時計+人形

のんべんだらりんごった煮サイト

ふたり

海に来た。



「う…ぅおおおおおおおおおおおお!!! すっげぇー!!」
ざざざ、ざざざ、と寄せては返す波は、にび色の水から白い泡を蹴立てて、赤い砂浜を汚していく。
対岸などとても見えない「海」が、そこに広がっていた。
「いやっほー!!っとっとおおっ!?」
雄叫びを上げて波打ち際まで走ろうとした影は、突然襟首を引っ掴まれてぐいんと後に引っ張られた。
「くっ、苦し…何すんだよっ、祗園!!」
どうにか体勢を立て直して、仰け反りながら犯人を詰る。影より大分遅れて車から降りた祗園は、相手の服を掴んだ手をそのままに、サングラスの下から冷たい目で影を見下ろした。
「…迂闊に走るな。泡虫や餓魚に襲われるぞ」
「う」
出されたラインナップに一瞬影の頬が引き攣る。海に縁の無い街に住む自分達に取っては知識でしか知らないが、水泡が多く出来る砂浜に潜み、足音に反応して砂から出てきて血を吸う虫や、餌が無いのにどんどん身体ばかりが大きくなり、ついには死を覚悟して地上へ飛び出して獲物に襲い掛かる魚の恐ろしさはかなり聞き及んできた。この世界、海は人と相容れない場所になっていた。
「じゃー、近づくのも駄目なのかよぅ…」
むう、と唇を尖らせて影が不満げに呟く。一対一のタイマン勝負ならどんな化物でも遅れを取る気は無いが、先述の2種類は良く群れで行動する事が解っている。無鉄砲だと良く言われるが、決して勝てない喧嘩はしないのだ。
しかしそれでも、生まれて初めて見る光景をこんな遠目から流れるだけではつまらない。あわよくば泳ぎたいとまで思っていたのに。
「…海は人間を拒絶する。現在水分中の水銀濃度は10%を越えている。泳いだら死ぬぞ」
何を考えていたのか解ったのか、祗園が先回りして釘を刺す。その諌めに年甲斐無く頬っぺたをぷくっと膨れさせるが、こんな風に忠告してくれるのも嬉しかったりするので反論はしない。
近づくのは諦めて、黒い車の壁に寄りかかって海からの風を受ける。
「あー…やっぱ、風強いなぁ」
「…あぁ」
どうでもいい言葉に返事を返してくれるようになった。素直に嬉しい。
「潮の匂いって、しないのな」
「…昔の話だろう」
青い海、白い砂浜、潮の香り。そんなもの、味気ないデータの中でしか見たことがない。
太陽はいつも赤く淀んで。それに照らされ焼かれたように大地も赤い。生き物の気配は全くしない、無機物か、命の息吹を落とさない化物しか居ない世界。
人間が、追放されていく世界。
街からこうやって離れてみれば、まるでこの世界にふたりだけで居るかのような気がする。馬鹿か、とすぐに思い直したけど。
「……………影」
「え!?」
どうしてこいつは俺が恥ずかしい考えをしてる時に限って名前呼ぶんだ何か読んだのか、心の中だけで叫んで振り向く。やっぱり声は上ずってしまったけれど。
「………何故、お前は俺の側にいる?」
「はぁ?」
しかし、次に聞こえた問いに力一杯訝しげに声を上げてしまった。対する祗園はいつも通りの無表情のはずなのに、何故か少しだけばつが悪そうに見えた。それに少し溜飲を下げ、促すように小首を傾げてやった。
「…もう、お前はどこへでも行ける。何かの庇護を受ける必要は無いだろう」
「んー…」
かしかしと頭を掻いて呻く。この朴念仁の言いたいことは解る。もう自分達が縛りつけられていた場所は瓦解したし、ただ生きるだけならどうとでも生きていける自信はある。
だがしかし。
影は不機嫌を露に眉間に谷を作ると、祗園の前にだむ、と仁王立ちして、両手で相手の頬をべちむ、と挟んだ。
「…影?」
「あー、そうだよな。お前なんかいなくても、生きるだけなら簡単に出来るよ」
指を伸ばしてサングラスをずらしてやる。深い碧色の瞳が、僅かに揺らいだ。
それはきっと、彼を知らない人間には解らない程の揺らぎ。でも自分にははっきり解ったそれに、優越感に浸ってみた。
―――そんな目されたら、離れようないじゃないか。離れようなんて、勿論思ってなかったけど。
「ぶぁーか。生きるだけなら、っつったろ。ただ生きてっても、お前がいなくちゃ意味がないんだよ」
今度は瞼が僅かに仰のいた。してやったり、の笑みを浮かべて、ぐいっと首に体重をかけて無理矢理唇にキスしてやる。
「俺の人生には絶対お前が必要なの。…お前も、俺いなきゃもう駄目だろ?」
「…………………解らない」
予想の範疇内の答えだったので、満足げに頷く。
「いんだよ。俺、ずーっとお前の側にいるから、その間ずーっと考えとけ」
言った瞬間、横に垂らされているだけだった両腕が、影の身体を抱き寄せた。しがみつくような抱擁に狼狽たえたのは一瞬で、目を瞑って影も相手の首に両手を回した。
「…………いいのか」
「うん。…うん」
耳元で囁かれた言葉は小さかったので、自分ははっきり聞いたと解るように何度も頷いた。





行く先に死しかないこんな世界でも。
ふたりでいられるのなら、生きることはそう悪くない。