の。
「俺の名は、真。真実を求める罪人の名前だ」
嘗ての名前はもう捨てた。自分に似合いの渾名をつけた。
何故なら自分は、あの赤い砂の上、この世界にもう一度生れ落ちたのだから。
ぎ、と異形の化け物を睨みつける。沢山の獣の視線が、臆したように輝く。
小山のような体躯を持った邪龍は、この目の前の矮小な人間に確かに怯えていた。
「お前も―――只生まれてきただけだろう。俺を呪いたければ呪え。憎みたければ憎め。―――俺を決して許すな!」
もう、腹は決まった。覚悟は出来た。
この世界で亡くなる全ての命を、自分は背負うべきなのだ。
グギャアアリュウウウ!!
沢山の獣の口が、一度に咆哮してこちらに向かってきた。ぐ、と腰を落とし、躊躇いなく――――飛んだ。


「―――――オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」


拳を握り締める。重力に任せて、狙うは登頂、女の顔――――――――!!





――――――ドボグシャアアアアアアアアッ!!




ベキベキと、何かが砕ける音がする。相手の殻か、自分の骨か。それでも拳を緩めずに、肉の中に突き立てた。
思ったとおり、中枢部分はここだったらしい。背中から一面を半壊された巨大な獣は、悲鳴も上げず、ずるりと嫌な臭いのする臓物を吐き出しながら、ずるずるとその身を崩れさせ沈んでゆく。
「――――ふう」
暗緑色の血か粘液か、良く解らないものに塗れても、何も気にならなかった。
「兄…ちゃん…」
おずおずと、自分を呼ぶ声が聞こえて振り仰いだ。祖母の亡骸の前にしゃがみこんでいた少年は、その視線を受けてびくりと身体を竦ませた。
―――そうだ、それでいい。
もう自分は、安らぎなど感じてはいけない。
「世話になった。…すまなかったな」
この行為も、一時の宿の礼に過ぎない。





もうこの世界が、俺を必要としないのなら。
古い世界の生き残りである自分が、この新しい世界からその残滓を抹消する。
それら全てと共に、自分も消える。


きっともうそれしか、俺に出来ることは無い。

もう二度と、過ちを繰り返さないと誓って。






罪sin、と自らを名づけた青年の旅が、今始まった。